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(やるしか無い! こんな所で死ぬわけにはいかないんだから)
川は深いところではマルティアーゼの背ほどあるはずだったが、ガブにとっては浅瀬にしか感じておらず、水の流れも物ともせず手足を使ってかき分け、水しぶきというより水柱を上げて突進してくる。
(あの頃より幾多の経験を積んで成長したのよ、自分を信じるのよ)
マルティアーゼは詠唱を唱え、ガブが水から上がってくる前に仕留めようと思った。
火球は一直線に飛んでいきガブの体が爆発を起こす。
「やったわ」
昔に比べて大きな火球がガブに直撃して、咆哮が森に響く。
燃え盛る炎に身を包まれたガブが体を左右に振ると、纏わり付いた炎が一瞬にして消え去った。
「!」
何が起きたのかマルティアーゼには分からなかった。
仕留めたと思ったガブの右目は潰れ周囲の皮膚が焼けただれていたが、倒したわけではなかった。
「まともに食らったはずなのに……、火が消えた」
ガブの体毛の固さと含んだ水のせいで、爆発がした場所以外の炎はガブの皮膚を焼くまでにはいかなかった。
マルティアーゼ目掛けて再度突進を始めたガブは、川から上って吠え立てた。
「……」
逆に怒りを買ってしまったマルティアーゼは、もう一度火球を唱えて足を踏ん張った。
「足を止めないと……」
地鳴りのような突進に狙いが定まらず、見る見るとガブの巨体が迫ってくる焦りで、投げつけた火球がガブの足元の手前で爆発した。
「……外した」
もうもうと上がる煙から、ガブはその巨体を強靭な脚力で軽々と飛び越え、マルティアーゼの頭上に襲いかかる。
がああぁと咆哮を上げたガブは、両手を広げてマルティアーゼに爪を伸ばした。
まるで十本の短剣が頭上から振ってくるように、触れれば簡単にマルティアーゼの肉を引き裂き解体してしまうであろう威力を備えている。
両腕の間からは肉を喰らおうと涎を垂らしながら口腔を開けて太い牙を覗かせていた。
「ああっ!」
マルティアーゼの目には走馬灯が映った。
(やられる……詠唱が間に合わない、トム達に……カルエやザックス達、皆とも会えなくなる……、スグリの笑顔ももう見ることが叶わない………………、いやっ、そんなのは…………嫌よ!)
マルティアーゼの瞳の色が金色の輝きを放った瞬間、彼女の足元に円が浮かび上がり体は霧のような白い光に包まれたと思ったら、周囲に爆発を巻き起こした。
その衝撃波は巨体のガブすら吹き飛ばすほどの威力があった。
(生きる)
ガブは先程までいた川辺りまで飛ばされ、何が起きたのか雄叫びを叫ぶしか出来ず、ひっくり返ったまま虚空を見つめていた。
驚いた馬も河原から遠ざかって走り去っていく。
(……王の力)
脳裏に響く誰かの声、しかしマルティアーゼはその声に耳を傾けることはなかった。
キーンと甲高い光の風が彼女を包み込み上空に巻き上げ、マルティアーゼの髪が逆立ち銀色の輝きを放っていた。
彼女の視線はガブに向けているのか分からぬほど焦点が合っておらず、金色の目に映るのは生きる執着だけで、敵対、殺意と自分に向けられる相手には、それが誰であろうと脅威となるものは抹殺する事しか見ていなかった。
吹き上がる白い光の中、マルティアーゼは手を掲げて振り下ろす。
詠唱すらなく手の平から光の矢が何十本と生成されて上空に舞い上がり、天高く飛んでいった矢が向きを変えてガブの頭上に降り注いだ。
サクッサクッと、矢が地面に突き刺さっていくと、ガブの体は光の矢で串刺しになっていく。
心臓や脳天を貫通した矢はガブの爪やどんな剣よりも切れ味が鋭く、突き抜けた事を体が理解するまでに少し間があるほどだった。
ガブは動かぬ体に戸惑いを感じながら暴れ、その目は今からマルティアーゼに襲いにいくぞというように真っ直ぐ彼女に見据えたまま事切れていた。
マルティアーゼはガブが死んだことすら分かっていないのか、その後も何本もの矢をガブに浴びせていった。
何十、何百と光の矢を打ち続けたマルティアーゼは、体から白い光が消えるとどっとその場に崩れ落ちた。
それからどれ位の間倒れていたのか、顔に当たる鼻息で目が覚めたマルティアーゼは目の前に巨大な顔を見た時、悲鳴を上げてしまった。
驚いた相手はその場を飛び退いてマルティアーゼから離れていく。
「あっああぁ……、はっはっはっ」
心臓が破裂するのではないかと思うほどに、激しく波打つ鼓動を鎮めるのに暫く時間が掛かった。
目だけを動かし周囲を見渡すと、近くで馬が不安そうにマルティアーゼを見守っていた。
空は翳り始め、もうじき夜が訪れる時間になっている。
赤黒い空の世界はマルティアーゼに不安な気持ちにさせていた。
「はぁはぁ、ガ、ガブは……」
暗くなる前にガブが何処にいるのか見つけなければならないと、しびれる体に力を入れて起き上がる。
乱れる呼吸に手足が震えて中々思うように体を動かせない、まるで体が鉛のように重くなったみたいに地面に膝をついた。
「……なに? どうして力が入らないの……」
瞼も重く感じ、気を抜くと意識が飛んでしまいそうになる。
「あれは……」
川辺りに横たわるガブの姿を見てマルティアーゼは驚いた。
物凄い鋭利な刃物で切り刻んだかのように一塊の肉があちこちに散らばり、僅かに原型を留めていたのはガブと分かる頭ぐらいだった。
あの巨大な身体が細切れになって肉の丘と成り果てており、流れ出る血は川を赤く染めていた。
マルティアーゼは誰かが助けてくれたのかと思い周囲を見渡した、しかし河原に自分以外には馬がいるだけで他に誰の姿も見当たらなかった。
「これは……もしかして、私がやったの……」
思い起こせばぼんやりとした記憶があった。
しかしそれは自分の明確な意思で行ったという意識がなく、自分がしたことを自分はただ見ていたという実感のない感覚だった。
「…………っ!」
頭が酷く痛み思わず両手で頭を抱え込んだ。
頭の中に何かが走り回っているような鈍痛が駆け巡る。
「痛いぃ……、ああああああぁぁぁ」
砂場で転がりまわるマルティアーゼの姿は狂気のようで、響き渡る悲鳴は呪詛のように苦しそうな低い叫び声だった。
馬には何が起こったのか、主のマルティアーゼが地面で悶え苦しむ様子を遠くから見つめていたが、やがて彼女の身体が動かなくなり静かになった後もじっと見つめたまま動かず、暗い闇夜が降りてきて彼女が闇の中に姿を消すまで茂みから見守っていた。