秘めた決意
あれから数日
誰にも悟られぬようラフィーネは身の回りの整理をした
一刻も早く、と焦る気持ちを何とか宥めながらの作業は
かえって気持ちの整理をつけるのに役立っていた
体調不良を理由に、出来るだけマリーとも顔を合わせないようにして
勿論、婚約者であるあの方ともあの日以来一度も顔を見合せ言葉を交わすようなことはしていない
……遠目にはマリーと二人、一緒にいる姿を何度か見たけれど
哀しい、辛いと嘆く心に固く蓋をして
気付かれぬうちに踵を返して視界からその姿を消し去った
所用のため、領地に戻っていた父だったが
間もなく王都に戻ってくるとの連絡があった
伯爵である父に話し、その赦しを得ることができたなら
(全てが、……ようやく終わるのね)
それは一刻も早く来てほしい、それでいて永遠に来なければいいと
矛盾した感覚を覚える瞬間だ
この期に及んで来なければいいと思う気持ちを捨てきれていない自身に呆れてしまう気持ちもあるけれど
これまでに歩んできた過去を振り返れば
それほど簡単に割りきれるものではないのだから
せめてそう感じる己の心には正直でいてもいいだろうと、今はその気持ちごと受け入れることにしたのだ
コンコンー
穏やかに流れる時間を切り裂くように
静まり返った室内にノックの音が響く
「ラフィーネ様、旦那様がお呼びです」
慣れ親しんだ執事の言葉に了承の意を伝え震えそうになる指先にぎゅっと力を込めた
(いよいよなのね)
案内されるままに父の書斎の前まで辿り着くと
小さく息を吐いた
コンコンー
「お父様、ラフィーネです。入ってもよろしいですか?」
「入りなさい」
静かに促すような声音の返事に
少しだけ勇気付けられ、ラフィーネはその扉をくぐった
全体的に落ち着いた印象のある書斎には
大きな窓に背を向ける形でおかれた机がある
扉を潜ると真っ直ぐそこに座る父と向き合う、そんな配置になっていて今も机に向かったまま何かの書類を書いている姿が目に入る
入室の気配を感じたのかラフィーネが入ってすぐ、グランヴェール伯爵の肩書きを持つ父ランドルフ・トラン・グランヴェールが、書き付けていた書類から視線をあげた
「お父様、無事のお帰り心より嬉しく思います。視察でお疲れのところお邪魔いたしまして申し訳ございません。」
流れるような動作で優雅に挨拶する娘に
「お前も息災なようで何よりだ」と小さく頷いて返す父は
40を少しだけ過ぎていたが、今なお精悍な顔立ちに衰えは見えず
その焦げ茶色の瞳にも強い光が宿っていた
「して、何か話があると聞いたが?」
視察から帰ったばかりでそれなりに処理する問題があるのだろう
他愛ない話をする暇さえないまま、さっそく本題を切り出してくる父の前に、ラフィーネはさっと跪いた
普段からあまり表情を変えることのないランドルフも
さすがに娘ラフィーネのこの行動には驚いたのか
唖然とした表情を隠しきれていない
「一体、何を…」
「お父様、どうぞこのラフィーネの、生涯ただ一度きりの我儘をお聞き入れください。どうか、シェザード様と私の婚約を、解消して頂きたいのです。」
ついに、ついに言ってしまった―――
これでもう後戻りは出来ない
…今更、するつもりも毛頭ないけれど
こちらの真意を図るように真っ直ぐに見つめる眼差しに
こちらも思いの丈を込めて見つめ返す
ただの気まぐれでも、戯れ言でもなく
真実私がそれを願っているのだと分かって貰えるように
たた、ひたすら真っ直ぐに
それはどれ程の時間だったのだろうか
不意に父が目を軽く瞑ることで視線をはずすと
小さく溜め息をついた
「…お前は彼の事を、好いていたのではなかったのか?」
そうして紡ぎ出された1つの問いに
そっと微笑んで見せる
「お慕いしておりました、心から。…だからこそ、今のまま、省みられる事のない婚約者として、傍にいることが耐えられないのです。」
ラフィーネの見せる淡く儚い笑みに
伯爵は思った以上に娘が大人になっていたことを理解した
欲しいものを欲しいと
誰に憚ることなく言えてしまう幼さも
