第564話 見本づくり
見本を作る、という方針が定まり、実際に手を動かし始めてからが新人官吏達が本当に苦労する番だった。
出版のド素人による初めての出版事業ということは、何をするにも見本や基準がないということだ。
基準となる羊皮紙の大きさが定まっていないので、大きさを決められない。
見本の活字もないので、基準となる活字の大きさも定まらない。
平民が読みやすい文体、というものが確立していないので、どのような文章で書いたら良いかわからない。
レイアウトの基本が定まっていないので、どの部分にページ番号を書くかすら決まらない。
「代官様、正直なところ参っております・・・」
目の下に隈を作り、憔悴した顔で申し出てきたのは聖職者のクラウディオだった。
真面目な彼には、神書を印刷するという畏れ多い事業に全精力を注ぎ、そのためにすっかり混乱してしまったようだ。
「我々が持つ神書は、基本的には前任者や先人達からの聞き書きの集大成です。ですから、本当の原典がどうなっているかと言えば、王都の大聖堂に奉じられている原初の神書にあたらねばなりません。私のような下っ端では、そのような畏れ多い真似はできません。ですから、私が所持している神書でも比較的、原初の神書に忠実な記述であろう箇所を印刷するようにしようと考えたのですが・・・」
「それで問題ないのでは?あくまでも見本なわけであるし」
「いえ!そうはいきません!見本であっても神書です!そして問題の重要性に鑑みるに、必ず上へ上へと報告されることになるでしょう。ミケリーノ助祭で留まることなく、ニコロ司祭様、その上の枢機卿様、そしてその上へと渡されていく可能性もあります!」
それをクラウディオの考え過ぎと言うことはできない。
実際、俺が冒険者ギルドにあげたはずの報告書の前例もある。
あの報告書も、上へ上へと登っていった挙句、なぜかニコロ司祭の手元へと転がり込んだ。
それが今に続く奇縁になったのだから、不思議なものだ。
「少し他の連中の進展の具合を確認してみるか・・・」
クラウディオを下がらせてから、新人官吏達の奮闘をチェックして回ることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「問題ありません!いやあ、これはいいものになりますよ!」
貴族出身で、団長の英雄譚を書こうと計画していたロドルフは、苦悩するクラウディオとは対象的に喜々として制作に邁進していた。
「ずいぶん、順調なようだな」
「ええ。団長に話を通しまして、アンヌさんに話に乗ってもらっているんです!」
聞けば、元は演劇の運営、今は貴族向けに枢機卿の靴の販売を任せているアンヌが、言葉の使い方や冊子の装飾について色々と相談に乗ってくれているそうだ。
「アンヌか・・・まずいのに借りを作ったな」
あの鼻の利く女が、印刷業に目をつけない筈がない。
ロドルフにしても、手伝ってもらうつもりが、いいように情報を吸い上げられている可能性が高い。
今のところ何も言ってこないということは、貸しを作ったつもりで黙っているか、何かを企んで動いている可能性もある。
靴の商売で組んでいる以上、その商売を危険にさらすようなことはしないだろうが、逆にそれ以外のことは何をしてくるのかわかったものではない。
俺としてはアンヌにきちんと釘を刺す必要性を感じた。
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