第562話 多少の競争
「はー、満足」
手作りのパスタをすっかり平らげたサラは、フォークの先でチビチビと器に残ったバジルのソースを舐めながら言う。
「このソース、絶対美味しいわよ。売れないの?」
「うーん、街で食事を売るには、ギルドに入らないとならないし、植物油は安くないからなあ」
一番の問題は価格だ。小麦粉の流通が確立していない現在、ソースの使い勝手は限られている。
それにソースの作り方自体は簡単極まりないから、結局は伝手と価格の勝負になる。
「ブランド化できないと、なかなか難しいだろうな。だけど製粉所が出来て代官として赴任したら、きっと毎日パスタが食べられるぞ?」
「ほんとに!?」
「ああ、製粉所があれば小麦粉がある。製粉所から出る麦のカスを使って鶏を育てるから卵もある。土地があるからサラの好きなハーブも育てられる。植物油は街で買って運ばないとならないだろうが・・・」
材料としては、農村で一通り揃うわけである。ニンニクも育てて、たまには鶏の肉を加えたパスタにしてもいい。
晴れた日に、代官の館の庭にテーブルを出して、この食いしん坊な赤毛の娘に毎日お腹いっぱい食べさせる。
そんな暮らしも悪くない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
久しぶりに元の世界の味を思い出し、すっかり油断していたからだろうか。
茶を飲みながら発せられたサラの言葉に、意表を突かれることになった。
「あのね、ケンジ。途中になっちゃった印刷の話だけど」
「うん?」
「あたし、水車小屋とかの設計図も印刷したらどうかな、って思うの。細かいことはわからないけど、なんかすごい仕組みになるんでしょ?」
設計図の印刷か。
正直なところ、すっかり頭から抜けていた。
大規模工事で設計図を描く慣習は、当然、存在している。
ただ、設計図は工事が終わると大体は教会に収められることになる。
意識の高い職人は自分の手元で使用するために写して持っていることもあるが、それだけだ。
「きっと、みんな仕組みを知りたがると思うの」
サラはコネや財産の重要性を叩き込まれて育った商家の生まれではない。むしろ報酬や成果は分け合うべきと考える農村と冒険者の価値観で生きてきたわけだから、発言自体に意外性はない。
ただ、その思いつきは先入観に固まった自分の頭を刺激したのだ。
「それは教会の方で、是非ともやりたいだろうな」
教会はノウハウの収集には熱心だ。図書館や資料室には、各地から集められた知的資産がうず高く積まれているハズだ。ただ、その十全な活用がなされていないという状態だ。
教会が主体となって印刷業に乗り出せば、教会に眠った資産が動き出すことになる。
これは教会全体にとって、価値ある事業となるに違いない。
「それなら、こっちでも水車の設計図を持っておいた方がいいな」
「どうして?」
「領地には製粉業で豊かになって欲しいけど、独占事業にはなってほしくないからな。保険だよ」
ニコロ司祭から預かる領地と領民が豊かになるのはいい。
苛政で重税に喘いできた農民たちは、その苦労に報われるだけ豊かになる資格がある。
だから、俺が任期にあるうちは頑張って領地を豊かにする。
「だけど、俺の後に代官になった人間が、製粉業の地位を乱用したら困るだろう?」
具体的には、小麦粉の値段を上げたり、政治的理由で製粉の優先順序を変えたり、小麦粉の質を下げたりといったことが起きる可能性がある。
「そうなった時、他所の領地に流すための設計図を持っておきたいのさ」
独占事業でなくなれば、そういった政治的な遊びもできなくなるだろう。
事業の健全な発展のために、多少は競争があった方がいい。
「そんなことして、危なくないの?」
「危ないかもな。だけど、みんなが白パンが食べられる未来の方がいいし、事業を興すからには、責任は取るものさ」
サラは呆れたように、黙って頭を左右に振った。
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