魔力の暴走
紫色の空の下、真っ赤に染まった地平線から太陽が顔を出し、あっという間に辺りが真っ白になる。それは砂漠で見る三回目の朝日。
日の出前に目を覚まし、日の入りと共に眠る健康的すぎる生活にもすっかり体が慣れ始めていた。
……とはいえ。
「ふぁ…ふ……」
欠伸ばかりはどうしようもない。
昨日の夕方あたりからガタガタした地面がだいぶ平らになって、手すりに捕まらなくても良くなったのだが、そうなると今度はやる事がない。
景色なんて大して変わらないし、体を動かすほどのスペースも無い。フアナは犬となにか「喋って」いるらしいが、ジアードには犬の言葉が聞こえないのでそこには参加できない。いや、聞こえたとしてもきっと理解できない。フアナと犬の会話の殆どが魔術に関することらしいからだ。
馬車は今日も道なき道をまっすぐ北東方向に進んでいる。
――そういや、四日くらいで水浴びのできる場所に着くなんて言ってたっけか。
ダウィの言うとおりなら今日あたり水場につく筈だ。
ジアードは空を仰いだ。
故郷でよく言われる話だと、砂漠で水場を探す時、一番頼りになるのは鳥だ。空を見て鳥が円を描くように飛んでいればその方向に行けばいい。そして次の目安が動物、その次に虫。それらは水場が近くなればなるほど増える。特に水を多く必要とするセグロサバクキツネや柔らかい植物を好むサバクアナウサギを見つけられれば確実にその近くに水がある。
これがこの地域でも適用されるのかはわからないが、見える範囲には鳥も他の生物の影もなさそうだった。
本当に水浴びのできるような大きな水場にたどり着けるんだろうか。
出発する際、「道がわかる」なんて言っていたダウィは本当に道が「わかる」らしく、殆ど地図を見ることもない。
だが、だからこそ不安になってくる。
どこまでも変わらない景色の何を目安にしているのか。星の位置とか岩の形だけでわかるものだろうか。
――考えても仕方ねえか。
今更地図を見る役割を引き受けたところで正確な現在地は掴めない。
幸い積んで来た水はまだあるし、ジアードにも多少砂漠でのサバイバルの心得があるから当面はなんとかなるだろう。
「ふあ~あ……」
再び大欠伸をして荷物に寄りかかると、それがうつったのか背後でフアナの小さな欠伸の声がする。
御者台のダウィも大きく伸びをして強張った肩を回している。
退屈な時間をもてあまし、なんとなく天井へと視線を投げたジアードの視界に、何かが過ぎった。
ゆっくり体勢を戻し、前方の梁に目を凝らす。そこに飾られた金属製のプレートは――
「……アスリア=ソメイク国の」
略式だが、国をあらわす紋章だ。
「なんでこんな所に」
独り言に気がついたダウィが振り返る。
「この馬車を借りた会社を立ち上げたのが当時の国王だったからだよ」
「国王? なんだってそんな」
呟いてジアードは少し考える。
「もしかして、こういう貸し馬車の会社はあの村だけじゃなくて国中にあるのか?」
「さすがジアード。気がついた? 王都を中心に主要都市や国境周辺にあるよ。貸し馬車業だけじゃなく定期便や乗合馬車の管理もしてる」
愉しげに答えて彼は続ける。
「ちなみに、この間乗った船の会社の、設立時の出資者の一人もその国王」
「ウォーゼル王国から海まで、アスリア=ソメイク王国を横断する航路を占有する船会社と、国中に張り巡らされた馬車網――」
それは欲しい。
よく考えれば商業的にも物資輸送の観点からおいしいんだろうが、そんな事より忘れたくても忘れられないジアードの軍人としての部分が刺激される。
「その会社の人員は?」
「社長にあたる事をしているのは、今はソメイク家だね。王家の分家」
「そっちじゃない」
「ご期待通り、支店長は身元のはっきりした者ばかり」
「定期便の馬車の御者も、だろ」
船と馬車は、いわば目だ。
そして馬車会社のすぐ傍に魔術師連盟の遠話室があった事をあわせて考えれば、おそらく人の考え付く最速のスピードで情報は王家に集まる。
「とんだ腹黒だな。その王様」
「それくらいじゃなきゃ国王なんてやってられないんじゃない?
