14 内海
深い森の中に差し込む太陽の明かりを頼りに、男女二人が道無き道を進み出た先は大きく切り立った崖だった。
眼下には白い砂浜がずっと続き、広い海原が視界一杯に見えていた。
乗ってきた馬は歩きにくい森の中で足を怪我して、倒れた所に追い打ちを掛けるように腹部に木の枝が刺さり失血死して死んでしまい、それからずっと深い森を歩いてようやく拓けた場所に出てこられた。
数日間、森をさまよい歩き続け飲み水も底をついてしまい、喉が乾きながらも必死にここまでやって来たのだった。
砂浜には誰かが漁業をしていたみたいで、船底の跡が幾筋も残っている。
二人は回り道をして崖を降りていくと、さらさらと気持ちのいい砂の感触を味わいながら海岸沿いを進んでいく。
打ち寄せる波が運んできた潮風が女性の灰色の髪をなびかせていて、陽光に反射した髪は銀色に輝いていた。
女性は背丈からまだ子供と分かり女の子という方が似合っていたが、女の子というには似つかわしくないすっきりと綺麗に整った輪郭に、小顔の中に大きな瞳と小さな唇が強調し合わない均等を保ち、すっと入った鼻孔は気品の高さを表していた美貌の持ち主であった。
何より余り見ない灰色の長い髪は真っ直ぐで、一本一本の髪が生き物の様に上下に動き、伝説の双頭の蛇を思い起こさせた。
着ている服装も一見すると町娘の格好をしていたが、質が上物で平民が簡単に買えるような代物ではないと直ぐに分かる程、きめ細やかな品質の良い生地で作った服を着ていた。
もう一方の男性は背が高く女性より頭一つ以上は離れていて、がっちりとした体格だが無駄な肉もなく長身に比べて細身の印象が強かった。
短い黒髪は艶やかで眉目秀麗、薄い唇は意志の強さが感じられるように引き締まっている。
男性は革の鎧に革のズボンを履き、腰のサッシュには長剣を差しているので剣士と直ぐに分かった。
肩には荷袋を二つ引っさげていて何処かに向かって旅をしているみたいだが、一見すると兄妹のようで、到底主従関係の二人には見えない男女だった。
その二人が外界から隔てられた人の住むような場所では無い所で何をしているのか、お互い何も言わず淡々と砂浜を目的があるように力強く歩いている。
海は穏やかで透き通った遠浅さの海岸で、白い海底がはっきりと見えていてそれが地平線までずっと広がっていた。
まだ残暑が残るのか、うっすらと額に汗をかいた女性はちらほらと海に入りたそうに眺めていたが、気持ちを抑えて歩き続けていた。
崖沿いの海岸はくねくねとしていて突き出た岬を越えると、また視界の先に岬が出てくる。
何処にも上れそうな場所もなく、永遠と思える続く砂浜を歩き続けて幾つ目の岬を越えたか忘れた頃に、砂浜に点在する家が見えてきた。
二人は視線を交わすと、密集する家まで頑張って歩いて行く。
家は木組みの壁に屋根は編んだ草を敷き詰めていただけの簡素な物で、同じような家が海岸沿いの崖に寄り添うように幾つも並んで建っていた。
そこに二人がやって来ると家から人々が出てきて、警戒しながら遠巻きに二人を見つめていた。
二人は一軒の家の前で立ち止まると、相手を刺激しないように静かに言葉を掛けてみた。
「すみません、私達は旅の者です、少しばかり水を貰えませんか?」
男性が前に出て家の女性に話しかけた。
女性の反応は薄く声を掛けられると家の奧に隠れていく、二人はどうしたものかと更に近寄っていくと、女性が声を上げて砂浜に逃げ出していった。
「トム、それの所為で怖がっているのかもよ」
女性が男の名を呼んで剣を指を差した。
「私が話すわ、少し下がっていて」
「ですが姫様……」
「いいから」
姫様と呼ばれた女性はマルティアーゼで、彼女は一人で前に進み出て他の女性に話しかけてみた。
「怖がらないで何もしないわ、ただ飲み水が欲しいだけなのよ」
ここには女性と子供しかいないのか、男の姿が見えなかった。
「私はマール、あれはトムよ、旅をしていて森で迷ってしまったのよ、やっとの思いで海に出られたのだけれど飲み水が無くなってしまって困っているのよ、少しでもいいから分けて貰えないかしら?」
話しかけた女性がマルティアーゼを見て子供だと分かると、少し警戒を解いたみたいだったが、
「あんたみたいな子供がこんな所に何しに来たんだい、あの男は盗賊じゃないだろうね」
女性はきつい言葉でマルティアーゼに答えて、ねめつけるような視線をトムに向けた。
