第659話 豆を配ろう
農家に豆を配布する。
文字にするとたったこれだけのことが、いざ実務にしようとすると、様々な課題が立ちはだかる。
一番の問題となったのは、住民の正確な名簿の不在である。
誰が生まれ、誰が死んだかという領地の住人の生誕名簿は教会で管理されている。
ところが、誰と誰が結婚した、離婚した、子供を養子にした、別の村から誰が帰ってきた、などの人口移動についてはかなり怪しい部分がある。
「これも、前の領主が税金を取りすぎたことに理由があると思うのですが」
とはパペリーノの分析である。
それと、出稼ぎ農民の存在を隠蔽するために、意図的に管理を緩くしていた可能性もある。
おまけに前の領主は後任に対する嫌がらせとばかりに、結婚や離婚、子供の誕生などについても難癖をつけて税金を課した。
おかげで、農民達はそうした事柄について情報をあげなくなってしまったのだから、こちらとしてはいい面の皮だ。
「ですが、どうやって情報を集めますか。1軒1軒訪ねてまわりますか。農民達も実態を隠すでしょうし、4人だけで実行するのには、かなりの労力がかかりますが」
「まさかな」
パペリーノのいうような強制的なアプローチは取りたくない。
そもそも農民達の生活を支援しようとしているのに、嫌われるのでは割に合わない。
「まずは屋敷で豆を配布する。豆は農民に取りに来てもらう。豆がもらえるとなれば、自分から来てくれるだろう」
領地の農民達の暮らしが楽なようには見えない。
こちらから与えるという姿勢を示すことで、多少は歩み寄れるだろう。
「そして、豆を取りに来た農民に家族構成や農地の場所について確認し、今ある名簿や情報と照らし合わせる」
「なるほど。訪ね歩くよりは、よほど効率的ですね」
「その場で豆の栽培方法についても、多少は教えたほうがいいかな」
豆を配ったはいいが全滅しました、では意味がない。
ところが、サラがそれは不要ではないか、と意見を出してきた。
「うーん、あたしは豆の栽培ぐらい知ってると思うけどな。だって農家の人でしょ?」
サラの言うには、どこの農家でも豆の栽培ぐらいする。この村でも豆は栽培されていたはずであり、農婦が庭に植えていたのもその証拠だ、というのだ。
「たぶん、税とかが酷くて植えるのをやめちゃっただけなんじゃないかなあ」
たしかに、とうなずける意見ではある。
実際のところは、働きに来てくれる予定の農婦に確かめてみる必要がある。
「小団長、自分は例え豆でも無料で配るのはやめた方がいいと思うんですがね」
「なぜそう思うんだ、キリク?」
「そりゃあ、配られた豆を食っちまってから、また並ぶようになるからですよ。一度ただでもらえたんだから、次もただで貰えることを期待するようになりますぜ。それに、ただで貰ったものは大したもんじゃない、と思うのが人情ってやつじゃないですか」
モラル・ハザードというやつか。
こちらとしては座っているだけで農民の情報が得られる上に配布の手間が省けて、小麦の増収も期待できるのだから利益はある。
ただ、それを農民が認識するかとは別の論理だ、というキリクの言い分も理解できる。
「現金支払いは無理だな。収穫物からの税か。どの程度の割合が適正だろうか」
「飢饉に備えるという名目で1割でしょうか。もう少し低くても良いかもしれませんが」
先払いなしで、収穫物から1割か。
収穫の1割を飢饉に備えて保管するという名目であれば確かに理屈がつく程度の税だ。
保管をするのにも倉庫が必要となるし、経費のうちと言えるだろう。
豆を調達し、名簿を整理し、配布日を周知する。
農民から家族構成を聞き取って、名簿と照合する。
希望者には出稼ぎ農民から労働力を貸し出す。
「このぐらいなら、4人でもやり切れるかな」
「そうですね。本当なら地区でわけて順番に来るように伝えたいところですが」
「そうした統治機構が完全に麻痺してるからな」
領民からの信頼度がマイナスからスタートする農村振興は、なかなかにしんどい。
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