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「ああ……あああっ、フラン」
城に戻ったマルティアーゼは寝室で泣き続けていた。
城では警護が強化され、マルティアーゼの部屋の外にも兵士が何人も立ち、厳重に警護されていた。
マルティアーゼは部屋に戻されてから何の連絡もないまま日付が変わり、朝になるまで誰とも会えずに部屋の中にいた。
寝室の椅子で一夜を過ごしたマルティアーゼは、座ったままうつらうつらと泣き疲れて眠っていた。
部屋の扉を叩く音にも気づかず、入ってきた人物に揺り起こされるまでマルティアーゼは眠ってしまい、
「……はっ、フラン」
目覚めた彼女が顔を上げると咄嗟にフランの名を告げた。
ぼやけた視界が鮮明になって見えたのは、母のアリアーゼ公妃であった。
「……お母様?」
結い上げた金色の髪でフランかと思ってしまったマルティアーゼは、アリアーゼ公妃と目があると涙が溢れてきて母親に抱きついた。
「あああっお母様フランが……フランが刺されてしまったのよ、私の代わりに私を守るために……あああ」
公妃はそっとマルティアーゼの頭に当てて優しく撫でながら落ち着かせていた。
「大変な目に遭いましたね、貴方に何事もなくて母は安心しました」
「でも……フランが、暴漢の手に掛かってしまったのよ、ねえフランはどうなったか知らない? 助かったわよね」
「私は貴方が祭りで襲われたとさっき聞かされたので此処に来たのです、侍女のことは何も……」
「フランが刺されて口から血が……、背中からも沢山の血が出ていたわ……恐ろしい」
思い出したかのようにブルブルと身を震わせていた。
「もう考えるのはおやめなさい、貴方のために身を張ってくれたのですから助かる事を祈りましょう」
公妃が優しく抱き寄せマルティアーゼの額にキスをした。
「暫くはお稽古はしなくても良いので部屋で休んでいなさい、よいですね部屋から出ては駄目ですよ」
「……はい、お母様」
何と言ってもまだ十四歳、自分の目の前で人が倒れるという場面に慣れているはずもない。
一日中部屋の中を歩いたり疲れて眠ったりと、食事は侍女が運んでくれてはいたが、食べる気も起きず運んできた侍女を見ては余計に寂しさが込み上げていた。
いつも側で話相手をしてくれたり諫めたりしてくれたフランがいないのがとても不安に感じられて、侍女に聞いても知らぬ存ぜぬの一点張りで、マルティアーゼに伝えないようにしているのかもどかしさだけが募っていく。
数日後、グレン候が部屋にやって来て一礼をした。
グレン候の顔には重苦しい、笑顔のない真剣な表情で、
「よろしいかな、王には申し上げたがマルティアーゼ様にも報告した方がよろしかろうと思って参りました、なにせお気に入りの付き人を目の前で亡くされたのだ、心中落ち着かなかろうと思いまして」
グレン候の言葉にマルティアーゼが驚いた。
「なん……て、今なんて言ったの? そ、そんな……フランが、フランが死んだって言うの……」
口を押さえて目を見開きながら聞き直した。
「手は施しましたが出血が酷くて手当ての甲斐なく……、犯人の方も何も聞けないまま死亡致しました、そこで姫様にお聞きしたくて参ったのですが、お命を狙われる心当たりは御座いますかな、どんな些細なことでも構いませぬ」
「うう……、そんなフランが……私のために……」
「お辛いのは分かります、ですが付き人のためにも真犯人の捜索にご協力をお願いしたいのです」
一緒に過ごした人がいなくなり、これから生きていく時間にその人がいないことがとても寂しく、どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまい、何も考える事が出来なかった。
小さい頃から親しく、唯一心置ける人物がいなくなるというのが、こんなにも悲しいことだと初めて知った。
「ああっ、ううう……」
その場で泣き崩れてしまったマルティアーゼにグレン候が寄り添ってきた。
「マルティアーゼ様お気を確かに、いささか話を急かしすぎましたか、ですがいずれはお伝えしなければならぬ事、それは分かって頂きたい」
