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「……」
微かに聞こえた声は怒鳴り声ではなく聞き間違いかと後ろを振り返ると、手を振って大声でマルティアーゼの名を呼んでいる。
見た目はこの地方の民族衣装だが、見覚えはない。
近くまで差を縮めてきた相手の顔を見ても誰だか分からず、そもそもサンの国で知り合いなどいないのだ。
不審に思いながら馬の手綱を緩めることはせずに慎重に相手の様子を窺っていると、
「お待ち下さい……マール殿……あっ」
相手の馬が砂に足を取られて前のめりに転倒して、男が馬上から放り出され転がり落ちた。
「あっ……」
流石に落馬した相手を見捨てる気にはなれずに手綱を引いて馬を止めると、倒れた相手の所まで引き返した。
男はうめき声を上げながら何とか立ち上がろうとしている、それを馬から降りずにマルティアーゼは馬上から声を掛ける。
「貴方は誰、どうして私の名を知ってるの?」
「わ……私はダレイヌス様の傭兵でござい……ます、ダレイヌス様からの伝言が」
「ダレイヌス侯爵様の兵……」
そう聞いてやっと馬から降りると、男を抱き起こした。
胸を痛めたらしくゼェゼェと呼吸が荒く、口の端に血が見えた。
「胸を痛めたのね、治療をするからじっとしてて」
マルティアーゼが胸に手をかざし詠唱を唱えた。
手の平からぼんやりと淡く発光する光が胸に当てられ、暫くすると男の荒い呼吸が少しずつゆっくりと安定した息遣いになってくる。
「骨をやられているかも知れないから、無理に動いちゃだめよ」
「ダレイヌス様から伝言が……、陛下は半日早くマール殿を捕らえに兵を出しております、兵は十……此処に来る前に追い越してきましたが、すぐ後ろに危険が迫ってきている事を伝えに……北の町はもうすぐそこです、一旦町に逃げ込んで身を隠して下さい、ダレイヌス様から手助けをしろと命じられましたが、これでは足手まといに……申し訳御座いません」
まだ息苦しそうに途切れ途切れで伝言を伝えてきた。
「手助けなんてのはいいけれど……、国王が約束を破ったってことなのね」
「すぐに……お逃げ下さい」
「でも貴方をこのまま置いていけないわ」
横と見ると転倒した馬は足の骨が折れてしまったみたいで、前足があらぬ方向に向いている。
横倒しになった大きなお腹は空気を求め大きく上下させ、目を見開き口から泡を吹いていた。
「かなり強引に走らせて来たのでもう駄目でしょう、心配なさらずに私がここで少しの間だけでも足止めをしておきますので……、ダレイヌス様は貴方がサンから出て貰わなければこの国が大変な事になると仰っておりました、さぁ早く……ごほっごほっ」
「…………分かったわ、教えてくれてありがとう、侯爵様にもお礼を」
マルティアーゼはそっと男を地面に寝かせて街道を見ると、またもや遠くから砂埃を上げてやって来る人影を見つけた。
「あれね……」
馬に乗り込み、男に一瞥をすると一気に町へと駆け出した。
全速力で町へと向かうマルティアーゼの馬も既に息が荒く、少しずつ速度が落ち始めていた。
一団との距離はまだ離れているが、町に着くまでに追いつかれてしまいそうな不安が脳裏に過る、しかし、平坦で何も遮るものがない荒野では走る以外術はなく、馬を急かしながら先を目指す。
「お願い頑張って、後少しよ」
一団はマルティアーゼに気付いたみたいで、足を止める様子もなく猛追を掛けて砂埃を巻き上げてくる。
「……あれね」
地平線に四角い突起物が現れ始め、やっと北の町が見える所までやってきた。
「あそこよ、あそこまで頑張って頂戴」
馬は今にも倒れそうに充血した目をさせながら、マルティアーゼの為に必死になって走り続けてくれていた。
高い壁に大きく開いた門は街道をまたぐ様にそびえ、突き抜ける感じに町中へと続いている。
マルティアーゼは速度を抑えずに門に飛び込んでいった。
町に入るとすぐに道を曲がり、適当に見つけた路地に飛び込むと馬から飛び降りる。
いきなり背中の主がいなくなって安心したのか、馬は足を止めると力なくその場に倒れ込んだ。
「ごめんなさいね、ゆっくり休んで好きな所に行って頂戴、ここでお別れよ」
水や食料など袋を二つも三つも持って走ることが出来ないと、馬の荷物から自分の荷物だけを外して町の中に姿を隠すために消えていく。
「近くにいるはずだ、探せ! お前とお前は門を見張っておけ」
町にやってきた一団の隊長が指示を出すと、兵士達が街中に散らばっていく。
「おい、貴様何を寝ておるのだ馬鹿者!」
門の側で寝ていた警備兵が叩き起こされ叱責を受ける。
町の人達も何事かと家の中からそっと顔を出してくると、
「先程女が一人この町に入ってきた、誰か見た者はおらぬか見かけたら報告せよ」
町の人達はそれが盗賊ではなく国の兵士だと知ると、そっと窓を締めて姿を隠していく。
「……くっ、愚民どもが……」
隊長は苦虫を噛み潰したように歯ぎしりをした。
盗賊と同様に国の兵士もかなり嫌われているようで、協力する気は毛頭無いと顔を背け兵士に関わらないよう足早にその場から離れていく。
兵士達が走り回ると町はしんと廃墟のように人々の数が減り、露店や商店の店主は隠れようとはしなかったが、兵士達の質問には知らぬ存ぜぬとそっけない返事しかしなかった。
町は小さくもないが首都に比べれば半分ほどの大きさだった、その街中を兵士が探し回る間にもマルティアーゼは路地から路地へとすばやく通り抜けていき、兵士の姿を見つけると物陰に隠れてやり過ごす。
「新しい馬や他にも買い揃える時間を何処かで稼がないと町から出ることが出来ない、何処にお店があるのかさえも見当がつかないし……」
「いたぞ!」
路地から出た途端、兵士が指を差してこちらに向かってくるのが見えた。
なるべく細道に入り込み、右に左にと自分が何処を走っているのかさえ分からぬまま、とにかく兵士を撒こうと必死に走り回った。
「はぁはぁ……」
暑さと荷物でマルティアーゼの体力にも限界が来てしまい、もう走れないと路地に積まれた箱に隠れて身を潜めた。
「もう……これ以上は走れないわ」
兵士の声は遠くから次第に近くへと大きく明瞭になってくるのが分かる、こんな場所ではいずれ見つかってしまいそうだったが、走る事もできず下手に動いて見つかれば逃げることは叶わない。
荷物を胸に抱いて身を縮める、なるべく見つからない様にするのが精一杯で、あとは祈るしかなかった。
兵士の声がすぐ近くに聞こえてくる、三人……いや四人ほどの交錯する話し声にマルティアーゼは静かに息を止めて気配を消そうとした、と突然、頭の上にふわりと布が覆い被さってきた。
「!」
「しっ! 静かに」
いきなり眼の前が真っ暗になり、捕まってしまったのかとマルティアーゼは思った。
「おい、お前ら他所者だな、こんな所で何をしてる」
「私達は楽団で旅をしています」
「……ふん、ここに女の子供が来ていないか」
「いえ、見ておりませんが、何か?」
「ならいい、こんな所で商売をするな、さっさと出て行け」
「……はぁ」
誰かが兵士と話してる声を耳を澄まして聞いていたが、やがて静かになるとそっと布が剥がされた。
「もう大丈夫だよ」
顔をあげると、一人の男がこちらに笑顔を向けていた。