184
懐かしい顔ぶれとの再会も過ぎゆく時間に逆らうことが出来ない、彼女にもしなければならないことがあったし、トムの安否も気になっていた。
プラハに着いてからは、ここまで来ればアルステルへあともう少しだと手の届く距離に逸る気持ちを抑えていた。
トムと別れてからもうどのくらいの時間が経ったか、とても長い時間に思えるしそれほどの時間でもないような気もした。
生まれて初めての一人旅、何も分からない世間知らずの公女の隣で、世間の常識を教えてくれたり時には彼女の行動を諌めたりと、少しずつ護衛から戦友へと変わりつつあったトムのいない旅。
広く暑い砂漠の国を抜けて緑あふれる森の国へ、久しい友人達との再会を果たしながら、あとはアルステルのトムとスーグリの元に帰るだけであった。
以前通った道を進んでいくと二股の道が現れそれを右へと曲がった、ここを左に行っていればアルステルの山脈越えに向かうのだが、地図では遠回りだが海岸線に出られる道が載っていて山を越えずに行ける道があった、山脈の上の方はまだ白く雪が積もっているのが森の間からでも見えていたので、なるべくなら凍った道を行くより平坦な道を目指そうと雪解けまでの時間稼ぎに海を目指すことにした。
遠く横目に連山を眺めながら見渡す限り長くどこまでも続く山脈は、ここからでもその尖った山々がどれほどの高さであるのか手に取るように分かった。
長さでいえば世界最大の連山だったが、高さでは大陸の最南端にある山が世界一で、その高さは到底人が登れる高さではなく、幾人もの挑戦者がその半分まで行けず命を落としてきた死雪山と呼ばれる山がある。
そこまでの高さはないとは言え、この大連山も装備を怠れば凍え死ぬことさえある険しい山であることは間違いなかった。
北方と熱帯を隔てるこの連山のお陰できれいに季節が分断されており、冷たい空気も暖かい空気も互いに大連山を乗り越えることが出来ない。
アルステルに行く街道は連山の谷間を利用した所に道が通っていたが、その街道もかなりの高さを登らなければならず、くねくねと長い山道を登れば気温もかなり下がってくる。
昔はこの険しい道が唯一の北方と南方を繋ぐ街道だったが、今は遠回りになるがアルステルから東西に街道が出来て、沿岸州へもミーハマットへも行くことが出来る様になっていて、商人などは安全に迂回路を経て交易を行っていた。
「まだこの辺りでは寒さも感じないわね」
一本道の森は比較的木々に間隔があったため閉塞感もなく、降りてくる日差しが道に光の柱を作り、それに当たる空気が霧のように白く見えていて、乾いて澄んだ空気が森を駆け抜けていた。
「雪の季節なんて何年ぶりかしら、国を出た時はまだ雪が降る前だったからもう二年……いえ三年近く見てないわ、あの身震いするような濃い白の景色、動植物のざわめきの聞こえてこない時が止まったような静けさも随分と味わって無いわね」
あれ程、城の生活に飽き飽きして姉のディアンドルとの確執にも心痛めていた国を、今となってはどうして懐かしく思えてくるのだろうと、まるで他人事のように感じて不思議と胸の痛みが沸き起こらない自分自身に驚いていた。
(お姉様がトムを追放していなければ、私はまだあの城で外の世界に夢見たまま過ごしていたのかも知れない、フランの居なくなったあの寂しい城でやっと話し相手が出来たと思っていた彼を、お姉様は自分の側近に迎え入れて捨ててしまった)
それがマルティアーゼに国を出るきっかけとなったのは言うまでもなく、ディアンドル自身にとっては願ってもないことであっただろうが、彼女が居なくなったことでローザン大公国は光を失った国に変わってしまった。
病気で療養中と国民には発表していたが、どこからともなくマルティアーゼが国を捨てて何処かに行ってしまったと噂が広がり、残されたディアンドルではこの国はもう終わりだと国民に動揺が広がっていた。
そんなことを露ほども知らないマルティアーゼは、規則正しく歩く馬に揺られてウトウトと居眠りをするほど気持ちのいい旅をしていた。
陽が傾き始めてようやく何処か宿を探さなければと気付き、馬を走らせる。
宿は森の街道沿いで見つけることが出来、今日はその宿で泊まることにした。
「つい気持ち良くてゆっくりしちゃったわ、焦る必要もないんだけれどのんびりもしていられないわよね」
客の少ない宿でのんびりと休むことが出来たが、食事の方は口に合わなかったみたいで、半分食べただけで部屋に引きこもっていた。
「何あの不味い料理は……、色も何だか茶色い物ばかりで泥水のようなスープも変な味がしたわ」
マルティアーゼは美食というわけではなく、カルエの村も緑と茶色中心の料理だったが不満を感じるようなものではなかったし美味しく食べることは出来た、しかしここの宿の料理は同じ茶色でも苦味しか感じない水っぽいスープに、何の肉か分からなかったが固く筋張っていて濃い味で誤魔化してるような焼き肉、そして焼きすぎたパンだった。
どれを食べても口に苦味しかなく、顎が疲れる固い肉を食べていると苦行をさせられているような感じを受け、食欲が鳴りを潜めて食べるより餓死したほうが楽だとさえ思えるようなものだった。
「この宿に人が居ないのはそういうことなのかしら……、外れを引いちゃったわ」
口直しに干し肉を取り出して同じ固い肉でもこちらのほうが何倍もましだと、ゆっくりと噛みながら寝台に横になった。
「もうすぐだわ……ミーハマットを出られればアルステルまで直に着く、なんて長い一人旅だったかしら、図らずも砂漠まで流されてしまってから色々とあったけれどようやくここまで来られたわ、後はトムが生きてちゃんと戻ってくれていればいいのだけれど……スーグリは心配してるでしょうね、トムが生きていればきっと私一人ではまともにアルステルに帰って来られないと思ってるでしょうが、私だって少しは成長した所を見せないといけないわ」
窓から見える夜空には星々が瞬き、その夜空を見ながら想いはアルステルにいるであろうトムとスーグリに、もうじき一人旅の終わりが近付いてきている安堵から眠りに落ちたマルティアーゼのあどけない寝顔に、夜空の青白い光が優しく投げかけられていた。