泣き崩れたままのマルティアーゼを見て、これでは話しが出来ぬと考えたグレン候が諦めてそっとマルティアーゼに言う。
「今日の所はこれまでにしておきましょう、落ち着いて何か分かりましたらいつでも連絡して下され」
マルティアーゼはグレン候の手を借りて椅子まで連れて行って貰い、グレン候が出て行った後も部屋で疲れ果てるまで泣き続けていた。
(この城で私のことを想って接してくれる人がいなくなった、いつも何があっても側に居てくれた人がいなくなった、フランだけがいつも私の我が儘を聞いてくれた人だった、私はこれからどうやって生きていけば良いの、一人になる位ならいっそあのまま……)
宮廷育ちのマルティアーゼにとってフランは数少ない心安まる良き理解者で、気がつけばそこにいつもフランがいて話相手にも遊び相手にもなってくれていた、優しい姉であり母親のような人であった。
「失礼致します」
入ってきた侍女が頭を下げた。
「本日よりマルティアーゼ様の侍女として参りましたサロンで御座います、何なりとお申し付け下さいませ」
「何も無いわ、出て行って」
冷たく言い放つマルティアーゼに侍女は頭を下げて退出していく。
新しい侍女になど興味は無く、最低限の用事だけを申しつけて、なるべく部屋に入れさないようにした。
マルティアーゼの日常はお稽古と勉強もしないで一人で部屋に閉じこもることが多くなり、誰とも話をしようとしなくなっていつもベランダで空を眺める毎日になっていた。
泣くでもなく笑うでもない無表情な瞳には、青い空と緑の森が映っていただけであった。
たまに侍女がお茶はどうかと聞かれても「要らない出て行って」とだけしか云わず、言葉を忘れてしまったのかと思うほど、それだけしか言葉に出さなかった。
「もう何をしていても楽しくはないわ、このままずっとこのお城で何十年も楽しみもなく生きていかなくてはいけないのね、街の人達みたいに人と楽しんだり分かち合うこともなく、ただ一人この部屋で街を見下ろす生活になるのよ、たまに王族の職務だとか公式のお披露目なんてものに担ぎ出されたり、好きでもない人と婚約させられるだけのお人形のような人生を送るのよ」
マルティアーゼが空を見ながらため息をついた。
どんなに思っても自分の生き方に明るい未来があるとは到底思えない、落胆と悲哀が彼女を包み込んでいた。
こんなにも国は大きく、国の外にも広い森や山があるというのに、自分の居場所はこの狭い部屋で、一人寂しく生きていかなければならない運命に絶望していた。
「失礼致します、マルティアーゼ様、大公陛下がお呼びで御座います」
外を見ていたマルティアーゼは黙って部屋を出てローザン大公の部屋へと向かって歩いていると、廊下の曲がり角でディアンドルに出会った。
ディアンドルは冷たい視線と笑みを浮かべたアルカイックな表情を彼女に向けていた。
「お、おはよう御座いますお姉様」
目があったマルティアーゼが慌てて挨拶をする。
じっと見つめていたディアンドルの口から驚きの言葉が出た。
「マルティアーゼ、貴方の侍女が死んだんですってね、お気に入りの侍女を失ってさぞかし寂しいでしょうね、私の侍女を貸してあげましょうか、あっははは」
「…………」
マルティアーゼに顔を近づけてきたディアンドルが大声で言う。
「フランも可哀相に、貴方なんかのために死ぬなんて同情しちゃうわ、ふふふっ」
高笑いをしながら去って行くディアンドルに、何も言えず目に涙を溜めていた。
ディアンドルが居なくなってからもじっと佇んでいるマルティアーゼに、侍女のサロンが声を掛けてくる。
「マルティアーゼ様、大公陛下がお待ちです」
フランとは違い、冷たい何の感情も伝わってこない事務的な言葉を伝えられる。
「……分かってるわ」
涙を拭いてローザン大公の部屋に向かう。
サロンが扉を叩いてローザン大公に告げた。
部屋に通されたマルティアーゼはローザン大公の顔を見たとき涙があふれ出た。
「……お父様」
「危ない所じゃったな、無事で何よりじゃったな」
「フランが亡くなりましたわ、もう私どうしたら良いのか……」
マルティアーゼは父親に抱きついて泣き崩れる。
「何を言う、侍女のおかげでお前が助かったのではないか」
