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縛られたように身動きできず、暗く深い水の中で漂っていた。
息苦しくもあるのに息をしようとすると素直に出来る。
「はぁはぁ、ここは何処……、身体が思うように動かないわ」
沈みもせず浮かび上がる事も出来ず、周りに何も無い暗い水の中で漂っているだけだった。
遠く頭上には小さな光が見えるが、そこに浮上するにはどの位の時間が掛かるのだろうと、他人事のように考えていた。
(身体に重さがないみたい、ここは一体……)
意識だけがはっきりとしていて、指先一つ自分の意思で動かせずに静かに小さな光だけを見つめていた。
ゆらゆら揺らめく光の中に黒点を見つけた。
それは次第に大きくなり、光を消していった。
それをじっと見ていたマルティアーゼの顔に驚愕と焦りを覚えた。
黒い点は大きくなっていたのではなく、マルティアーゼへと近付いてきていたのだった。
近付くにつれて見えてきたのは、ディアンドルの顔だった。
口角を上げた冷笑を浮かべたディアンドルはマルティアーゼの眼前まで迫り、大きく口を開ける。
「まだ生きているの、なんてしぶとい小娘なの、ローザンでは貴方のことなどもう誰も気にも留めていないのよ、貴方が何処で死のうが何も変わらない、生きている方が皆に迷惑なのよ、さっさと死んでしまいなさい」
ケラケラとディアンドルが笑う。
その大きく開いた口の奥底からもう一つの顔が、ディアンドルの口を押し広げるように出て来た。
「マルティアーゼよ、もう其方のことは考えないようにしておる、ローザンの未来はディアンドルがおるでな、其方はもう用済みじゃ、男と駆け落ちなどする不貞な娘など儂らの娘などではない、もう二度と帰ってこなくて良いぞ」
「まぁなんて汚らわしい娘なのでしょう、これならディアンドルの方が私達の立派な娘ですよ、国を捨て男と旅になどと……王族としての誇りもないなんて、身を汚した娘を持ってしまった母は悲しいです、もう貴方の顔など見たくありません」
次々と口の中から現れる家族の蔑んだ表情がマルティアーゼに恐怖をもたらす。
「ああ……お父様、お母様まで……私にそのような事を仰るのですか……、汚れた娘、確かに傍目から見れば駆け落ちのように男女が国から逃げ出したみたいに見えるわ、けど違うの……私はそこにいては押しつぶされて駄目になるの、お姉様の嫌がらせにも王族としての立場にも、私は私でありたかったの……もっと自由に立場や責務などと壁のない自由な生き方をしたいの……人々と同じ目線で同じものを見て、同じ事を感じたかっただけ、たったそれだけを望むことすら出来ないの?」
マルティアーゼは叫んだ……つもりだったが、声は広がりを見せずくぐもった声を喉から発していた。
「生意気よマルティアーゼ! 私を言い訳にするなど偉くなったわね、傲慢もそこまでいくと滑稽に見えるわ、グレンもその言葉を聞けばさぞや失望することでしょうね、あははっ、本当の貴方の醜い本性をしれば民も貴方のことを太陽の公女などとはもう言わなくなるわ、あはははは……」
ディアンドルの蔑んだ冷たい笑った目が、マルティアーゼに反論させない圧力がのし掛かる。
「あ……ああっ……、ああぁぁ……、わた、私は……ちが……う」
泣きたくとも涙を出せばディアンドルのいい笑いものにされてしまう、目を潤ませながらも必死に堪えて泣かないように声を震わせながら、ディアンドルの目を見つめていた。
代わる代わるディアンドルと父や母の顔が口から出て来ては、マルティアーゼに嘲笑を浴びせていく。
次第に声は大きく響き、頭の中にまで響いてきて聞きたくないのに抗うことも出来ず、マルティアーゼの身体は水の底に落ちていく感覚が襲う。
三人の顔が遠く離れていくのに声だけは明瞭に頭の中に響かせながら、暗い何も見えない所にまで落ちて気が遠のいていく。
意識が落ちる寸前、どこからともなく三人の嘲笑の中に一人、聞き覚えのないしわがれた老人のような声が混じっていた。
「…………力を……己……信じ」
「…………」
途切れ途切れの言葉に耳を澄ませる。
「使い……全ての……あるが……ままに」
返事も出来ずただ笑い声の中からその声に意識を伸ばし、薄れていく僅かな中でその言葉を記憶させようとしていた。
「…………はぁはぁ」
飛び起きたマルティアーゼが初めに見たものは、ほのかに灯った蝋燭の薄暗い部屋の中だった。
荒い呼吸で何度も深呼吸をすると、視界がはっきりとしてきた。
「また、嫌な夢を……」
ちらりと隣を振り向くと、トムが眠っている。
マルティアーゼは微かに上下するトムの胸の動きを見て少しほっとした。
「落ち着いたようね」
寝台から降りてトムの腕を確認してみると、牙の跡の変色した色はすっかり消えていて傷跡だけが残っていた。
あの薬は毒消しだったのだと安心すると、詠唱を唱えて傷口を治してあげた。
「これでもう大丈夫ね」
一息つくと、さっき見ていた夢の事が気になった。
悪夢だというのは覚えている、その内容までははっきりとしていなかったが、覚えていることはディアンドルと父と母の笑い顔だった。
「何故三人は笑っていたのかしら……」
笑っている三人を見てマルティアーゼは何故恐ろしく感じていたのか、それがさっぱり分からなかった。
動悸と圧迫、逃げ出したいのに逃げ出せない恐怖だけが強く残っていた。
「何があったというの、どうして逃げたいと思っていたのかが分からない……」
夢の話だからと深く考えない方が良いですよ、とトムなら言うだろうが、マルティアーゼは何か重要なことを言われたような気がしていた。
「また何も分からず仕舞いだったわ」
トントンとノックが聞こえ、マルティアーゼが扉を開けると、扉の前で老婆が立っていた。
「起きておいででございましたか、ゆっくりと休まれたですかな?」
「え、ええ……有り難う御座います、お陰で身体も温まりました」
「それは……ようございました、ご主人が起きておられたなら食事を一緒にでもどうかと申しておりますが、いかがで御座いましょう?」
物静かにしわがれた声で老婆が言ってきた。
廊下は暗く、蝋燭の明かりで老婆の子は異様な表情を浮かべている様に見えている。
「それは丁度よかった、挨拶も兼ねてご一緒させて頂きます」
「お連れの方はどうですかな?」
「ええ、薬が効いているみたいでよく寝ています」
「そうですか、ではお連れの方の食事は後で持ってくるとしましょう」
「お気遣い感謝致します、では支度をしてきますので少々お待ちを」
「はいはい」
一旦扉を閉めて服装を改め直すと、老婆に付き従って大きな食堂に案内された。
天井の高い大きな部屋に長細い食卓が一つ中央に置かれていて、その卓に二人で食事をしている人物がいた。
「この館の主、バンキッシュ家当主セレステア様で御座います、お隣は弟君のホーラン様で御座います、セレステア様お客人をお連れ致しました」
「うん、どうぞ座って」
マルティアーゼは目を丸くして当主セレステアを見ていた。




