第685話 数字の顔
太陽が西に傾き、世界を茜色に染め出した頃、領民への豆の配布は成功裏のうちに終了した。
豆を受け取った村人たちの笑顔や興奮が伝わったこと、それに大きな仕事を終えたという実感のためか、サラやキリク、パペリーノの表情も明るい。
「すごくうまくいったね!」
「そうだな」
表面的な事象としては村人に豆を配っただけだが、そのためにどれだけの準備を重ねてきたことか。
その施策に至るまでに費やした知的資源を思えば、あの程度にはうまく行くのが当然だ、との思いはある。
だが、それはそれとして、今日だけは単純にうまくいったことを喜んでもバチはあたらないだろう。
「今日ぐらいは、教会秘蔵のエールをあけるか」
「おっ!いいね!」
街から運んできた数少ない贅沢品のエールの樽をあけることを許可すると、キリクの頬が嬉しそうに緩む。
キリクは今回、かなり頑張ってくれたのだし、それくらいの権利はある。
エールのつまみとくれば豆だろう、ということで厳選した大粒の豆を茹でて灰汁をとったものを、刻みニンニクと玉ねぎと一緒に植物油で炒め、塩を振ったものを出してみる。
普段は豆というと貧乏食というイメージがあるのか嫌がっている面々も、これには蒙を啓かれたように、ガツガツと口に運んだ。
「豆も、いいもんですな!」
などと勝手なことを言いながら、キリクなどは行儀悪く手づかみで食べては、指についた油と塩を舐めている。
「ちょっと、匙があるでしょ!」
そういうサラも文句を言いながら自分の分は小皿に分けて抱え込んで確保している。
やはり塩と油と炭水化物の組み合わせの吸引力は強いらしい。
ゴルゴゴはエールを飲んでは匙で掬う、往復運動の機械と化していたし、パペリーノは我関せずと豆だけを食べ続けていた。
ちょっとこいつら、マイペース過ぎないか、と思わないでもない。
楽しい宴だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エールが回ったのか、屋敷の全員が早々に寝静まった頃、俺は一人、灯火を頼りに仕事部屋で羊皮紙を捲っていた。
ふとドアの蝶番が軋む音に視線をあげると、赤毛の娘がドアのところからこちらを見ているのに気がつく。
「ねえケンジ、寝ないの?」
「なんだ、起きてたのか。もう少ししたら寝るさ。先に寝ててくれ」
「うん・・・」
返事とは裏腹に、こちらに歩いてくるサラは白いネグリジェのような寝間着をまとっていた。
宿屋に泊まって冒険者をやっていた頃は、互いに着たきりで雑魚寝していたものだが。
「それで、何をしているの?」
そうして髪をかきあげながら羊皮紙を覗き込んでくるサラから、ふわりと石鹸とハーブの香りが漂ってくるものだから、こちらも気が散って仕方がない。
少し頭を振って頭をハッキリさせつつ、内容をまとめてみる。
何となく早口になっていたのは、気の所為だろうか。
「今日集めたデータを眺めていたんだ。明日から何をするか、記憶の新しいうちに整理しておきたくてな」
「ふうん。こういう数字ばっかり、見てて楽しいの?」
「そう見えるか?」
「見えた」
正確には数字というか、データを見ていて浮かんでくる仮説を検討するのが楽しいのだが、それを説明するのは少し違う気がして、別のことを口に出した。
「これを見ながら、豆を受け取りに来た農民の顔を1人1人、思い浮かべていた」
「みんな、嬉しそうだったわね」
「そう。たかが豆を配っただけなのに、嬉しそうだった」
おずおずと遠巻きにしていた農民達の中から、度胸があったり困窮している者が前に出て列に並び、豆を笊に受け取ってみせると、顔を輝かせた残りの農民達が列に押し寄せる。
そうして豆を受け渡す際に一人一人の農民達と顔を合わせ、できるだけ記憶する。
その痩せた手、浮き出たあばら、細った足、傷んだサンダルの足元、臭うボロ布のような服、垢じみた髪。
全ての要素が、前の領主にこの領民たちが、どれだけ痛めつけられたのかを否応なく想起させた。
「数字を見るなら、顔を憶えておかないとな。数字だけで判断すると、いろいろと間違える」
今やっているのは、数字と顔のタグを記憶づける作業だ。
自分のように理屈っぽい性格の人間は、この作業をしないと数字弄りだけで満足してしまう。
「なんとかしたいのね」
サラの疑問に、肩をすくめて答える。
「そうさ。こう見えても、代官様だしな」
「そうね、ケンジったら、代官様なのよね」
下手な冗談にも笑ってくれるサラの存在が、昼間の農民達の姿に感じた苦痛を、少しだけやわらげてくれた。
明日も12:00頃に更新します




