第694話 少年は毎日が楽しくてたまらない
少年は、最近は毎日が楽しくてたまらない。
「ビセンテ、ほら、起きなさい。お兄ちゃんでしょう?」
母親にうながされて眠い目を擦りながら起きると、隣に寝ていた妹が微かに身じろぎをした。
周囲には家族以外の子供連れの母親たちが大勢、寝起きしている。
ビセンテはまだ小さいので妹と一緒にいられるが、もう少し大きくなったら父親のところで寝るようにしなければならない。
藁を敷き詰めて布をかぶせただけの寝床から降りると石の床はひんやりとして固いが部屋は明るく清潔で、数か月前まで押し込まれていた村長のところのネズミが這い回る納屋とは比較にならない。
「ルシアを起こして。ご飯を貰いに行くわよ」
母親が小さな木の椀を準備するカラカラという音がする。
そう!教会で暮らすようになって、しかも最近は美味しい食事が出るのである。
少し前まではベチャッとした薄い麦粥だけだったのだが、最近はしっかりと味がついて量もある。
「こないだの魚は、美味しかったなあ」
ビセンテは舌なめずりをしながら、小さい頭で想像する。
自分が大人になったら、あれくらい大きな魚をとったりすることができるんだろうか?
そうすれば自分だけでなく、父ちゃんも母ちゃんも妹のルシアにも、腹いっぱい食べさせることが出来るのに。
美味しいのだけど少しだけ物足りない食事を終えると、手伝いの時間である。
いつもは2つ下の妹の面倒を見ているのだけれど、なにしろ今日は領主様の手伝いの日なのだ。
新しい領主様は神様の使いに違いない、とビセンテは思っている。
ビセンテだけではない、周囲の大人たちも言っていたのだから間違いない。
ただ、実物を見ると少しだけ、ほんの少しだけ確信が持てなくなる。
彼の想像する神様の使いは白い聖職者の服を来て黄金の装飾品を全身にキラキラとした姿である。
神書でも、神様は光と共にある、とか言っていたのを聞いたことがある。
だけど代官様は日焼けしているし、髪も黒いし、格好だって何となく似合っていない気がする。
ただ、靴だけは何だか立派な靴を履いている。
自分にも、あんな立派な靴が履けたらいいのに。そうしたら尖った石や藪だらけの山奥だって、滑りやすい小石だらけの河原だって、いくらでも走って、どこまでだって行けるのに。
奥様が履いている赤い靴、あれもルシアに履かせてあげたいな、とビセンテは想像する。
息をきらせて広場につくと、他にも男女合わせて10数人の子供たちが既に来ていた。
黒い髪の代官様は奥様と今日も一緒にいる。
その後ろには怪物のように大きな人が腕を組んで立っている。
体の大きな人が一歩前に出ると、自分も含めて子供達は慌てて黙る。
なんとなく言うことを聞かないとマズい気になるからだ。
「いいか!今日の訓練は命にかかわる訓練だ!言うことを聞けないやつは参加させない!いいな!」
「「は、はい!」」
自分も含めて慌てて皆で返事をする。
手伝いに参加できないと大変だ。豆と塩がもらえなくなる。
今日のご飯を、母ちゃんとルシアも当てにしてるんだ。
「よし、行進!まっすぐ列を作ってついてこい!」
行進というのは前の子だけを見て列をつくって歩くことだ。
前の手伝いの時に随分やらされたけど、前の子がフラフラしたり遅かったりすると途端に列が乱れる。
簡単だと思ってたけど、けっこう難しい。
とにかく、そうして行進していくと川べりにでる。
前に魚を焼いたところだ!
今日も魚を食べられるだろうか。期待に少しだけお腹がなる。
「いいか!お前たち!魚を食べたいか!」
「「食べたい!」」
大きい人に負けないぐらい大きな声で、全員で声を揃える。
大きな人は満足そうに頷くと、声を張り上げた。
「だが、釣りをするにはお前たちはまだ早い!」
まだ早いとはどういう意味だろう。
もう少し大きくならないと駄目なのだろうか。
ならば、なんでここに連れられてきたんだろう。
ビセンテ少年が混乱していると、大きな人は怖ろしいことを言った。
「まずは、お前たち全員に泳げるようになってもらう!」
泳ぐ?泳ぐって魚みたいに?無理に決まってる!
思わず言葉にでかかるのを、かろうじて少年は自制した。
ここで文句を言うと今日のご飯が貰えないし、魚を釣ることだってできなくなるかもしれない。
大きな魚を釣ろうと思ったら、職人の人が作る鉄の釣り針じゃないと駄目なんだ。
それを持ってるのは代官様と大きな人だけだから、逆らうのは得じゃない。
「整列!まずは2列で身長順にならべ!」
この指示は知ってる。背の低い順に並ぶんだ。
ビセンテは、背の順というやつが少し嫌だった。
前の方に並ぶと、後ろから優越感に満ちた視線がとんでくるから。
「よし、全員ロープをつかめ!」
列の間に太い縄が置かれていたので、それをつかむ。
これから一体何をやらされるんだろう。
「今から、水に入る!離すなよ!離したら死ぬと思え!」
死ぬ、と言われて慌てて太い縄を力いっぱい両手でつかむ。表面がチクチクして痛いが死ぬよりはマシだ。
そのまま支持に従って、川の流れに平行に、列をつくったまま入っていく。
小さい子が川上、大きな子が川下になる。
足首より深い水に入るのは初めてだ。
だというのに、どんどんと深いところまで進んでいく。
水が腰の高さまで来る頃には、ビセンテはすっかり怯えていた。
水が冷たい。足元の小石は苔でぬるるとして、流れに足を取られそうだ。
「いいか!離すなよ!」
顔を上げる余裕はないが、指示は後ろから聞こえてくる。
言われなくても離す気はない。必死に縄にしがみつく。
「全員、水に顔をつけろ!」
ビセンテは自分の耳を疑った。
顔をつけろだって!?こんな水の中に?水の中で息をしたら死んでしまう!
◇ ◇ ◇ ◇
数時間後、川の流れの緩い一角に杭とロープで囲まれた簡易プールで、はしゃぎ回る子供たちを見守る大男の姿があった。
そんな彼にサラが声をかける。
「キリク、お疲れ様。子供って、ほんとスゴイわね。午前中は必死で縄にすがりついてたのに」
子供たちのために持ってきたおやつを並べるサラに、キリクが渋い顔をして答える。
「まったくでさ。あのガキなんて死にそうな顔して、俺が縄をはなせって言ってるのに、殺される~!とか鼻水垂らして泣きわめきやがった」
キリクが、ひときわ元気にはしゃぎ回る少年を指差した。
「ビセンテ、どうだ!泳ぐのは気持ちいいだろう!」
「はい!楽しいです!」
少年はとびきりの笑顔で元気よく返事をした。
最近のビセンテは、毎日が楽しくてたまらないのだ。
明日は18:00頃に更新します。
「宇宙ゴミ掃除をビジネスにする話」も合わせて更新してます。
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