彷徨い人の村
距離はあるのに賑やかな羊たちの声が響いて来る。
この辺りまで来てようやく、背丈は低いが密集した葉の草原が見えてきた。
その中に雲のような白い塊がうごめいている。周囲を駆ける茶色い影は――馬か。
同じ砂漠を生きるからだろう。体つきや足運びは名馬として知られる母国のイーカル馬とそっくりだ。
ジアードが馬の観察に夢中になっていると、隣では眼を丸くしたフアナが白い塊の方を注視していた。
「すごい数の羊!」
「この一族は遊牧をしてるからね」
「ここが、さっき言っていた『彷徨い人』の村よね?」
さまよいびと……それがこの民族の名前だろう。馬上の人の纏う色彩はこれまで見てきた他のアスリア人たちとまったく違い、原色を巧みに使った裾の広がったコートのような服を着ている。
「彷徨い人って皆行商人なのかと思ってたわ」
「街で目にするのは行商の人くらいだからそう思ってる人も多いみたいだね。
彼らは本来はこの砂漠で雨を追いかける遊牧民だったんだ。冬はこの辺り、夏はサザニアの国境付近って大移動をしている」
「へえー」
「四百年前の聖戦の後、海の方と内陸の国が国交を始めて、その時に大きな問題になったのがこの砂漠だ。
当時はろくな地図もないし砂漠の中には目印になる物もない。水場も殆どないから水や食料を調達できずに命を落とす事も多かった。
そこで白羽の矢が立ったのが砂漠を知り尽くした『彷徨い人』たちなんだ。
最初は小遣い稼ぎ程度に道案内や砂漠超えの手伝いをしていたらしいんだけど、次第に街の人々から商売を習い、行商を始めた」
ダウィはこの土地に住む人々の歴史を、教科書を読むように淀みなく解説する。
いつものように、遠い国から来たジアードにとってまったく知らない話であったが、ここから遠くない土地に生まれたフアナにとっても初めて聞く話であるらしい。
時々合いの手を入れながら聞き入っていた。
「――いつも思うんだけど、ダウィってなんでも知ってるなあ」
一段落した時、フアナが感心したように呟いた。
「どんな事でも聞けば百倍になって返ってくるわよね」
「つい癖でね。やっぱりしゃべりすぎ?」
「ううん。知らない話は面白いからいい。そういうのって本で覚えるの?」
「本で読んだり……勿論学生時代には授業で教わったりもしたし……
それに自分で見てきた事も多いかな。仕事柄こうして大陸中ふらふらしてるから」
ダウィはそう言って、今度はこの辺りに生える背の低い潅木と彷徨い人の食生活の関係について語りだした。
――すまん。さすがにそろそろ頭がパンクしそうだ。
ジアードは早々に音を上げた。
* * *
彷徨い人の村はジアードの想像する村ではなかった。
「テント……だよな」
母国の軍で使っていた物とは素材も形もだいぶ違うが、きっとこれもテントと呼ぶのだろう。石や木で出来た『家』ではない。
見慣れない布で覆われた、円柱と円錐を組み合わせた形のもの。
大きさは様々だが形はどれも同じで、入り口はとても狭く小さい。元々背をかがめて入るものらしいが、大柄なジアードだといっそ膝をついた方が楽なのではないかというほどしかない。
「これが彼らの家だよ。折りたたみできる木枠に、羊の毛で作った丈夫な布を被せてある。すごく暖かくて過ごしやすいんだ」
なるほど。防寒具に使われる羊の毛なら、おそろしく気温の下がる砂漠の冬に最適の建材と言えるかもしれない。
ガラゴロと車輪の音を響かせながら集落を進むと、物音に気付いてテントの中から女性が出てきた。
「あらまあ、ダウィじゃないの!」
親しげな笑顔を向けてこちらに駆け寄って来たのは小柄な中年の女性だった。紫の生地に青と黄色の糸で刺繍された鮮やかな民族衣装はやはりその羊の毛を使っているのだろうか。厚手の生地でとても温かそうだった。
「通りかかったから寄ってみたんだ」
「いつでも歓迎よ」
そんな話をしながら、ダウィは数頭の馬がつながれている所に馬車を寄せた。
「ついたよ。降りて」
車輪止めをつけ、馬をくびきから開放する間もダウィは女性と会話を続けている。
「今日泊まってくんでしょ」
「連れが二人いるんだけどいい?」
「ええいいわ。準備してくるから待っててね」
女性は別のテントの中へ入っていった――と、入れ違いにそのテントから小さな女の子が飛び出して来る。
「ダウィー!」
濃いピンク色の民族衣装の少女は、長いお下げを揺らしながら、ダウィに飛びついた。
「ダウィ、おかえり!」
「ただいま」
腕の中に迎えた小さな背中をダウィは優しくなでる。
「……隠し子?」
フアナの声に少女が顔をあげた。五歳くらいだろうか。アーモンド形の黒い目に濃くはっきりした眉、小さく丸い鼻――ダウィとは明らかに顔立ちが違う。
「あはは。違うよ。さっきのおばさんの娘」
「おかえりって言ってたじゃない」
「ここの人達は一度でも家に泊めた人は家族として扱うからね」
フアナとジアードを不審げに見る少女を安心させるように抱きしめ、ダウィは続けた。
「うちの奥さんを拾ってくれたおばあさんが居たっていったでしょ?
