53 暁の館
一瞬にして外套の色が変わるぐらいの激しい雨の中に出た。
何処を見ても真っ暗で月明かりも厚い雲に隠されていて、真の闇の中。
頼りないランタンの明かりだけが足元を微かに照らし続けているだけだった。
「はぁはぁ……姫様、道に迷わない様に山沿いを進んで下さい」
ぼんやりとした頭で絞り出すように考えを巡らしたトムが荷台から声を掛けた。
「分かったわ」
右側に山の斜面を見ながら、馬車を誘導していく。
闇の中で地面に落ちる雨音だけが耳に入ってくる。
草原は高い木々が少なく本来なら遠くまで見渡せるのだろうが、今は足元の僅かな部分しか見えず、少ない情報で必死に馬を操りながら精一杯に出せるだけの速度で進んでいく。
知らず知らずのうちに眉間に皺を作りながら道無き道を凝視しているマルティアーゼは、瞬きをするのも忘れたかのように集中していた。
馬達も見えない暗闇を進みのが怖いのか、マルティアーゼがいくら手綱を引いても速度を上げようとしなかった。
どのくらい時間が経ったのか、ザァザァと雨音だけがずっと耳の中でこだましていて、荷台からはトムの声すら聞こえなくなって久しく感じるほどだった。
山肌は一向に途切れることなくずっと右手に見えたまま、麓に沿って走り続けていた。
(何処まで来たのかしら、全く街明かりや道すら見えてこない……、もしかして全く違う方向に進んでいるとしたら……)
その先の言葉を出す事は自分に対して不安を強調させてしまう、今ここで自分が恐慌状態に陥ってしまえば自分だけではなく、トムの命まで助かるものも助からなくなってしまうのではと、ぎりぎりの精神で自分を抑えていた。
闇という巨大な相手にか弱い女性が一人立ち向かい、何もしてこない、ただそこに広がっているだけの闇は恐ろしくあった。
敵という確固たる相手がいるならまた違う緊張や怖さがあるにせよ、明確な手段でもって排除も出来るが、自然の敵に対しては人は無力でありどうすることも出来ないもどかしさと恐怖に耐えなければならなかった。
(…………)
時折、目に映るものが一瞬何かに見えたような錯覚でビクリとして鼓動が早くなりながらも、懸命に手綱を握って何処かに通じる道に出ないか見逃さないように前だけを見続けていた。
(夜というだけでもねっとりと絡みつくような嫌な感じがするのに、雨の所為で何かが近付いてきても物音すら分からないわ)
本来なら草原らしく遠くまで見渡せる景色がここにはあり、何かしらの動物の走る姿も見ながら陽気に降り注ぐさんさんとした陽光の下、ゆったりとした旅が出来るのだろうが、今はとにかく何か考え事をしておかないと自我が失われそうな、視覚と嗅覚の狭められた世界で必死に自分の存在を確かめようと、マルティアーゼは己と向き合っているのが精一杯だった。
(トムは大丈夫なのかしら、あれ以来すっかり静かになってしまったけれど、死んではいないわよね、止まって容態を見てあげたいけれどとにかく今は何処でも良いから人の居る場所を探さないと……)
それはいつなのか、何処まで走れば見えてくるのか、変わらない風景のまま走り続けていると、いきなり雑草の地面に砂地が現れた。
「!」
マルティアーゼが手綱を強く引いて馬達を停止させた。
「……」
(これは道?)
左右に伸びる砂地は人道なのか獣道なのか舗装もされていない、ただ踏みならしただけのような地面だった。
(何処に繋がってるのかしら……、少なくとも何かが通った跡に見えるけど……)
洞窟を出てからかなりの距離を走ってきたと感じていたが、速度も遅く実際は山すら越えていないのではないかと感じる事も出来た。
しかし、やっと見つけた道らしきものを無視は出来ず、これが道で何処かの町に通じていると信じたかった。
(行くしかないわね、でもどっちに……)
どちらに行くにしても馬車の周りしか道は見えない。
マルティアーゼは走ってきた道を思い出しながら向かうべき方向はどちらなのかを考えた。
(殆ど真っ直ぐに走ってきたはず、緩やかに曲がっていた所もあるにせよ大まかな方向は南に向いてるはずよね、それなら……)
決断すると直ぐさま右へと馬首を変えて動き出した。
(最悪でもこのまま真っ直ぐ行けば何処か海に出られるはず……、そこまで行けば例え町まで遠くとも迷う事はなくなるはずだわ)
それが現在の最善と思い、あとは砂地の道をひたすら進んでいった。
何も分からず暗く道無き草原を走るよりは、道らしき所を目印に走るだけでもかなりの不安と緊張が解ける。
道は山間部へと続いていて、緩やかな坂を上ったり下ったりしながら抜けていく頃には雨の勢いも弱まり、薄らと空に明るく見えてきた。
夜通し走り抜いていつの間にか夜明け時に差し掛かってきていたのだ。
地平線が綺麗に横一文字に分けられ、広大な草原が広がっていた。
「ああ……海が見えない、道を間違ったのかしら」
しかし、走る道の先にぽつりと細長い建物の影が僅かに見えてきた。
暗くて何も無いと思っていたら、近付くにつれて道沿いに建物があるのだと確認出来たのは、近くまできて視界に大きな長細い何かの影を認識したからであった。
大きな木かと思っていたが、綺麗に真っ直ぐ伸びた煙突のような突起物が二本、 平べったい館のような家から伸びていた。
その館は何も無い草原の中に不釣り合いで、周りの風景に溶け込む気もないようで、レンガ造りの建物が平地にひっそりと建っていた。
「人は住んで居るのかしら」
建物には明かり一つ灯されておらず、しんと静まり返っており、目の前まで来ても大きな影にしか見えず、その影に窓枠が微かに見えるだけだった。
どこからが敷地なのか柵さえもなかったが、一応ここからが敷地だと分かるように草が抜かれて土が四角く家の周りだけ除去されていた。
「人……はいるのかしら、まだ寝ているのかも……」
やっと見つけた人家が町ではなく草原の真っ只中であったが、やっと人心地がつけるかも知れない唯一の場所だったので、迷わずに館の横に馬車をつけると、マルティアーゼはランタンをもって館の玄関まで歩いて行った。




