145 羽ばたく小鳥
邸宅に戻ったダレイヌスは、直ぐ様妻のジーナに事の顛末を簡潔に告げると支度に取り掛からせた。
「ジーナ様お世話に成りました、急にこの国を離れなければならなくなってしまって、感謝を述べる時間もございません」
マルティアーゼがジーナに謝った。
「いいんですよ、それより早くご自分の荷物を……、サマナ! サマナ手伝って頂戴」
マルティアーゼは自室に戻ると、そこには洗濯された服が綺麗に畳まれており、着替えようとしたマルティアーゼにジーナは、
「そのままでいいから、早く外に」
荷物を担いで外へ出ると邸宅の前に馬が用意されていて、ダレイヌスがそこで待っていた。
「この早馬を使うが良い、町を出たら街道を北上するだけの一本道だが、逆に言えば見つかれば何処にも逃げられぬということだ、早馬でも七日で行ければ良いのだが……あとはお主次第だ」
「はい」
荷物を詰めた袋を鞍に括り付けて馬に乗り込もうとした時、
「最後にお主に聞きたいことがある、誰にも言わぬから安心しろ……、お主の本当の名は何というのか聞かせてもらえぬか、陛下の御前での堂々とした物腰は市井の者ではなかろう」
ダレイヌスの目が真剣にマルティアーゼを見つめる。
暫く考え込んだマルティアーゼは馬から降りてダレイヌスと向き合うと、
「ローザン大公国第二公女ローザン・マルティアーゼ、今はロンド・マールと名乗っております」
その言葉にダレイヌスは驚きを隠せなかった、と同時に自分の勘が当たっていたことに納得していた。
「おお……やはりか、物腰といい顔立ちといい初めに見た時は何処かの令嬢かと思ってはいたが、ローザンと聞いた時にもしやと……、まさかこのような砂漠になど馬鹿げた話と考えすぎだと思ってはいたが、いやこれは失礼致しました、しかしそのような高貴な方が何故このような場所に、しかも護衛もなしに……」
口調を変えたダレイヌスにマルティアーゼは首を振って、
「構いませんわ、私は密偵でもましてや国を混乱に陥れるために旅をしているのでは無いことは誓って申し上げます」
「もしあのまま知らぬとは申せ処刑などしていたらと思うと……」
「ちょいと待って下さい」
ダレイヌスの言葉を遮るように、邸宅の方からサマナと他の家政婦達が大声を上げながら荷物を持って出てきた。
「これもお持ちになって下さい、奥様からです、食料と水ですよ」
大きな水袋と干し肉や乾物の果物の袋を馬に乗せてくれた。
「では護衛を数人……」
「いえ結構です、此処から先は私一人で十分です、これ以上侯爵様にあらぬ疑いを掛けたくはありません、此処までして頂いただけでも感謝しております」
ダレイヌスの言葉を遮ったマルティアーゼは、そう言うと馬に乗り込み馬上から会釈をした。
「では」
「お気をつけて」
家政婦達に見送られてマルティアーゼが走り出す。
「……ご武運を」
ダレイヌスは小さな声で呟き、軽く頭を下げてマルティアーゼを見送った。
「あなた……、ちゃんと国を出られますかね」
隣に寄り添うようにやって来たジーナが、そっとマルティアーゼの後ろ姿を見て夫に囁いた。
「大丈夫だと思うしかあるまい」
(絶世の美女か……まさしくな、思い描いたような性格ではなかったが凛々しく威厳を持ち合わせた女性のようだな、このような時でなければゆっくりと話をしてみたかったものだ、どうかご無事で……)
マルティアーゼは首都サンを出ると北の方角を目指した。
とうとう国を出て以来の初めての一人旅である。
隣にはトムもスーグリもいない、たった一人で砂漠の国から北方のアルステルへ帰る長い旅だ。
(バスティは何ていうかしら、挨拶もなしに出ていったと知ったら怒るかしら)
太陽が真上近くに昇っている一番熱い時間帯に、一騎の馬が砂埃を上げながら荒野を物凄い速度で駆け抜けていく。
暑くとも外套だけは羽織りフードを下ろして直射日光から身を守りながら、直線に伸びる平坦な街道の先を目指す。
地面に反射する陽光は何処を向いていても眩しく、杏形の目は細く睨んでいるように表情は固い。
何処まで行っても一向に変わらぬ景色に疲れだけが溜まり、すぐにこの旅の過酷さを思い知らされることになった。
左を見ても地平線まで砂地が広がり枯れた草が所々に生えている、右を見ても遠く岩山が連なり地平線を隠している。
硬い地面を走る馬の上下運動で足腰は痛く、前かがみで立っているだけでも辛くなってくる。
(これで革の服を着ていたら蒸し暑くて倒れていたかも知れないわ)
時々、貰った水を口に含み喉を潤す、熱くなった水は喉を通っても飲んだ気がせず、すぐに口の中は乾いてしまい何度も喉に流し込む。
(こんな調子じゃ水が足りなくなってしまう、あの時みたいに水を求めて彷徨いたくはないわ……)
時の館から南に行く途中で何処をどう間違ったのか砂漠に入ってしまい、横断する羽目になった時のことだった。
あの時でもほぼ砂漠の端を横断しただけだったが、水が無くなってからの砂漠では喉の渇きは想像を絶する旅だった。
吐く息は熱く瞬時に気化して常に乾いていた、そこに飛ばされてくる砂が口に入ってじゃりじゃりと嫌な音を立て、吐く唾さえも枯渇していた。
目は虚ろで彷徨うゾンビのように馬に揺られながら、息も絶え絶えになりながらムングロに辿り着いたのである。
あの時はトムと共にこの大地で死に絶え、砂に埋れて永遠に熱せられる覚悟をした事が、マルティアーゼの中に砂漠嫌いが植え付けられた。
何の因果かその砂漠にまた戻ってきて、今度は一人でその荒野を走っているのである。
(アルステルに戻れたら、当分はゆっくりと過ごしたいものね)
流石はダレイヌスがくれた早馬だけあって、マルティアーゼが考え事をしている間にもどんどん距離を稼いでいてくれた。
それでも始まったばかりの旅では殆ど動いていないぐらいの距離しか走っていない、サンの領土は広大で、厳しい砂漠の炎天下が容赦なくマルティアーゼから体力を奪っていく。
(この道の先にトム達が待ってる……)
そう思うことがいまのマルティアーゼにとっての唯一の希望であった。
アルステルへの帰路ははるか遠く、いつになればトムやスーグリに会えるのか、想いは二人へ、マルティアーゼの一人旅が始まった。