そのおばあさんの弟の孫がこの子のお父さんなんだ。この中じゃ比較的年が近かったから兄妹みたいに育ったんだってさ。
その縁で俺も何度かここに来た事があってね」
ならばこの子は姪のようなものか。
ダウィの影に隠れているが、見慣れない外国人を警戒しているだけで決して人見知りではないようだ。
フアナが話しかけると、ツェチーという名で五歳だと名乗った。ついでに抱いている馬のぬいぐるみはバトーで1歳。ツェチーはお姉さんなので一人でも平気だけど、バトーが寂しがるから毎日一緒にお昼寝をしている――と嬉しそうに語った。
つまり、ちょうど昼寝から覚めたところ、という意味らしい。
「部屋空いたわよー」
先程の中年女性――ツェチーの母親に呼ばれた。ダウィは返事をしながら手早く馬を横木に繋ぐ。
ツェチーが側にあったバケツを引きずるように持って来た。
「あたし、うまにおみずあげておくよ!」
「ありがとう」
頭を撫でられておさげの少女は嬉しそうに頷いた。
少女と別れ、女性の手を振るテントへ向かう。
すぐに入るのかと思いきや、ダウィはテントの前で立ち止まると、頭上を見上げて左手を右手で包み込み、祈るような仕草をした。
「皆が無事であった事に感謝します」
そして頭を垂れる。
「……なんかのまじないか?」
ジアードが問うと、ダウィは上を見上げて答えた。
「帰宅の挨拶だよ」
ダウィの視線の先――テントの天辺にはなにやら金属で出来た飾りが載せられている。
「風見鶏?」
「先祖の魂が宿る所なんだって」
妙な事を言う。
首を捻るジアードの隣でフアナも困惑の表情を隠せない。
死んだら魂はすぐにこの世からいなくなるんじゃないんだろうかと。少なくとも二人は、死んで肉体を失った後もこの世に残るのは余程の恨みを残した人間だけだと思っていた。
「彷徨い人の魂は死んでも冥界に行かないんだよ。そしてあの飾りに宿って子孫を守るんだって。そう信じられている」
恨みがなくてもそこに残るのか。
それじゃあ世界中が死霊だらけになってしまう。
理解できないという顔の二人を見てダウィは楽しそうに笑った。
「独特の死生観だよね。
少なくともこの大陸ではどこへ行っても、死者の魂は冥界に行き、冥王神の審判を受けた後に転生すると言われているのに」
今度はほほえましいとでも言いたげな笑みを浮かべ、彼は屋根の上の飾りを指差す。
「さっきも言ったように、あそこにはその一族の先祖がいるんだ。
だから彷徨い人の男達は帰宅する時に必ず先祖に祈るんだよ。『留守中に家族を守ってくれてありがとう』って」
「それは男の人だけなの?」
フアナが問う。
「放牧に行ったり遠くへ買出しに行ったりするのは男の役目だからね。一日中ここにいる女性達は祈る必要がないって事だと思うよ。
女性が祈るのは、新しいテントを立てる時と分解する時と、後は――冠婚葬祭の時くらいなんじゃないかなあ」
「祈っちゃいけないって事じゃないのね」
フアナは胸の前で手を組んだ。
「これからお世話になります」
それを見て、ジアードも右へ倣えした。
「世話になります」
テントの中は見た目よりも広々としていた。中央には簡単な煮炊きもできる暖炉が置かれ、その隣にテーブルがある。
円形の壁に沿って床が一段高くなっていて、そこがどうやらベッドのようだ。
「荷物を置いたら手伝いに行くよ」
ダウィは荷物を片隅に纏めながら、ここの習慣について語りだした。
「ここの人たちはね、客人って感覚がないんだ。
ほら、こんな砂漠の真ん中で生活してるからさ。『彷徨い人』はお互いに助け合って生きてきたんだ。
そのお陰なんだろうね。困っている時には見ず知らずの相手でもなんのためらいもなく手を差し伸べてくれる」
「良い人たちね」
「そうだね。
ただ、俺たちとちょっと考え方が違うから、気をつけないといけない事もある。
彼らの感覚では助け合うのは当然の事なんだ。助けた相手に感謝を求めない代わりに、相手も自分達を助けてくれるのが当たり前だと思ってる。
例えば、宿がない人がいたら泊めるのは自然な事。一度でも泊まったら家族。家族は仕事を手伝うのが当たり前。そういう感覚なんだよね。
だからここに居る間は遠慮のかけらもない態度で仕事を頼まれると思うよ」
世話になりっぱなしというのは気が引ける。そういう事ならむしろ気が楽だった。
「ずっと座ってばかりで体を動かしたかったところだ、ちょうどいい」
ジアードは背負っていた荷物を置き、肩を回した。
