第221話 枢機卿の靴
ニコロ司祭は帰り際に振り返ると、軽い調子で付け加えた。
「靴の件、枢機卿にお話してみよう」
「それは、ありがとうございます」
以前、俺が諦めた枢機卿に開拓者の靴を履いてもらう、というアイデアである。
それが、ニコロ司祭の政治的儀式のために日の目を見ることがあるかもしれない。
ニコロ司祭は軽い調子で付け加えたが、枢機卿の衣装選定は数カ月から数年のスパンで大貴族や大商人の献上品による競争や、宗教的重要性に鑑みた優先度で、ガッチリと固められているのだ。
その強固な因習と既得権に、簡単に割り込もうと言えるのだから、ニコロ司祭の権勢の強さが伺えようというものだ。
ただ、ニコロ司祭は言うだけ言って、そのまま去って行こうとしてしまったので、俺は慌てて呼び止めた。
偉い人は言うだけでいいかもしれないが、実務者にはものづくりが待っている。
必要な情報は、今、この場で聞き出さなければならない。
「ニコロ様、二つお聞かせください。枢機卿様は、華やかなものと、質実なものの、どちらをお好みになりますか。それと以前、使用された靴をお貸しいただけますでしょうか。それがあれば、改めて足のサイズを測るような失礼な手間を省くことができると存じます。」
ニコロ司祭は、その手の煩わしい実務には興味がないようで、ミケリーノ助祭に視線で手配をするよう合図だけすると、そのまま去って行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ニコロ司祭達がミケリーノ助祭を残して去ると、聖堂の部屋を覆っていた重圧が消えたようで、雰囲気が軽くなった。
だが、その雰囲気とは裏腹にミケリーノ助祭の表情は厳しかった。
「ケンジさん、これは大変なことですよ」
そう言うミケリーノ助祭の声が、少し震えている。
余所者の俺には実感が薄いが、やはりポッと出の工房に過ぎない会社が枢機卿の衣装を担当する、ということは驚天動地の出来事らしい。
「さようでございますか。どうも私のような身分の低い生まれの者には、どれだけ大したことなのか、どうしても実感がわかないところがありまして・・・」
まさか異世界から来たから実感がわかないとも言えないので、傍らに控えて黙っていたサラに目線で合図をして聞いてみるも、彼女も元は一介の農民に過ぎない。
枢機卿様がとても偉いということは知っているが、彼女からすると司祭様ですら、充分に偉いのだ。
彼女も、どうにも実感が湧かないようで小声で指折りしながら、
「ええと・・・街中で説法されてるのが助祭様で、教会を持っているのが司祭様で・・・その上が司教様で・・・」
と以前に教えた聖職者階級を懸命に数えている。
何だか可愛らしい様子なので見ていたかったのだが、ミケリーノ助祭は俺達の態度に不満だったのか、どれだけ凄いことなのかを細かい事例をあげて説明し始めた。
ミケリーノ助祭からすれば、俺達の失態は自分の失態であり、教会における自分の将来が閉ざされてしまうのだから、普段と変わらない俺達の様子に不安を覚えたのも無理はない。
いきおい、説明にも力が入ろうというものだった。
本日は18:00にも更新します




