魔術師、自由を得る 一
初めて村を出て、隣の町までちょっとした冒険のつもりで歩いていた。
幅は決して狭くはなく、南側は平地が、北側には森が広がっている、そんな道だった。
村の皆が着ていたものと変わり無い、濃い茶色の貫頭衣を着て、なめした革の靴を履いて、少しのお金と食べ物を持って、村を飛び出した。
切っかけは、今思えば些細な事だった。
自分が男だと、誰も教えたくれなかった。
ずっと母や姉と同じだと、女なのだと思っていた。
そもそも男を見た事が無かったのだから気付きようもなかったのに、悪気は無いにしても散々にからかわれた。
そして感情のままに、村を飛び出してしまったのだ。
少し年上の男の子に出会った。
冒険者だと言う話の通りの、いかにもな格好をしていた。
革鎧や剣を身に付け、大きなバックパックを背負っていた。
初めて会った男性で、そして彼は優しかった。
やっぱり女だと勘違いされたけれど、話せばわかってくれて、でも何となく女性扱いだったように覚えている。
自分の話を親身になって聞いてくれた事がとても嬉しくて、彼に手を引かれるまま隣町へ、そのまた隣町へと幾つかの町を通り過ぎて行った。
そして辿り着いた大きな街で、売られた。
「レン!」
呼び声と揺すられる手に、レンは目を覚ました。
酷く汗をかいており、身体も肝も冷え切っていた。
がたがたと震える身体を抱き締めるようにして、自分を押さえ付ける。
しばらくその夢は見ていなかった。
起きている時に思い出しても、何ともなくなっていた。
やっと乗り越えられたんだと、思い込んでいた。
しかしそれは、不意を突いて襲いかかってきた。
まだ、克服など出来ていなかったのだ。
ユニアはレンの寝台に潜り込み、両の腕で掻き抱いた。
しっかりと強く抱き締め、震えを押さえると共に身体を暖める。
「大丈夫だから。
私がついてる、必ず守るから。」
それからレンは声無く泣き、疲れて眠ってしまった。
この細い身体に、どれ程のものを抱えているのか。
それを癒す事が出来るか、忘れさせる事が出来るか、ユニアには自信が無い。
ただせめて、そばにいよう。
それだけ、誓った。
東門の近くにルタシスの信仰する正義の神、イルハルの神殿はあった。
神殿とは言っても、いわゆる仰々しいものではない。
小ざっぱりとした家屋に祭壇と神像、それから長椅子を並べた部屋がある。
そんな簡素な神殿だった。
庭が広く取ってあり、そこは子供達の遊び場として提供している。
正義の味方と言って憚らないルタシスは、少年達にとっては良い遊び相手で、良い教育者でもあった。
ルタシス自身も子供が好きだったので、全く苦に思った事が無い。
小さな神殿だが、そこはルタシスにとってとても大切な、ようやく手にする事の出来た居場所だった。
ルタシスはかつて、モロウやユニア、ティカ達三人と共に旅をしていた。
つまりは元冒険者である。
東の大国、皇国の首都で出会った四人は、この町に来るまでたくさんの冒険を繰り広げて来た。
洞窟に住み着いた魔物の退治や悪どい領主の失脚の手伝い、古代遺跡の調査に、もちろん些細な人助けも。
そしてその果てに迷宮の噂を聞き付け、この町を訪れた。
しかしそこで、ルタシスは先代の神官と出会った。
年老いた彼は自身の死期に当たり、ルタシスへ後継を頼んだ。
他に誰もいない神殿だったものだから、選択肢など無かった。
けれど、後悔は無い。
いつかは神殿を持ちたいと考えていたし、この町の人々をルタシスは気に入っていた。
大きな神殿でもないので自由も効く。
そんな言い訳をしながら、ルタシスはここに根を下ろす事とした。
今は、幸せだと思えている。
この町では、慈愛の女神エルハルが広く信仰されていた。
町の中心に大きな神殿があり、ほとんどの人間はやはりそちらを中心に信仰している。
しかしエルハルとイルハルが姉弟関係の神である事から、イルハルを蔑ろにする者はいなかった。
エルハルの信徒でありながらイルハルに礼拝する事が許されており、対立とは無縁であった。
おかげで小さな神殿でも肩身の狭い思いをする事も無く、管理が楽な分元冒険者のルタシスにはありがたかった。
子供が遊び、その親が世間話に花を咲かせ、たまにはその輪に混ざって愚痴を聞く。
