第628話 そっと握られる手
最近の革通りは、少しばかり喧しい。
朝は暗いうちから大勢の子供や女性がやって来てご飯を作り、いい匂いをさせたかと思えば、後からやって来た大人達は仕事終わりに夕方暗くなるまで、ガツンガツンと壁に向かって石投げをしていたりする。
最近は、工房の職人達だけでなく、革通りの他の工房の職人も混じって石投げをしているらしい。
「あれ、いいのかな」
仕事は終わったというのに、家にも帰らず石投げをしている大人達を見て、サラが心配そうに言う。
「いいんじゃないか?」
近くの工房同士で交流を図るのは良いことだ。
平和的なスポーツでなく、遊びの名を借りた軍事訓練を通じての友好なのが気になるが、元の世界の運動会も似たようなものらしいし、気にしても仕方ない。
それに、革通りの入口を封鎖するような事態になれば、その運命は一蓮托生なのだ。
仲良くなっておくに越したことはない。
それよりも、気になっているのは別のことだ。
「ねえケンジ、印刷のこと、教会からぜんぜん言ってこないね」
「そうだな」
あれから1ヶ月近く経つというのに、教会からの許可が一向に下りないのだ。
「だめってことはないと思うがな。説明に手応えはあった」
説明も場数を踏んでくると、結果は説明している最中にわかってしまう。
説明が終わった瞬間の相手の表情と反応も踏まえれば、正解率は7割から8割になる。
「むしろ、印刷業の利権が予想以上にでかいことが分かって、どう配分するか内部で調整しているのじゃないかな」
印刷業は、突き詰めれば面白いお話をバラ撒く事業であるから、面白い知識というコンテンツと、売り歩くためのネットワークと、従事する人々を雇うための資本がものを言う。
そして、教会とはまさに、印刷業を支援するのに適した組織なのである。
自分が説明をしたのは実務上の意思決定を担う高位の司祭達であるが、彼らも部下に各種の試算をさせているうちに、その利益配分に大きく目がくらんでいるに違いない。
利益の多くを彼らに渡す、と明言していることとニコロ司祭の派閥という抑止力があるとはいえ、どこかの誰かが権益の暴走に走らないとも限らない。
工房の防備を固めることを急いだのには、ジルボアの指摘以外にも、そうした背景がある。
「だが、それにしても遅いな」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「しばらく、街を離れてもらった方がいいかもしれません」
印刷業に関する検討状況について、教会のミケリーノ助祭に相談したところ、そのような助言をもらうことになった。
「防備は固めているつもりですが」
革通りについてであれば、今では簡易な城塞と化している。
100人程度の暴徒であれば跳ね返せるし、剣牙の兵団の支援も受ければ、1000人単位の敵に対しても籠城可能だ。
「いえ、そうではなくてですね。教会には多くの魔術の使い手を抱えた方もおられますし」
魔術か。
以前、魔術師に狙われた時の苦い記憶が蘇る。
あの時は認識そのものを操られ、思考を誘導されたのだ。
側にサラがいなければ、自分の足で歩いて行方不明になるところだったのだ。
今の防備は、集団の暴徒や怪物のように正面から攻めてくる相手に対しては役立つが、暗殺や魔術のように裏から搦め手でくる相手に対しては無力と言ってもいい。
そうであれば、ニコロ司祭の影響力のある領地に移動して、政治的情勢が落ち着くのを待った方がいい、という判断か。
「仕方ない。そうするか」
事業も大事だが、命の方が大事である。
それに、領地開発もそろそろ本腰を入れて進めてもいい頃だ。
とりあえず遠隔地から工房をどのように管理するか。
自分が不在でも工房を回すための手順について考えていると、そっとサラが俺の手を握ってくるのを感じた。
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