「違うわ、私の護衛みたいなものよ、水を貰えたら直ぐにでも出て行くわ」
その言葉を信じたのかどうか女性が隣の子供に顔で合図する。
「ありがとう、ところで私達は町を探しているのだけれど、この辺りで一番近い町は何処かしら?」
「町? この辺りにゃ無いよ、もっと南に行くと町というより村があるだけだよ」
女性が指を差して方向を教えてくれた。
「そう……ありがとう、あっちね」
子供が持ってきてくれた水袋を受け取ると、マルティアーゼが服の間から小袋を取り出し、中から銀粒をいくらか女性に渡した。
金を受け取った女性が驚いて目を丸くする。
「これはなんだい?」
「お水と町を教えてくれたお礼よ」
マルティアーゼがにこりと笑うと、水袋を持ってトムと歩き出していこうとしたら女性に呼び止められた。
「待ちなよ、村にゃ歩いて行けないよ、あそこの出っ張った崖から先は歩いて行けるような足場はないよ、ここは隠れた漁村なんだよ」
女性の話をきいたマルティアーゼが、
「じゃあここの人はどうやって衣類などを買いに行ってるの?」
「今男達は漁に出てるけどね船で行くんだよ、それしか手は無いよ」
「……困ったわね」
「ただの水だけでこんなに貰うほどあたし達も意地汚くは無いからね、あたしが男達に船で送ってやるように言ってやるよ、あたしゃルラ、ここの村長はあたしの旦那だからね」
「それは良かったわ、ありがとう」
マルティアーゼとトムはそこで漁に出ている男達を待たせてもらう事になった。
ルラの話の中で村は大昔、この辺りにあった国に属していたらしいが、国が無くなり人々が各地に散らばっていき、その中で海から離れたくない人々が海辺に小さな集落を作りそこで漁をし始めたということだった。
そしてルラの村の人々は移動をしながらこの地に定住した人達で、周りは崖で囲まれ盗賊や海賊に見つかりにくく、穏やかな生活を過ごせているという。
男達が獲れた魚を近くの村や町に売りに行き、僅かなお金で必要なものを買ってくるらしく、最低限の必要なものは手に入れられるので不自由は無いことだった。
今では住んで居る人が減ってくると村同士が合流してきて、こういった誰にも見つからない場所で生活をしてるという。
国が無いので村を守るのも自分達で行わなければならず、男達が漁に出ている間に余所者が来ると自然と警戒してしまうのは仕方がない事であった。
「けどね、あたしらはこの広い海が好きなんだよ、不便なことだってあるけどね、ここには自由があるんだよ、子供達に勉強させてあげられないけど伸び伸びと強く逞しくあってくれればあたしゃそれでいいと思ってる、あんたはまだ子供だけどかなりの教養がありそうだね、何処かのお嬢様かい?」
マルティアーゼが笑った。
「ふふっ、そんな風に見えるかしら、残念だけどそんなに良い出ではないのよ、勉強はしていたけれど、この通り今じゃただの旅人だわ」
「そうかい、話し方から良家のお嬢様だと思っちまったよ、外の人と話すのも久しぶりだし町の人なら学校に行ってる人も多いんだろうから、あたしらからすれば皆賢く見えるんだよ」
「学校って楽しい所なの?」
ルラの隣に座っていた子供が、マルティアーゼ達の話に興味が沸いたのか話しかけてきた。
「この子はサナ、まだ六歳なんだけど、まだ一度も町に行ったこともないからね」
「どうかしら、私はお勉強は楽しいとは思ったことは無いわね、毎日毎日難しいことを覚えないといけないのよ、お稽古も私には苦痛でしか無かったわね、それにお勉強したことと実際に外で経験したことではなり違いがあるのよ、教えて貰うより自分で経験した方が良いと思うわね」
「…………んん、よくわかんない」
まだ幼いサナにはマルティアーゼが何を言っているのか理解出来なかった。
「ここは自然の学校なのよ、ここでしか覚えられない事が沢山有るから私から見れば楽しい学校に見えるわ、ここで覚えたことは大きくなったときのサナの財産になるはずよ」
マルティアーゼは一面に見える海に腕を広げてサナに教えてあげた。
「大きくなったらサナも町にいくぅ」
サナが足をばたつかせながら言う。
「そうだね、少なくとも船を漕げるようにならないとね」
はははっ、とルラが笑った。
トムはマルティアーゼ達とは離れた日陰で、海を眺めながら休んでいたが、遠くに船を見つけるとマルティアーゼ達に知らせに来た。
「帰って来たかい」
ルラが立ち上がると船に向かって手を振った。
やって来る船は三艘で、どの船にも男が二、三人は乗っており、沢山の荷物を船に積んでいる。