時折エルハル神殿からも人が訪れ、或いは逆にこちらから訪ねて、親交を深めた。
何もかもが順調で、ルタシスはすっかりこの町の住人となっていた。
「突然聖都から視察が来るとかで、こっちは大忙しだよ。」
そう話したのは、エルハル神殿から息抜きにルタシスを訪ねて来た若い神官、テリルだ。
長身なルタシスより少しだけ背の低い、中肉中背と言ったところの男で、穏やかそうな顔立ちはいかにもエルハル信者らしい。
ルタシスと同じような形の、白く柔らかなローブ着て、緑の地に金で装飾を織り込んだ帯を首にかけている。
その帯はエルハルの信徒である事を示しており、ルタシスの場合は青の地に銀の装飾である。
ローブも、ルタシスのものは少し色合いが暗く、灰に近い。
それは、エルハルが太陽と大地の豊かな緑を象徴しており、イルハルが月と空の鮮やかな青を象徴としている事に由来する。
「わざわざ聖都からとは、遠路はるばるご苦労様と言ったところだな。」
この町は大陸の西を占める国に統治されている。
国号は法国、国主は法王。
エルハルを国全体で信仰しており、どんな小さな村でも神殿と神官を置いている。
その首都が、聖都だった。
エルハルの大神殿があり、そこはいわば総本山的な役割を持っている。
聖都は、かつてエルハルが降臨したとされる伝説の土地に建設された城を中心に栄えた。
悪魔に憑かれ欲望の限りを尽くした君主から人々を助けるために降臨した、そんな伝説だ。
この地に城が建てられ、時の大司教が初代法王となってより、この国はエルハルの名の下に平和な時代を迎えている。
聖都からこの町までは、馬車でも片道に五日はかかる距離だ。
もし間にある町や村にも寄るのであれば、恐らくは十日程になるだろう。
冒険者であったルタシスにとっては大した道程ではないが、そうでない者には辛い日程だと思える。
それが仕事とは言え、同情してしまう話だ。
「何でも、大神殿で大司教様の下について従っていたエリートらしい。
そんな話だから、今うちらの神殿は上を下への大騒ぎさ。」
「こんなところで油売っていていいのか、それは。
恨まれても知らんぞ?」
「そこはほら、慈悲の心で・・・ね。」
テリルは笑って、それでも気にかかったのか帰って行った。
呆れ顔で見送るが、そんなゆるりとしたところは嫌いでなかった。
その日の夜、ルタシスは久しぶりに酒場を訪れた。
月に一度程度で飲みたくなる事があるのだ。
そして今夜は、そんな気分だった。
今はかつての仲間はいないだろうなと期待せずに中へ入る。
「主人、こんばんは!」
「よう、ルタシス!
ユニアだけなら来てるぜ。」
三人は家にいるのだろうと思い込んでいたルタシスは、主人の指し示す先を見て驚いた。
そこではユニアが手を振っている。
そして、見知らぬ少女が同席していた。
「ルタシス!
この間ぶりね!」
「ユニア!
今日は家の方じゃないのだな!
同席しても良いかな?」
ユニアが少女に確認すると、彼女も快諾してくれた。
可憐な少女だが、見ない顔だった。
最近町を訪れた冒険者だろうか。
「イルハル神殿の正義の使者、ルタシスだ!
よろしく!」
いつもの勢いで手を差し出し、握手を求める。
「レ、レンです。
よろしくお願いします。」
少々引かれたが、握手には応じてもらえた。
「あんたの迫力は初対面にはきついって。」
「ははは。
多少引かれた程度、どうと言う事も無いさ!」
かなり演技を入れているが、こう言った事が嫌いでない性分に、いつの頃からかなっていた。
この方が子供達にも評判が良いので、改める気は全く無い。
椅子に座って、まずは店員に注文を頼む。
飲みに来ているので、酒とつまみを三品程伝えた。
今日はそこそこに客が入っているので、少し時間がかかりそうだ。
であればと、簡単に自己紹介を済ます事にする。
「ユニアとは冒険者をしていた頃の仲間なのだ。
今はすぐそこのイルハル神殿に住んでいる。
些細な用事でも構わない、いつでも来てくれ。」
はい、と穏やかな笑顔でレンは応えた。
優しそうな印象だ。
ルタシスの胸に、何か暖かいものが広がって行く。
「レンはね、私を助けてくれたのよ。
この子がいなかったら、私は死んでいた。
魔石を持って帰れなかったわ。」
「何と!