欲しいものを手に入れるために
どこまでも突き進んでしまうような若さゆえの無謀さも
いつの間にか彼女の中から消え失せている
それは伯爵家長女として彼自信がそうあれと望んでいたものでもあったのだが、齢16の娘には厳しい要求だったのやもしれぬと
今更ながらに感じてしまう
どこまでも奔放に、欲しいものを手にしようとする妹マリアーネの姿が傍にあるから尚更そう感じてしまうのかもしれないが
たった1つしか年が離れていないと言うのに、この違いは一体どうしたことか
ラフィーネの婚約者である青年の最近の動向は執事からも既に報告を受けて知っている
婚約者がいる身ながら、他の女性、ましてや実の妹に懸想していると耳にしたときには呆れたものだが、相手であるマリアーネまでもが積極的に姉の婚約者である彼と逢瀬を重ねていると聞いたときには、流石に眉をしかめた
社交界では、婚約者がいる相手へのアプローチは当然ご法度である
そうと知られれば忽ち礼儀も弁えず品の欠片もないと嘲笑の対象となるのは勿論、その後の身の振りにも大きな影響を残す
シェザードの行動とて誉められたものでは決してないが、そこはやはり、どうしても男と女では世間の見る目の厳しさが違ってくるのは致し方ないこと。マリアーネの行動こそが、最悪であると言わざるを得ないのが現状だ。
だからこそ出来るだけ早く二人を遠ざけマリアーネ自身にも婚約者をとその相手を探しはじめていた矢先の出来事だった。
「…そうか。最近の行動については私も把握している。お前自身がそれを望むのなら、ヴァルスリー侯爵家には私から話をしておこう。」
ラフィーネが、彼の婚約者であるために今まで懸命に努力してきたことを知っている。
彼女がどれ程の想いを婚約者に抱いていたのかも
それでもなお、婚約を解消すると言う結論に至ったのなら
せめてその希望くらいは叶えてやりたいと思う程度には
「ただし、今回の件では少なからず話題のもととなることも理解しているな?」
「はい。どのような中傷も嘲りも覚悟しております。出来ますなら、多少なりと落ち着くまでの間、領地に下がらせて頂ければと考えているのですが、お許しいただけますか?」
社交シーズンはまだしばらく続くけれど
叶うなら暫くは何者にも煩わされることなく
静かに時を過ごしたい
久しぶりに領地にある昔から個人として援助をしてきた孤児院に
顔を出してみるのも良いかもしれない
子供達の屈託ない笑顔は、傷付いた心を癒す一助となってくれるだろう
そんなことを考えながら父の判断を待っていると
「いいだろう」との言葉が耳に入る
「これから暫くは穏やかとは無縁の日々となろう。頭の痛いことだが、マリアーネのことも何とかせねばなるまいし。周りが煩くては落ち着くものも落ち着かぬ。当分の間は領地に下がっていなさい。お前は今までよくやっていた。たまには休息も必要だろう。」
思いがけない優しい言葉に、弾かれるように父の顔を見る
すると普段からあまり変わらない表情に、今は多少の疲れと共にこちらを気遣う色が見えた
ラフィーネは零れそうになる涙に気付かれぬよう
そっと頭を下げた
私自身もまた、気付かぬ内に意固地になっていたのではないか
声をあげれば、何かしら答えようとしてくれる人が
見えていなかっただけで常にその傍にいたのではないか
時には、手を差しのべてくれていたかもしれない
私自身が見ることを、知ることを拒んでいただけで
だとしたら、
一体私は今までどれ程の好意を気付かず無駄にしてきてしまったのだろうか
今までの自分の世界は大半が良くも悪くも婚約者で埋められていたのだろう
他の誰でもなく己自身の手で、目を塞ぎ耳を塞ぎ
そうしてどこまでも狭い世界で生きてきたのだろう
ならばこれから先の人生は
少しでも世界を広げ、今度は私自身が誰かに手を差しのべられるような、そんな生き方を選びたい
漠然とながらも
父との対話は今までに感じることのなかった新しい世界の扉を
ほんの少し開いてくれた、そう感じられるものとなった―――