プロローグ
光と影
吃音者A
「おはよう」
私の朝はこの言葉から始める。
その何気ない挨拶に家族は自然と“おはよう”と返す。
私は、家族の挨拶に耳を傾けつつ、トイレへと行き、用を達す。
その後、洗面所へ行き、顔を冷たい水で洗う。
正面を見ると、いつも見る自分の顔。
叩いても引っ張っても変わらない自分の顔。
一生自分の体の一部であり、変えることのできないパーツだ。
そんな自分の体の一部である顔をしばらくの間見つめる。
今のところ、“光”と“影”が入れ替わった兆候はない。
どうやら、“影”はまだ寝ていると安堵する。
私は、“影”を起こさぬ様に静かに歯を磨き洗面所を後にした。
リビングには、高校の朝練の準備をする高校の弟とテレビを見ながらトーストを頬張る父がいた。
私は、棚に畳んで置いてある洋服と靴下一式を手に取り、ソファに腰掛ける。
パーカーのファスナーを下ろし、脱いでソファの片隅に畳んで置き、ズボンも同様に脱ぎ畳んでパーカーの上に置く。
冬の朝の肌寒さが私の体を突き刺す。
私は、すぐに畳んであった洋服一式をばらし、長ズボン、長袖のTシャツ、靴下の順で着る。
私は立ち上がり、再び洗面所へ行き、服の身だしなみを整える。
ある程度、整えると再びリビングへ行き、大学へ行く準備をする。
今日の講義は、化学、生物学、……。
私は、生物学の次の講義に目が留まり、深く項垂れる。
一週間の内で最も嫌な教科である。
いや、正確には講義自体は好きな教科であるが、生徒を当てる教授のことが嫌いなのである。
私は、しばらくの間項垂れていたが、我に返り再び準備に取り掛かる。
いつまでも、考えていても埒が明かない。生きていれば、来週も再来週もこの教科は訪れる。
その度に項垂れていてもしょうがない。
この試練を乗り越えない限りは自分の夢は叶えられないのだから。
私は自分にそう言い聞かせ、自分を奮い立たせる。
鞄に今日使用する教材を全て入れ、ファスナーを閉じる。
そして、クローゼットにかけられたコートを羽織り、鞄を右肩にかける。
最後に携帯電話と財布、ハンカチをズボンのポケットに、ハイレゾプレイヤーを胸ポケットに入れ玄関へと向かう。
靴を履き、ゆるゆるの靴紐も結びなおす。
そして、家中に聞こえるように『行ってきます!』と挨拶。
勢いよくドアを開けた。
大学への道のりは短くも長くもなく一時間半程度で大学に着く。
大学までは好きなアーティストの音楽を鼻歌や口ずさみながら行く。
このアーティストの音楽は、私の“影”も好きなようで、この音楽を聴いているときは入れ替わろうとしない。
ただ、たまにこのアーティストのライブに行くと私の人格と入れ替わろうとする。
そんな時には、全てを“影”に明け渡すのではなく、半分を“影”に明け渡す。
そうすれば、“影”も納得し、全てを乗っ取ろうとはしない。
そうこう考えているうちに大学に着く。
大学は最近建てられたらしく、外観はまるでホテルのようで中も大学だとは思えないほどの豪華さである。
ただ、私の学科はその新しく建てられた棟ではなく、昔からある棟の教室である。新しく建てられた棟とは違い、若干古臭く、ニ〜三年前に通っていた高校の外観と類似する。
私は古臭い棟へと入り、自分の教室へと向かう。
教室を見ると、まだ暗い。
どうやら、自分が一番のようだ。
私は教室中の電気を一気に点け、自分がいつも陣取る場所に腰掛け、鞄にあるすべての教材を全て机の上に置く。
そして、ハイレゾプレイヤーの音量をやや大きくして、机に突っ伏する。
数十分後には、友達が自分の隣や後ろに来る。友達が来てからは、“影”も目を覚まし、“光”と“影”との人格の争いが始まる。
それまでは、しばしの休息である。
数十分後
誰かの足跡で目が覚める。
隣を見ると大学で友達になったE君が椅子に腰掛け、ネット上から落としたと思われるラノベを携帯片手に読んでいた。
「おはよう」何気なく私から挨拶。
それにE君も『おはよう』と返す。
E君は携帯の電源を落とし、私の方に体を向ける。
私も同様にE君の方に体を向ける。
ここからは、いつもと変わらぬ何気ない会話が始まる。
昨日出された実験のレポートの話、昨日放送されたアニメの話など……普通の会話である。