それでは、俺達全員にとっても恩人ではないか!」
思わずレンの手を取り、両手で包む。
「ありがとう!
この恩は忘れない、必ず報いよう!」
それからルタシスは、事のあらましを聞いた。
詳しい事情をまだ聞いていなかったレンも、ルタシスと一緒にその無茶苦茶な行動に呆れた。
「仕方無いじゃない。
モロウを生き返らせないとさ、義姉さん見てられなくて・・・。」
「しかし、一人で行く事はなかったろうに。
まあ、無事だったのだから、これ以上言うまい。
よくやったぞ、ユニア。」
七階を一人で探索するなど、無謀過ぎる事だ。
ユニアやルタシスの実力では、四人は必要なところなのだ。
胃に悪い話だった。
「しかしレイスを倒せたか。
見ない内に、また腕を上げたな。
もしかしたら、剣術に限ればこの町で一番なんじゃないか?」
「比較した事が無いからわからないわね。
自信はあるけど。」
にやりと笑う。
ルタシスの耳に入っている話では、現在は七階が最新の記録だ。
そこまで潜れている冒険者が、二組程いる。
しかし彼らでも、レイスは避けると聞いた。
それ程恐ろしい魔物だった。
「そう言えばさ、エルハルの人達が忙しそうだったわね。
何かの催し?」
「あれか。
いや、聖都の大神殿から視察が来るそうだ。
急に決まったような様子だったな。」
「なるほどね。
それは忙しくもなるわ。」
そんな雑談をしていると、突然レンの顔色が優れなくなった。
ユニアがすぐに気付いて、レンの手を握る。
「大丈夫?
少し、震えてる?」
「任せろ。」
ルタシスは手を差し延べ、祈りの言葉を呟き魔法を使った。
差し延べた手から柔らかい光が溢れる。
それは精神を静めるための魔法だった。
効果が発揮され、レンは急速に落ち着きを取り戻す。
ほっと安堵した様子で、顔色も良くなり震えも止まった。
「ありがとうございます。」
顔を覗き込み目を見つめて、ルタシスは一つ頷いた。
しかし、油断は出来ない。
今のは恐らく、過去の精神的な傷によるものだ。
それは、一度発生したら容易く再発する。
「今日はもう休む?」
ユニアの言葉に、レンは首を振った。
きっと動きたくないのだ。
静かな場所へ行こうものなら、また思い出してしまう。
容易く、再発してしまうのだ。
でも、と言いかけるユニアの肩をルタシスは叩く。
「まだ夜は始まったばかりだ。
俺達の冒険の話でも聞いてもらおう。
たまには思い出話も良いだろう。」
そう言ってルタシスは、四人で経験して来た様々な出来事を話して聞かせた。
子供達に聞かせるような冒険活劇だったが、レンは笑って聞いていた。
「ルタシス、あなた話が上手くなったわね!
