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「おじき! やった、ざまあみ……や……」
バイカがやっと戻ってきてくれた味方に安堵して叫んだ瞬間、開けた口がそのまま凍り付いた。
トムはバイカの表情を見て後ろを振り返ると、一瞬にして沸き上がる恐怖で汗が滲み出てきた。
ゴードンの目はうつろで、滑るように炭鉱から姿を現すと全身が蜘蛛の糸で巻き付けられて繭のようになっていた。
その後ろからゴードンを持ち上げていた巨大な蜘蛛が姿を見せた。
マルティアーゼもバイカの様子がおかしいと振り返り驚愕していた。
蜘蛛は色鮮やかな黄色と黒の縞模様の腹部を脈打たせ、長い足を不規則に動かして入り口の天井に移動するとゴードンの身体に大きな牙を突き立てた。
ゴードンの口からはうめき声とも悲鳴ともとれる嗚咽が漏れてくると、深々と突き刺さった牙から何かを注入されているのか、ゴードンの顔に苦悶の表情が出てきて小刻みに震え出した。
みるみるうちにゴードンの顔がどす黒く変色していき、身体が身震いするとしだいに動かなくなる。
三人はその様子をじっと見つめていた。
というより動くことが出来なかった。
蜘蛛の細く長いうねうねと動く足と無機質に鈍く光る八つの目がいつなりと襲ってくるのではないかと狙いを定めているようで、頭の中では逃げなければと思いつつも動くことが出来なかったのである。
「ああっ、あああ……、おじきが……」
バイカが目の前で殺されていくゴードンに何も出来ずにただただ震えて、マルティアーゼもトムもこの状況に飲まれ佇んでいた。
「姫様、早く、城に……城に行って下さい」
トムは我に返ると、自分の任務を思い出してマルティアーゼに叫んだ。
「そんなこと……出来ないわ」
マルティアーゼはトムとバイカを交互に見た。
トムは怪我をしていて思うように動く事が出来ず、バイカと蜘蛛に挟まれている状況では連れ出す事もできない。
(早くトムを医者に診せないとあんなに血が……、でもどうすれば……)
蜘蛛はすでにどす黒くなったゴードンの身体に、何かを植え付けているみたいで突き刺した大きなお腹を波打たせている。
「あああ、おじきいぃ」
蜘蛛の糸で坑道の天井に吊されたゴードンを見て、バイカは恐慌状態に陥り叫んでいると、蜘蛛はその声に目を光らせた。
うねうねと足を動かし炭鉱の外に出てきた蜘蛛は、壁伝いに移動すると頭を下にして三人を見下ろした。
それと同時にマルティアーゼがトムに駆け寄って、肩をかしながら少しでも蜘蛛から離れようとした。
「トム、頑張って」
脇腹を押さえながら痺れる足を引きずり坑道から離れていく二人に蜘蛛が糸を飛ばしてきた。
マルティアーゼの側に飛んできた糸が地面にへばりつくと、
「きゃあああ」
驚きながらも必死で遠ざかろうと懸命にトムを誘導するが、蜘蛛は何度も糸を飛ばしてくる。
「捕まるわけには行かないわ、頑張ってトム」
蜘蛛はバイカにも糸を飛ばしてどちらかを捕まえようとしていた。
バイカも避けながら逃げたい気持ちとゴードンの事が気になり躊躇していると、それが仇となって足に糸が絡まってしまった。
「うわああ、た、助けてくれ」
手で糸を引きちぎろうとするが、粘つき掴んだ手も糸が取れずに暴れれば暴れるほど体全体に糸が絡まってくる。
「助けてくれ、もう何しない、食われるのは嫌だぁ」
叫び声を上げる言葉を気にするゆとりもなく遠ざかって行く二人を見て、バイカは涙を流しながらゴードンの様になる自分の運命に身を震わせていた。
「姫様、もう私は……」
トムは下半身に力が入らなくなってきてがくがくと膝から崩れ落ちた。
「トム、駄目よこんな所で倒れたら、あの化け物に襲われてしまうわ」
逃れたとは言えないほどの距離でマルティアーゼが後ろを振り向くと、バイカは既に手足が糸でくっついていて身動きが取れなくなって地面に転がっていた。
そのバイカに何度も蜘蛛が糸を吐き、バイカの身体を糸で隠そうとしていた。
「生きたまま殺されていくなんて、何て恐ろしい……」
マルティアーゼが嫌悪と悪寒で身震いをしながら、倒れたトムを全力で引きずって行こうと体を動かす。
「姫様ぁぁ」
遠くからマルティアーゼを呼ぶ声が聞こえてきた。
はっとしたマルティアーゼが声のする方へ顔を向けると、遠くに小さな火が幾つも見えていた。
「此処よ、助けて」
大声でマルティアーゼが助けを呼んだ、するとバラバラだった火が集まりだしてこちらに向かって声を上げながらやって来た。
「トム、人よ、助かったわ」
マルティアーゼが喜んでトムに教えるが、トムは目を閉じたまま動かなくなっていた。
「トム、しっかりして」
走ってくる明かりに自分の居場所を知らせるために、マルティアーゼは何度も大声を上げる。
「ここよ、早く来てトムが大変なのよ」
マルティアーゼが魔法を唱えると、地面に投げつけた青白い炎が燃え上がり青い火柱となった。
「そこですか!」