そんな会話しているうちに時間が経ち、いつもの面々が自分の周りに集まる。
いつもの面々が集まると何気ない会話はさらに盛り上がり、講義までの時間があっという間に無くなる。
気づいた頃には、教授が前に立っていて、講義の準備をしていた。
私は、友達との何気ない会話を終わらせ、教授の方へと向き直った。
三時間目前 男子トイレ
ここまでの友達の会話、講義では“影”は姿を現す愚か素振りさえも感じられない。
“影”はまだホカホカの羽毛布団で寝ているのか、それともすでに目を覚ましており、油断している私の寝首をかこうとしているのかのどちらかであろう。
前者であれば、大学にいる間は問題ないだろう。
しかし、後者である場合には“影”の攻撃にいつでも反応できるように神経をとがらせていなければならない。
私的理想では、前者であることを願いたい。
ただ、現実はそうではない。
おそらく私はもう、“影”が描いたシナリオ通りに動くマリオネットなのかもしれない。
そう考えると、背筋がぞっとする。
私は手洗い場に溜めた水を手ですくい上げ、二度三度と顔にぶち当てる。
そして、ポケットからハンカチを取り出し、顔をハンカチで覆い隠す。
『大丈夫、大丈夫……』と心の中で繰り返す。
そして、“影”に戦線布告。
『来るなら来い。いつでもお前のことを迎え撃つ準備をできている。お前に人格の席を譲る気はない』と。
私は、ハンカチをポケットにしまい教室に向かった。
教室に入るとすでに教授は教壇につき、チョークを走らせていた。
身を屈めながら自分の席まで急ぐ。
席に着くと、周りの友達に「どうしたんだ?」と聞かれる。
私は、“影”に戦線布告をしてきたとはいえず、トイレに行ってきたとはぐらかす。
友達は頷き、それ以上の詮索はしてこなかった。
私は前を向き、講義を聞く体勢に入る。
最初は板書がひたすら続き、時間見ると四〇分が経過。講義終了まであと五〇分。
次に、先週の問題の解答解説が三〇分。
講義終了まであと二〇分。このままいけば、自分に当てられることない。
だが、油断はできない。油断をすれば、一瞬にして、“影”に人格を根こそぎ持っていかれるだろう。
『集中しろ、集中しろ。気持ちを切らせるな』 自分にそう言い聞かせる。
そして、最後二〇分。
今日書いた板書の範囲の問題解答。
私は、口に溜まった唾液をゴクリと飲み干し、教授と目が合わないように下を向く。
教授は誰を当てようかと辺りを見渡す。
そして、一人の人物に目が留まる。
「じゃあ、いつも当てている君。確か……」
教授は、深く溜めを作る。
紛れもなく私を当てようとしているのは確実であるのだが、それでもあきらめきれず、下を向き続ける。
「確か……、そうだ!」
教授は一直線に指をさす。
『来た!!』と心の中で叫ぶ。
「O君!」
「えっ……」
当てられたのは、自分の後ろの席に座る友達O君であった。
自分は安堵のため息をつき、席一杯に凭れ掛かる。
今日の戦いは終わったと緊張を解く。
後ろのO君が問題なく答えてくれれば万事今日の講義は終了。帰路に就くことができる。
だが、理想は一瞬にして消される。
友達Oは、何にも準備しておらず沈黙。
時間切れとなり、矛先は席に凭れ掛かりながら座る自分に飛ぶ。
「じゃあ、前のA! やってみろ!」
「えっ?」
驚きのあまり、自分の席からずり落ちそうになる。
すぐに体勢を立て直し、机の教科書を開きページを洗いざらい捲る。
焦りから額からは脂汗が滲み出る。
ダメだ……、わからない。
もう、諦めるしかないと反射的に判断。
「あの、先生。わかり……えっ? あっ……」
言葉が口の中で籠る。
言いたいことが口の中から出てこない。
「まさ……」
喰われた‼
考えることをあきらめた瞬間に緊張をも解いてしまった。
その瞬間、その瞬間だけを狙っていた“影”が私の人格全てを飲み込む。
私はもう……、自分であって自分で無い。
もう私は、私ではない。
「すみません。わかかかかかりません」
私は、最後の一〇分。
“影”つまりは、“吃音を発する自分”に敗北した。
この話は、“光”つまりは“正常に言葉を発する自分”と“影”との戦いの歴史である。