昔は固いばっかりの人間だったのに!」
ユニアも次第に調子が良くなり、三人は日付が変わる頃まで楽しく過ごした。
「ルタシスさんて、変な人ですね。」
寝台に転がりながら、レンは思い出して笑う。
話がとにかく大袈裟で、身振り手振りも大仰で、それが目を引き、他の客まで巻き込んで独壇場となっていた。
今までに会った事の無い人物だった。
それが神官だと言うのだ。
型破りにも程があると言うものだ。
「でもあんな風に、人を笑わせたりするようになったのは、この町に来てからじゃないかしら。
元々話せる奴だったけど、どことなく厳格だったのよね。
イルハルの信者って、大概そうだけど。」
正義を信条とするイルハルの信徒達は、基本的には自己にも他者にも厳しい。
身体と精神をしっかりと律してこそ、正義はその身に宿る。
それが彼らの教義とも言えるのだ。
「さ、寝ましょ。
ほら、少し詰めて。」
えっと声を上げる。
ユニアは優しく微笑んで、構わずレンの寝台に潜り込んだ。
そしてきつく抱き締める。
その夜、レンは悪夢を見ずに済んだ。
ルタシスは、酔い覚ましに町を散策していた。
「レン、か。」
ユニアの選んだ、新しい仲間の少女。
彼女の命を救ってくれた人物であり、間接的にモロウやティカ、ルタシスをも救った大恩ある人物。
しかしレンには、過去に辛い出来事があったようだ。
それをどうにかしたい。
それをして、恩に報いたい。
過去の傷に怯える必要の無い生活を、レンに贈りたい。
震える少女の顔は、酷いものだった。
顔色を無くし、目は見開き、焦点は合わず、歯の根も合わない。
身を縮めて震わせ、強ばらせて固くなっていた。
それだけの変化が、ほんの短い時間に引き起こされたのだ。
過去に何があったのか、どれ程残酷な仕打ちを受けて来たのか、察するにあまりある。
はらわたが煮えくり返る思いだった。
これ程の悪を見過ごす事など出来るはずがない。
(大神殿の話をした途端に、レンはそうなってしまった。
ならば当然、引き金はそこだ。
聖都の大神殿、一体何があるのだ?)
本来ならば、そこへ出向かなければ調べようが無い。
しかし今ならば、数日後には視察に人がやって来る。
しかもおあつらえ向きに、大司教の息のかかったエリートが来ると言う話だ。
何としても、話を聞き出したい。
しかしその方法は、ルタシスには思い付けなかった。
いや、正確には幾つか案はあるのだ。
正義の神を信仰する者として、それを実行出来ないと言うだけの事だった。
神殿へ帰ったルタシスは、神に祈る。
少女の心を救いたい。
しかしそれには、悪行を自らの手で行わなければならない。
正義を重んじるルタシスには、不可能なのだ。
そしてもちろん、他者にそれを唆す事も出来ない。
それは同じく、悪行なのだから。
ルタシスは初めて、正義の不自由さを思い知っていた。
真っ向から問い質す事は出来ない。
相手は当然話さないだろうし、こちらが探ろうとしている事を悟られてしまう。
少女が怯え震えている事を訴えても、彼らは一笑に付して白を切るだけだ。
そしてここに、レンがいる事を知られる。
それはただの、悪手だ。
「俺に出来るのは、精々彼女の身柄を守る事のみ、か・・・。」
ルタシスは、己の無力に憤った。
村と村とを繋ぐ道を行く、一台の馬車があった。
金属の板でしっかりと守る型の、貴族が使っているような大仰な馬車だった。
表面にエルハルの印が刻まれており、それが聖都の大神殿からのものであると主張している。
馬車の周りには、戦士風の男を乗せた馬が三騎。
前に一騎、後に二騎で守りについていた。
御者も同じく戦士風の者であったが、こちらは女性であった。
急いだ風ではなく、速度は穏やかなものだったが、彼らの表情には緩みが無い。
彼らが向かうのは、法国の僻地。
例え平和な国と言えど、その片隅となれば話は変わってしまう。
魔物や賊などが闊歩する、危険極まりない土地なのだ。
ここまでの道中でも、既に四度の襲撃を受けている。
その際に仲間を一人失った。
この旅の危険性を甘く見積もっていた事が原因であると言えた。
世が未だ乱れたままであると、実感を伴って思い知らされた。
聖都近辺しか知らない彼らは、大海を知らぬ蛙であったのだ。
「最悪、馬車だけでも向かってくれ。
その後は、冒険者でも雇うしかあるまいが。」
前を行く戦士が、御者に言った。
彼らの任は、馬車を無事に届ける事。
手段を選んでいられる余地など無い。
懐から金の入った袋を取り出し、投げ渡す。
それは彼らに割り当てられた、路銀だ。
事ここに至っては、御者が持っている方が安全だろうと判断した。
「お前の判断で構わない。
必ず神官様をあの町までお連れするのだ。
我らは、いざとなれば捨て石となる。」
覚悟を決めた者の、毅然とした顔がそこにあった。