たからもの
最後に残しておいたイチゴを小さなフォークで刺し、口に入れると、甘酸っぱい、懐かしい味がした。
こんなオーソドックスなショートケーキを食べるのは、久しぶりだった。
「珍しいわね。ひなたがショートケーキだなんて」
私の好きな、色とりどりのフルーツで盛られたタルトを食べながら、母が言う。
「いつもはこっちがいいって言うのに」
「なんだか、今日はショートケーキが食べたい気分だったの」
フォークを皿に静かに置いて、微かに湯気を立てるストレートティーを一口飲んだ。
今日は、私の二十歳の誕生日。
二十歳っていうのはやっぱり特別で、いつもの誕生日とは少し違う気がする。
さっぱりした性格だという自覚があるこんな私でも、たまには郷愁的な気持ちになったりするのだ。
――私がショートケーキを食べなくなったのはいつからだっただろう。
昔はあんなに好きだったのに。
私の家は母子家庭で、母と私の二人暮らし。父は私が二才の頃に病気で死んでしまって、私は全然覚えてない。
だから私が小さかった頃から、母は私の誕生日には切り分けられたケーキを二つ買ってきた。今日みたいに。
幼稚園に通っていた頃、誕生日会にお呼ばれして友達の家へ行った時、初めて大きなホールケーキを見て、びっくりしたのを覚えてる。私がいつも自分の誕生日に食べていたものとは、全く違うものだったから。
すごく大きくてまん丸で、雪のように真っ白なケーキ。私は一瞬で心を奪われた。
私は自分の誕生日に「おっきな、まぁるいケーキをかって!」と母にせがんだ。でも「二人じゃ食べきれないでしょ」と言って、母は買ってくれなかった。
今ならわかる。無茶なことを言ってたなって。
でも当時の私は、多分……多分だけど、悔しかったんだと思う。自分が大きなケーキを買ってもらえなかったということが。
きっと、自分の目の前でホールケーキを切ってもらって、そこから切り分けられたショートケーキが食べたかったんだ。
だからそれができないんだったらショートケーキなんて食べたくない。そんな子どもっぽい意地を張っちゃって、私はショートケーキを食べなくなったんだと思う。
ケーキの大きさが、愛情に比例しているとでも思ってたのかな……。
我ながら子どもっぽくてバカみたいだけど、昔の自分に同情もする。
母は私を育てるために必死に働いてくれた。それはすごく感謝してる。でもそのせいで私は、家では一人で居ることが多かった。
「ひなたはしっかりしてるから、大丈夫よね」
そんなことを言われたら頷くしかなかったけど、でもやっぱり少し、さみしかったんだと思うんだ。
だからそのくらいのワガママは、許してあげて欲しい。
私はショートケーキを食べなくなった代わりに、タルトを食べるようになったしね。
隣の部屋の本棚から大きなアルバムを持ってきて、ソファに座って眺めていた。
小さい頃の私の、寝てる顔、笑った顔、泣いた顔。母はよく私の写真を撮ってくれていた。
カシャッ
隣を見ると、母がカメラを持って立っていた。昔からずっと使ってる、フィルム式の一眼レフカメラ。
「まだまだ現役ね」
母は愛おしそうにカメラを撫でながら、私の隣の椅子に座った。
「懐かしい?」
「うん」
母と二人で、アルバムを見た。昔の友達や、若かった頃の母も写ってる。
「これなんてひなた! あなたこの時滑り台から落ちて鼻の下切ったのよ! もう血がダラダラ出て、大変だったわ。女の子なのに、顔に傷付けちゃった! って」
あはははっ、と二人して大笑いする。幸いなことに、私の顔にその時の傷は残っていない。……ほとんど。
アルバムの最後のページには、一枚だけ、父と一緒に写った写真がある。今も住んでいるこの家のリビングで、赤ちゃんだった私を抱えながら、優しげな微笑を浮かべる父。
眼鏡をかけていて、頭の良さそうな顔をしている。
母には内緒だが、私はアルバムの最後のこの写真を、子供の頃に何度も見た。
家に一人で居てさみしくなった時、声も覚えていない父を、写真の中に見た。
この人が私のお父さん。なんだか不思議な気持ちだったことを、覚えている。
私がこの写真を見ていると、母が言った。
「お父さんのこと、覚えてる?」
「覚えてないよ。二才とかだもん……。覚えてない」
「そう……。そうよね……」
母はそう呟くと、すっと立ち上がって隣の部屋へ行き、押入れを開けた。
なんだろう……? そう思って様子を見ていると、母は中から物を次から次へと出して積み上げた。そして奥の方からラッピングされた、リボンのついた箱を取り出した。
