第367話 税金の正義
聖職者の2人が、何に対して引っ掛かりを覚えているのか、他の人間には理解できていないかもしれない。
だが、6人しかいない新人管理の内、2人が意に沿わない形で業務に従事することになるのは今後の統治にリスクとなる。
それに、新しい管理方式を他の教会領地に拡大する際には同じ種類の問題が繰り返し起こることになるだろう。
そこで、敢えて相手の得意な土俵に乗って徹底的に議論することにした。
聖職者の2人に心から納得してもらう為であれば、多少の議論に費やす時間など安いものだ。
黒板代わりに使っている塗料塗って黒くした壁に、石灰を使った白墨で議論の命題を書きつける。
命題は、統治行為における信仰と正義とは何か?である。
最初に、命題を示した俺から議論を問いかける。
「教会が統治をする行為に正義があると思うか?」
「あります」
即答である。
法学の教育背景があるせいか、議論という形式には馴染みがあるようだ。
パペリーノの返答には、確かな自信が感じられる。
「正義とは何によって保証されるのか?」
「信仰と法によってです」
「ふむ」
このあたりまでは、教会における聖職者教育の初歩の初歩なのだろう。
問うと同時に答えが返ってくる。
少し方向を変えて議論をすすめる。
「現実世界に落として議論しよう。教会への喜捨は正義か?」
「信仰を補佐するものですから、正義だと言えます」
問いを続ける。
「代官が教会の任命を受けて徴税することは正義か?」
議論の行き先が見えてきたのか、パペリーノの返答に勢いがなくなった。
「・・・正義だと言えます。私腹を肥やさない限りは」
続いて問う。
「商人が教会から代官の任命を受けて徴税することは正義か?」
「・・・正義です」
小さな声で、パペリーノが答える。
これで一応、俺の行為は教会の法に照らしても正義だと認めたことになる。
「と、法理論的には商人が代官として徴税する行為は正しいことになったわけだが、現実には商人が代官を引き受けた領地では苛政が行われ、農民が貧窮にあえいでいる事例が多いことも事実だ。だから、パペリーノの拒否感もわからないでもない」
個人的には神学論争それ自体には、あまり興味が無い。統治に正義があろうとなかろうと、そこで暮らす農民の暮らしが良くなればいいと思うのだが、理屈っぽい人間を納得させるためには、理論的背景というやつも重要なのだ。
それに、この議論は聖職者をやりこめるための議論ではないから、結論が見えたところで、こちらで適当に引き取って別の方向から議論を続ける。
「基本に戻って議論しよう。徴税は正義か?」
「正義です」
「税金を軽くすることは正義か?」
「正義だと言えるでしょう」
「反対に、全ての収穫を税として取り上げることは?」
「正義ではありません」
「では、徴税における正義と不正義の境目はどこにある?」
パペリーノは少し考えて答える。
「半分、ではないでしょうか」
いわゆる五公五民である。
領主と農民の関係が大体、そのあたりで線引されることが多いのはこの素朴な、半分半分という感覚、に基づくものなのかもしれない。
続けて問う。
「税の記録を見てきた聖職者として事実を知っているだろう?領民への税は本当に半分だろうか?」
本日は22:00にも更新します