駆けつけてきたのは町の警備兵二十人ほどだった。
「姫様ご無事で……、私は警備隊隊長サイレスで御座います」
サイレスとその部下達が敬礼をした。
「それよりトムを……怪我をしているのよ、早く連れて行ってあげて」
マルティアーゼの傍らで倒れている同僚を見つけると、四人の警備兵がトムを抱えて急いで街に連れて行く。
「それで姫様あれは…………」
警備兵が震える指で地面に転がっているバイカを指差し、白い繭になった彼の上に乗っている黒く大きな蜘蛛を見て驚いていた。
「あれはそこの坑道の中に居た怪物よ、私達を襲ってきた男達が二人……いえ三人があれに繭にされてしまったわ」
「なんと……あの様な物がこの炭鉱に……」
町から目の鼻の先にあった炭鉱の中に巨大な蜘蛛が住み着いていた事に、警備兵達が驚いていた。
「姫様は危のう御座います、早くお城にお戻り下さい、大公様や公妃様が御心配なさいます、あの蜘蛛めは我々で退治致します……、ゆくぞ、誰か姫様を城までお届けしろ」
兵士五人がマルティアーゼにつき、残りの兵士が蜘蛛を取り囲む様に広がった。
「姫様お急ぎを、ここにいては危険で御座います」
兵士の一人が連れて行こうとするがマルティアーゼは一歩も動こうとせず、蜘蛛に向かって行った兵士達の動向が気になっていた。
蜘蛛はバイカの身体に何かを注入してる動作をしていて、それを兵士達は剣を構えながら見ていた。
人一人分はある胴体に広げれば三人の背丈よりも長い足を持つ蜘蛛はバイカの身体から脈打つ腹を引き抜いた。
かちかちと牙を鳴らして、近付こうとしている警備兵達に恐怖を与えていた。
「かかれ、足を狙って動きを封じろ」
隊長の号令で一斉に剣を振りかざして蜘蛛に斬りかかって行く。
蜘蛛は前足四本を高々と上げて向かってくる兵士に長い足を振り下ろしてきた。
長い足が何度も振り下ろされては剣と交わり鈍い音が響き渡る、足の先の長い爪は剣の攻撃を簡単にはじき兵士達の胸めがけて突き刺そうとしていた。
八つの目と四つの足で襲ってくる十人の兵士を的確に翻弄させて、間合いを詰めさせなかった。
剣より早く飛んでくる爪を防ぐのが精一杯で、兵士達も容易に近づくことが出来ずにいたが、一人の兵士が蜘蛛の後ろに回り込み、大きな腹に剣を突き刺すことに成功した。
ギギギッと鳴いた蜘蛛が剣を抜こうとしている兵士に素早く全ての足を絡みつけると団子のように丸く抱きかかえた。
「ぎゃああ」
八つの足で身体を押さえつけられた兵士が悲鳴を上げる。
不気味な骨が砕かれる音と、何かが潰されるようなグジュグジュという音が、他の兵士の耳に流れ込んでくると捕まった兵士の声が次第に小さく消えていった。
拘束を解いた蜘蛛の足の間から、肉の塊となった兵士がゴロリと転がり落ちたのを、他の兵士達がみて驚愕した。
顔であったものは既に赤く、部位が分からなくなるほど丸い肉の塊になりはて、身体中には大きな穴が幾つも空いて絶命していた。
兵士の体から離れた蜘蛛は他の兵士達に向けて足を上げた。
「ひぃ」
やられた仲間の亡骸を見て血の気が引いた兵士達が後ずさりをする。
「馬鹿者、うろたえるな、この化け物を始末せねば住民に被害が及ぶやも知れぬ、我がローザン大公国の兵士ならば立ち向かえ」
サイレス隊長の怒号が響く。
「待って」
そこへマルティアーゼの言葉が入ってきた。
「その化け物は普通の剣では無理よ、私の魔法で焼き尽くして」
そう言うと兵士の持つ剣に次々と魔法を掛けていった。
青白い炎が刀身全体に纏わり付いていくと、マルティアーゼが蜘蛛に向かって魔法を投げかけた。
蜘蛛の周りに炎が上がり火柱となって逃げ道を塞ぐ。
「おおっ、これは凄い、これが姫様のお力で御座いますか」
「魔法が途切れる前に早く」
「姫様から勇気の炎をいただいたぞ、これで恐れるものはない、皆の者一斉にかかれぇ」
炎の熱さで恐慌に陥ってる蜘蛛に向かって兵士達が突撃を掛けた。
剣が蜘蛛の足とぶつかれば足が青い炎で焦がされ、身体に剣が突き刺さると身を焦がす臭いと共に炎がそこから全身へと広がっていく。
ギギギッと悲鳴を上げてのたうち回る蜘蛛が、火柱にぶつかるとパチパチと身体を炭化させていった。
次第に蜘蛛は足を身体の内側に丸めて身を縮めていくと、黒い物体へと変わり果てていった。
周囲には何とも言えない焼けた臭いが充満して、皆、口を塞いでいた。
「おおっ、やったぞ」
暴れた蜘蛛の炎は死んだ兵士やバイカの繭にも燃え移り炎を上げていた。
「これで終わりました、姫様は早くお戻り下さいませ、後のことは我らが……」
「ええ……、助けに来てくれて有り難う」
「何を仰いますか、当然のことで御座います」
「では隊長、姫様を城までお連れして参ります」
警備兵全員が敬礼をするのを見届けると、人々に見つからないように護衛に守られながら城に戻っていった。
長い逃避行が終わりを告げ、町の外で燃え続ける青白い炎の明かりは何かの儀式をしているように、取り囲んでいる兵士達を照らしていた。