木曜日
オムライス作成中の母から『ケチャップきれちゃったから買ってきて』という緊急指令を受けて夜道を駆けていた私は、突如として現れた黒い影に足を止め……られませんでした。
「んきゅっ!」
「あ、姫さま。すみません」
走って来た勢いのままダイブする事になり、私よりも小柄な影には受け止めきれなかったようです。地面へと叩きつける形になってしまいました。
うっかり下敷きにしてしまった影――九家三姫さまの上から退きつつ、ぺこりと頭を下げておきます。
「ふん、相変わらずどんくさい奴よの。まあ良い。血をよこせば許してやる!」
ぱぱっと立ちあがった姫さまは、左手を腰に当てて右手でビシリと私を指差しながらそう言い放ちました。
尊大な口調も、強気な表情も、この幼い姿ではただただ可愛らしいだけです。思わず頬がゆるんでしまいました。
「あぁ、はい。ではどうぞ」
「うむ」
初めて会った時もこんなやりとりをしたなーと懐かしく思いながら腕を差し出せば、姫さまも当時を思い出したのか少しはにかみながら腕の内側に手を添えました。
あんぐりと開かれた姫さまの口が腕に近づき、鋭く尖った牙が私の肌に突き刺さり……ませんでした。
「はーいストーップ」
「きぃーー!?」
まさにカプリといかれる直前に、突如現れたモハによって姫さまが宙吊りにされてしまったので。
「お前ミコの血は不味いとかぬかしてやがったじゃねーか。何をしれっと強請ってんだボケェ」
「ち、ち、違っ、不味いとは言ってない! ただ、まぁ、その、好みではないというか……」
「だったら好みの味の奴を噛んどけや。今のテメーなら普通に『食事』できんだろーが」
「う、それは、それというか、たまには、その……な」
「あぁ?」
ちらちらと私の方をみながら顔を赤らめる姫さまはとても可愛いと思うのですが、何故かモハの眉間には深い皺が刻まれています。
モハって姫さまにだけ妙に厳しいですよね……いえ、そういえば姫さまに限らず吸血鬼全般に厳しめでしたっけね。まあ、何か私には分からない確執的な事があるのでしょう。私には関係ないので気にしないでおきます。
「だからっ……たまには笑子の顔を見たいのだ! お前が全然笑子を連れて来ないのが悪いのだぞ!」
「あぁもう、何でお前等そんなにミコに懐いてんだよ! 血に惹かれるならまだしも、お前みたくそうじゃない奴まで妙に好意的なのが腑に落ちねー」
あ、それは私も思ってました。何をしたわけでもないのに、不思議と好意的に接してもらえるんですよね吸血鬼の皆さまには。人間の血を摂取しないと生きていけないから、人間は大切にしなきゃってことなのかなーとか思ってたのですが……どうも私だけ特に優しくしてもらえてるみたいで。本当、謎です。
「それは、仕方なかろう! 笑子は我らのアイドルなのだ!」
「「は?」」
キッとモハを睨みつけながら発せられた言葉に、ぽかーんとしてしまいました。
『言ってやったぞ』とばかりに胸を張る姫さまを思わず凝視してしまいます。何言ってんですか、この姫さまは。
「我等は人に疎まれる存在だ……それを知った上で近づいてくるような輩にマトモな奴は居らん。
我らに負けず劣らずの化け物ばかりよ。だから、だから我等はずっと憧れていたのだ、普通の人間というものに!
そう普通! 笑子はまさに理想的な普通さなのだ! 特別な能力も持たず、全てにおいて平均的な!
まあ、我らに臆する事もなく、媚びる事もなく、どのような時でも自然体でいられる精神の強さは唯一普通ではない部分であると言えるが……まあ、それが無ければ我等は関わりすら持てぬだろうしな。
とにかく、非凡さを一切感じさせないところが笑子の魅力なのだ! 何時見ても平凡!
笑子のその普通ぶりは、我等の心を掴んで離さん! ただそこに居るだけで癒される! 笑子は最高の……」
「あー、もう良い。分かったから」
このままモハがぶったぎらなかったとしたら、姫さまの語りは何時まで続いていたのでしょうね……?
いやはや、そんな風に思われてたとは。
ごく普通の人間である事を恥じた事はありませんが、そこまで熱い気持ちを向けられる事だとも思えないのですが……価値観って様々ですよね、本当に。
「うむ、分かってくれたか。では……」
「おう。とりあえず帰れ」
「んきゅううううううう!?」
モハに放り投げられ猛スピードで遠のいてゆく姫さまを見送りつつ、できれば自分の普通さに見合った普通の人生を歩みたかったなーと思いながら、遠い目になる私でした。
「成る程な。あいつら見てると何かイラっとする理由が分かったわ。……あ、ミコ、これケチャップな」
「……いくら?」
「いーよ別に。俺も御馳走になるし」
「……そう」
ぽつりと落とされた呟きは意図的に聞き流し、何故ケチャップが購入済みなのかとか、いつのまに共に食卓を囲む事が決定したのかとか、その他もろもろ全部スル―しつつ、私は足早にオムライスの待つ我が家へと帰ったのでした。