「私なんかが助かっても何も出来ないのに、フランを助ける事もただ見ているだけでしか出来なかったのよ、フランの方がよっぽど有能なのにどうして私が助かったのですか」
「これこれ、そのような事を言う物では無い、お前の立場がどれ程重要なのか分からぬのか」
大公がマルティアーゼの頭を撫でながら言う。
「そのようなものが何の役に立つの、そんな理由でフランが死んで良いわけがないわ」
「まだお前には分からぬ事じゃな、国とは守るべき指標があれば民はそれを守るために結束出来るのじゃ、お前は民から愛されておる、お前がいるだけで民の意識も一つになっておるんじゃぞ」
「そんなの……それでは私はただの道化ではないですか、私にも感情もあれば願いもありますわ、城で寂しく生きるだけの人形になんてなりたくない」
マルティアーゼが首を振って否定した。
「お前がここで幸せに民を見守ることこそローザン家の役目なのじゃぞ、よき婿とよき子供に囲まれながらこの国の安寧を願って居てくれれば良いのじゃ、それのどこが人形なのじゃ、儂はお前が幸せに暮らしてくれる事を願っておる、侍女はお前のために身を捧げたのじゃ、それだけ大切に思われているからこそ我が身を惜しまず差し出せたのだと思うぞ、それなのにお前は自分が死んでも良いなどとは侍女に申し訳ないとは思わぬか」
「だって……」
一人残されたマルティアーゼに味方と呼ばれる人は、宮廷に親以外何処にも居はしなかったのだ。
その親も表面的にしか見ておらず、マルティアーゼの本当の気持ちを理解しようとはしてくれない不満が彼女にはあった。
冷たい言葉と事務的な世話をされるだけの日々を過ごし、不安と寂しさに彼女は押し潰されそうになっていた。
フランにはもう甘えることさえ出来ず、こうして親の胸で甘えることが次にいつ出来ることか、大人になれば余計にこのように甘えることさえ出来なくなってしまう寂しさもあった。
部屋に戻ったマルティアーゼはまたいつものように、一人寂しくベランダで外の景色を眺めるだけの生活に戻って行った。
それから二ヶ月、あまりにも部屋でじっとしているにも疲れてきて、庭に散歩に出ていた。
侍女は後ろで待たせておいて、一人で庭の中を歩き回って気分転換をしていた。
もうじき冬が訪れる数少ない陽光を浴びられる晩秋の日。
今日も晴れた青空が綺麗に緑の森との境界線をくっきりと色分けていて、肌寒いそよ風が庭の小さな花々を揺らしている。
「もうすぐしたら外に出るのも辛くなるわね」
庭から望む練兵場では兵士達が訓練をしているのが見える。
皆汗を流し、号令一下隊列を組み替えて指示に従い走り回っていた。
「あんなに汗をかいて……、倒れないのかしら」
幾ら練習で軽い革鎧を着ているとはいえ、こんな日でも鎧の中は蒸し風呂のようになっているだろうに思われた。
隊列の先頭に立つ兵士の顔からは滝のように流れ落ちる汗が、遠くからでも分かるぐらいに見えていた。
「あれは……トム」
必死に隊長の指示に集中し、後ろの兵士を引っ張っていく副隊長のトムがいた。
まだ若く活力溢れる姿は、今のマルティアーゼにない生き生きとしていて、眩しく感じられていた。
「王族として生まれた私なんかよりどれだけトムのほうが人生を謳歌しているのかしら、武芸も達者でお話が出来る人達に囲まれて、なんだかとても自由に生きてる感じがするわ」
兵達が休憩に入り、トムが仲間達と水飲み場でひとときの団らんを享受している様子をマルティアーゼが羨ましそうに眺めていると、兵士の一人がマルティアーゼが庭から覗き込んでこちらを見ているのに気づき、立ち上がって敬礼を始めると周りの兵達も同じように皆、立ち上がり敬礼をしていく。
その中で敬礼をしているトムと目が合った。
それに対してマルティアーゼは手を振ると、その場から立ち去って城へと戻っていった。
部屋に戻ると一人椅子に座ってため息をついた。
「はぁ……私もあのように誰かと共に一つのことをやってみたいわ、勉強もお稽古もいつも一人……、誰かと共に一緒に汗を流すなんてどれだけ楽しいのでしょう」
マルティアーゼはその日から、暇があれば庭に出て練兵場で訓練をするトムの姿を日々眺めていた。
その様子を姉のディアンドルが城の窓からひっそりと見つめていて、侍女に何かを話していた。