その時、ばさりと入り口の布が持ち上げられた。壮年の男が顔を出し、ダウィと再会の挨拶を交わした。さっきの少女の父親のようだ。
男は、ジアードを見て嬉しそうな顔をした。
「良い身体をしてるな。背も高いし。今からテントを一つばらすんだ。体力のある奴が欲しかった」
手伝ってくれという事だろう。宿代分はきっちり働こうと、ジアードは男の後をついてテントを出た。
テントの解体の後、更に一仕事するとすっかり日が傾いていた。
食事に呼ばれたので一番大きなテントに向かう。
食事は一族の女達がまとめて作り、手の空いた者から順にこの食堂代わりのテントに来て勝手に食べるものだそうだ。ジアードがついた時にはすでに十人ほどが座っていた。
言われた通り入り口で靴を脱ぎ、部屋に入る。
座布団片手に座る場所を探していると、他の女達と仕事をしていたフアナが駆け寄ってきた。
「お料理! 作りました!」
胸をはり、誇らしげに皿を差し出す。
蒸した根菜や肉の盛り合わせのようだ。
「料理できるんだな」
少し意外だったので思わずそう呟くと、何故かフアナは目線を逸らす。
「これ……作ったんだよな?」
「作った、よ?」
じゃあ何故こっちを見ない。
「ええと、その……私は、パンを丸めたの」
皿の端にいびつな形の白い物があった。
「これか?」
こんなに白いパンは珍しい。それにやけに柔らかい気がする。
ダウィはそれを千切ると、蒸した肉を挟んで口に運んだ。
「この辺りは蒸しパンなんだ。――うん。フアナ。初めてとは思えないくらい上手だよ。生地を捏ねすぎてないからすごくふわふわしてる」
ジアードも見よう見まねで口に入れた。
シンプルな見た目だが、ふわりとしたパンが肉汁と野菜の汁を吸い込んで想像以上に芳醇な味になる。
「……うまいな」
ダウィのような巧い褒め言葉は出てこないが、確かにこれは美味しい。
フアナの皿の倍ほども盛ってあったはずなのにあっという間になくなった。
「あー! スープのんでないー!」
突然大きな声がしたと思ったら、厨房の中で最初に会った少女――ツェチーが頬を膨らませていた。
ぱっと配膳台へ走り、両手にマグカップを持って戻ってきた。
「これ、あたしつくったの!」
カップをダウィとジアードに渡し、フアナの分を取りにまた配膳台へ戻っていった。
「……本当にこれ、あの子が作ったのか」
刻んだ野菜と羊肉のスープだ。五歳児には難易度が高すぎる気がする。
「作った、といえば作っていたわよ」
一緒に料理をしていたフアナは曖昧な言い方をして、ちらっと後を振り返る。
再び戻ってきたツェチーが胸をはった。
「がんばってまぜたんだから!」
フアナが笑いながら少女の頭を撫でる。母親が下ごしらえをした鍋をかき混ぜるのが彼女の仕事だったそうだ。
「ジアード達は何してたの?」
「テントを一つばらして運んで、それから池で家畜に水を飲ませてきた」
「楽しそうっ」
「水浴びは出来たな」
「いいなあ。後で私も行っていい?」
「後でったってなあ――もう暗いぞ」
「ランタンもって行けばいいじゃない」
「夜はかなり冷え込むっつってたから――っと、なんだ?」
外が騒がしい。
羊たちの尋常じゃない鳴き声と足音、それにタイの吠える声が混じる。
ダウィが剣を握って外へ飛び出した。
ジアードとフアナも後に続く。
食堂になっているテントの裏あたりで、男が一人、弓に矢を番えて空を睨んでいた。
「そこのテントの屋根に変な獣がいやがった。矢を打ち込んでやったが……」
「逃げた?」
「ああ。足には当たったはずなんだが、空を飛んで逃げやがった」
矢を片付けながら周囲に視線を配るのは、ツェチーの父――血縁はないがダウィにとっては義兄のような人物らしい。
「どんなの?」
「暗くてよく見えなかったが、羊の頭くらいの大きさで、羽とぶっとい尻尾が生えてた」
「尻尾ってトカゲみたいな?」
男はうなずいた。
砂漠の入り口でフアナを襲ったものよりもだいぶ小さいが、形の特徴はよく似ている。やはり魔族だろうか。
ダウィは彼よりもだいぶ年上に見える男の肩を抱き、安堵したように深い息を吐いた。
「君が無事でよかった」
「あんな奴には負けねえよ。なんかトラブルか?」
「わからない。そうかもしれない」
「また来ると思うか?」
「どうだろう……今晩はタイと見張っておくよ」
そう言ってダウィはタイに周囲を見回るよう指示を出した。
あっという間に白い犬は草原へと駆けて行く。
「迷惑かけたな」
「お前はラクトゥリィの旦那じゃねえか。家族だ。気にするこたない」