箱についた埃をふぅ、っと吹き飛ばし、私のそばに来ると、
「誕生日プレゼント」
そう言って、箱を渡してきた。私は素直に受け取る。ラッピングの紙のデザインから、少し古いものであることが分かった。
「お父さんから」
胸が高鳴って、思わず母の顔を見た。
紙が破けないように慎重にラッピングを剥がして箱を開けると、中に入っていたのはアルバムだった。
表紙には綺麗な文字で“たからもの”と書いてある。
「ひなたが二十歳になったらね、渡してくれって」
母が静かに言った。
開くと、一ページ目には二枚の写真が貼ってあった。そしてそれぞれの写真の下にはタイトルと思われる一言が書いてある。
一番最初の写真。それは父が赤ちゃんの私を抱きかかえた写真。でも、表情は先ほどのアルバムにあった写真のような微笑ではなかった。
満面の笑み。そしてその写真の下には『愛してる』とあった。
父の、あの微笑以外の表情を見るのは初めてだった。そして二枚目の写真――
二枚目の写真は赤ちゃんの私が寝ている写真だった。
そしてその横で父も寝そべり、赤ちゃんの私の小さな手を――
白目を剥き、口をアーンと開けて、食べようとしている。その下には『食べちゃいたいくらい、愛してる』。
ぷっ、と私は吹き出した。
「おもしろい人だったのよ。ユーモアがあってね」
母が懐かしそうに言う。
父がこんな人だったなんて。あの写真の、賢そうな微笑からは想像もできなかった。
ページをめくると、ずっと開かれていなかったアルバムはバリバリと音を立てた。古くなったビニールが歪んでいる。
見開きに四枚の写真。どれも、私と父がツーショットで写っているものだった。
オムツを変えている父。『うごかないでヨ!』
一緒にテレビを見ている二人。『親子そろって、口があいてる』
お風呂に入る二人。『はじめてのおふろ!』
哺乳瓶でミルクを飲ませている父。『大きくなあれ』
写真とタイトルの手書きの文字から、溢れ出てくるような幸せと愛情をしっかり受け止めながら、ページを一枚一枚めくる。
若い頃の母と私の写真や、家族三人の写った写真もあった。どれも家や近所の公園で撮られたもので、当時の何気ない日常そのものだった。
後半に入ると、父は少しづつ痩せていくのが分かった。病室らしき場所で撮られた、パジャマを着た父と私の写真なんかもあった。
「がんだったの」
母が呟くように言った。
「分かった頃にはあちこちに転移しててね」
それを聞いた途端、ページをめくるのが急に怖くなった。
もう十八年前に死んでしまっているのに――私は父の事を覚えていなかったのに――
ページをめくってしまったら、父の死を、体感してしまう。そのことが、怖かった。
震える手で、ページをめくる。
次のページにも父の笑顔があった。痩せてはいたが、顔色は悪かったが、幸せそうな笑顔だった。
「最後は家で過ごすことに決めたの。もうどんな治療も効かないことが、分かっていたから」
最後のページの、最後の写真は、私を抱きしめる父の姿だった。
場所は私の今座っているソファ。
テーブルの上には、一本だけロウソクの刺さったショートケーキ。
目を瞑り、静かに笑う父。
『誕生日おめでとう。いつまでも、幸せに』
抱きしめられているような、暖かな気持ちだった。
父は、私にビデオレターも、手紙も置いていかなかった。それでもこのアルバムを読むだけで、思いが伝わってくる。
匂いも、声も、暖かさも、思い出した気がした。
ケーキの大きさが愛情に比例しているなんて、間違ってたんだ。
私はこれからも、誕生日にはショートケーキを食べよう。
この写真の中のような、愛情のいっぱいこもった、ショートケーキを。
「このカメラもね、お父さんのなのよ」
母がカメラを差し出す。アルバムをテーブルに置き、受け取ると、ずっしりとした重さがあった。
「写真が好きな人でね。これでひなたの写真を……俺の分まで撮ってくれって言って、私がもらったの。これは元々あの人のだけど、私からの誕生日プレゼント。……撮ってみて」
「……うん」
テーブルの上のアルバムを撮ろうとして、ピントを合わせようとする。
しかしいくらレンズを回しても、視界がぼやけてピントは合わなかった。
深呼吸をして、ぎゅっと瞼を閉じる。
暖かな涙の粒がこぼれて、ようやくピントが合った。
静かに、優しくシャッターを押す。
私が初めてこのカメラで撮ったのは――
私の“たからもの”だった。