サナや村の子供達が浜辺に出てきてきゃっきゃっとはしゃいでいるのを、マルティアーゼ達は後ろでじっと見ていた。
男達が降りてくると、ルラが一人の男にこちらに視線をやりながら、マルティアーゼ達の事を話しているようだった。
「トム、相手を威嚇するような真似はしないでね」
「分かっております」
ルラが男を連れてこちらにやって来ると、
「これがあたしの旦那のドラナだ、あんた達の話をしたら送ってやるとよ」
「あんた達は旅をしてるんだってな、よくこんな辺鄙な場所に迷い込んで助かったもんだな」
ドラナは日に焼けた顔から真っ白な歯を見せて笑っていた。
「突然で申し訳無いが、もし良ければあそこの船を売って貰えないだろうか」
トムが海岸に置いてあった小さな船を指差す。
「ん……あれか、あれは駄目だ、底が壊れてるから後で直そうと思って置いてあるんだ」
ドラナが手を振って答える。
「修理出来るならその代金も一緒に払うがどうだろう」
「別に俺が送ってやるがそれじゃ駄目なのか?」
「いや、今後の事も考えて船を持っておこうかと思っていてね、ずっと歩きだと不便だと思っていたんだ、駄目だろうか」
トムが交渉している姿に違和感を覚えながらも、マルティアーゼは何も言わず黙って聞いていた。
「別に構わねえが……、小さいしそんなにいい船じゃねえぞ」
ドラナがルラと目を合わせてしようがなく答える。
「すまないな、ここの大事な船なのに」
「ふむ、じゃあ早速修理するとするか、直るまでゆっくりしていってくれ」
「ああ……」
ドラナ仲間を連れて壊れた船に向かって行くと、マルティアーゼ達も人心地付いて日陰で休むことにした。
その間、食事やサナと遊んだりして時間を潰していた。
昼過ぎに修理が終わり、
「帰って来たばかりなのに済まなかった、少ないが受け取ってくれ」
トムがドラナにお金を渡した。
銀粒三十という破格のお金を受け取ったドラナが目を丸くして見ている。
「こんなにか、こんなボロ船でこんなに受け取れねえよ」
「いや、世話になった分も入ってる、気にしないで受け取ってくれ」
「……そうか悪いな、じゃあお礼ついでに一つ忠告だ、岬を越えるときは風に気をつけた方が良いぞ、出っ張りのある場所は風の通り道になってるんで急に突風が吹いたりするんだ、今まで何隻もの船が海の藻屑になってるからな」
「……そうか、気をつけるとするよ」
トムがマルティアーゼに船を受け取ったと伝えると、早速出発することにした。
礼を言って別れようとするとサナが悲しそうにマルティアーゼを見つめていて、
「また何処かで会ったら遊びましょう、そうねこの帽子をあげるわ」
マルティアーゼはサナに帽子を渡すとトムと二人、船を海に出して村の皆に手を振って別れを告げた。
波は穏やかで海を覗くと海底の砂地が綺麗に見えている。
次第に村から遠ざかりルラやサナの姿が見えなくなると、マルティアーゼはトムに聞いてみた。
「わざわざ船を買わなくても良かったのに、どうして送って貰わなかったの?」
するとトムは、
「ローザン大公国から出たとはいえ、まだこの辺りは近すぎます、姫様の顔を見知っている人達がいたらばれてしまいますし、あまり長いこと話されていると色々と答えづらい事を聞かれるとまずいと思ったのです、何より船など狭い場所で襲われなどしたら身を守るすべも御座いません」
「私達を襲うような人達では無かったわ」
「姫様、もしこれからも旅を続けたいのであれば市井のことを良く覚えて頂けなければなりません、市民、ことに貧しい者達は一見優しい顔をしていても、相手がお金を持っていたり掠って身代金を取れると思ったら態度が変わる者が出てくるのです、まだ姫様は市井の者がどのような人間か分かっておられない、誰にでも親切になさいますので心配なのです」
「でもルラやサナは良い人だったわ、そんなに誰もが悪人だと思うのは良くない事よ」
「ですが、今のご自分の立場を分かって頂けないことには……、もし悪人だと分かったときには遅いのですよ、それに姫様の話し方ももう少し市井の人達の話し方に合わせて貰わないと……」
「トムは心配性ね、大丈夫よこれからまだ沢山の人と話していけば自然と覚えていくわよ」
「あとお金のことも私に任せてください」
「……分かったわよ」
マルティアーゼはふくれっ面をして海を見つめていた、トムもそれ以上追求せずにひたすら舵を漕ぐ事に専念していった。