プロローグ「喪失と抑圧」
本来の時刻なら、星々の瞬く、もしくは闇に染まるべき空が赤黒く燃えていた。
少年の目に映るのは、すでに大部分が焼け落ちた屋敷の壁。
豪奢な絨緞は焦げ付き、一部は石の床が露となっている。
古く受け継がれた魔法書の類も、炭化した本棚と共に灰になっていた。
魔法書の好事家が見れば悲鳴を上げるだろう情景だが、炎は何の容赦もなく、すべてを焼き尽くしていた。
ここにしかない、現存する旧世紀の知識が失われていく。
これら魔法書には傷害を防ぐ魔法が掛けられていた。
単なる火事であれば、数千度の熱にも耐えられるはずであった。
それが、為す術もなく灰となっている。
業炎は天井にまで届き、かろうじて屋根を支える梁すら焼き尽くそうとしていた。
すべてを焼きつくす炎は、少年にも牙を向く。
本来であれば、人間は一瞬たりとも生きていられない環境である。
息をすれば灰が焼かれる。それでなくとも、炎は酸素を奪い、有毒ガスを発生させる。
それでも少年は前を見て立ち続ける。
この情景を見る者がいたとすれば、少年の周りに淡く光るものが見えただろう。
それは耐熱、耐真空の結界だった。
辺りには累々と重なる屍。少年の家族、友、一族の死体だった。
少年はそれに目もくれず、前を睨み続ける。
少年の目に映るのは、自分より大分幼い少年。まだ幼児といってもよい存在だった。
周りの死体に火が回り、炎に沸騰した血液がシュウシュウと音を立てる中で、無表情に立ち尽くす幼児。
「怪物だ」と少年は思った。
少年は結界で自らの身命を維持している。しかし、幼児は結界どころか魔法の欠片も発することなく、その場で生きているのだ。
幼児に襲い掛かる炎は、まるで何かに吸い込まれるように消えていく。
無表情の幼児の眼に涙が浮かぶ。その様子のあまりのおぞましさに少年の顔が歪む。
こいつを生かしておいてはいけない。
そのとき、少年から見て幼児の向こう側で倒れていた男が顔を上げる。
「父上!」
少年は思わず声を上げた。だが、男-少年の父-の様子を見て、少年は絶句する。
沸騰した血液が白煙を上げ、肢体の大部分が炭化している。いつ死んでもおかしくない。生きているのが不思議な状態だった。
幼児が後ろを振り向く。
「止めろ! 父上に近づくな!」
少年はとっさに魔法で衝撃波を放ったが、幼児にダメージを与えることはできなかった。
「“神殺し”の……!!」
「もうやめろ、お前にはかなわない」
父が止めるが、少年は魔法を放ち続けた。
幼児は少年の方に向き直ると、片手を少年の方に向ける。
一族が死に、自分もこれから死んでいくのかと少年は思う。
だとしても、一矢報いなければ、死んでも死に切れない。
少年は自分の持つ最大の威力を持つ魔法を思い浮かべると、詠唱を始める。
詠唱が終わると同時に巨大な火球が幼児に向かって飛んでいく。中規模系最強魔法“大火球”だ。
ゴウっという音と共に、火球は幼児を包み込んだ。
しかし、火球は何事もなかったかのように、ふいに消え失せた。
少年は膝から崩れ落ちる。
“大火球”すら無効化されるなら、少年に打てる手はない。
と、そのとき、少年の体が青白く光り始める。
結界とは違う、転移魔法が発動する直前の魔法光だった。
「父上! なにを!」
言い切る前に少年は焼け落ちる屋敷から消えていた。少年の父が最後の力を振り絞って、転移魔法を発動させたのだ。
少年が気付くと、それはどこかの街道だった。
少年の見覚えのない場所である。たとえ、そこがどれだけ屋敷から近かったとしても、もはや父を助けることはできない。
少年はすべてを失ったのだ。
そして、神代より少年の一族に継承されてきた“神殺し”の能力と“魔王”の称号は簒奪された。
「コロシテヤル……、いつかお前を殺す!!」
少年は泣き叫びながら、闇夜に吼える。