――それにしても暇だね。やる事もないし……ジアード、日記みせて」
「んあ?」
突然何を言い出すのかと目を上げると、本の形をなぞるようなジェスチャーをしてみせた。
「日記、渡したでしょ?」
「ああ――ほらよ」
荷物の一番上に置いてあったそれを取り、片手を伸ばして渡す。
「おー。ちゃんと書いてある」
自分が書いたものを他人が読むというのは気恥ずかしいものだ。なんとなく後に下がると、空いたスペースに茶色いポニーテールが割り込んできた。
「……汚い字」
ジアードの日記を覗きこんだフアナがぽそりと呟く。
少し傷ついた顔をするジアードに目をやって、ダウィがフォローするように話し出した。
「最初はこんなものだよ。
ねえ、フアナはイーカル語の文字を見た事ある?」
「無いなあ」
「見事なまでに簡素化されててね、本なんて芸術品みたいだよ。
だから共通語は『訳わからない線がぐちゃぐちゃ踊ってる』ように見えるんだってさ」
大陸共通語は一説には神の言葉とも言われる古い文字で、表音文字ではあるのだがそれぞれの文字に意味があり、本来魔術的な要素を持つ文字だという。その為文章を記す際には魔術の誤作動を防ぐ工夫が必要とされ……ようはとてもわかり辛い文字なのだ。
一方イーカル語は、共通語のその複雑な文字が作業効率を落としていると考えた当時のイーカル国王が二百年ほど前に考案したものらしい。合理的に作られた文字であるため、余計な線は一切無い。
ジアードは決して愛国心のある人間ではないが、文字だけはイーカルの方が優れていると胸を張って言える。
だから、あまり理解していない様子のフアナに、ジアードは大きく頷いて見せた。
そんな無言のやり取りの間にもダウィは日記のページをぱらぱらとめくっていた。
「うん。さすがにジアードは真面目だね――『ザルの方がマシな虫けら以下』までメモしなくてもいいのに」
心底嫌そうに言うので、その発言をした張本人であるフアナが声を上げて笑った。あの時は申し訳なさそうにしていたのに、すっかり打ち解けた様子だ。
「スペルミスは……まあ、慣れかな」
ダウィは片手で手綱を操りながら、もう片方の手で器用に添削していく。
「お前こんなに揺れるのによく字が書けるな」
「いつも移動中はこんな感じだからねー」
五日分の日記はすぐに返って来た。
ジアードの角ばった文字の脇に、ダウィの右肩上がりで所々掠れた流れるような字が並ぶ。
「随分間違ってたもんだなあ」
「だから最初はそんなものだって。単語がちょっと怪しいだけで、文法や内容はあってたし、良いんじゃない?」
日記の添削という小さなイベントが終わると、車内はまた無言になってしまった。
この場合、手綱を握るダウィではなくやる事の無い自分が、同じく暇を持て余しているフアナに話しかけるべきであろうと思うが、かける言葉を思いつかない。
ジアードは元々喋るのが得意な方ではないのだ。
――初対面で会話に困った時は理想の休日の過ごし方を聞けばいいんだよ。
ふと、喋る事が仕事という親友の言葉を思い出す。
あれは親友の部屋で飲んでいた時の事だったろうか。子供の頃から口下手だったジアードをからかいながらそんな事を言っていた。
だが、その時は揶揄する口調に腹を立てて自ら話の腰を折ったのだった。具体的にどんな言葉でそれを問えば良いのか聞いておけば――
そんな事を考えていた時、ジアードの耳にフアナの叫び声が飛びこんできた。
「あ! あそこ! 馬車が倒れてる!」
御者台に手をつき、半ば身を乗り出すように進行方向を指差している。
ジアードもフアナの隣から頭を出した。
まだ点のように小さいが、行く先のやや右の側。そそり立つ崖の近くにこれと同じような幌馬車がこちらに車輪を向けて倒れている。
ダウィもそちらを見て、それから落ち着いた声で言った。
「事故じゃないよ。誰も居ないから大丈夫」
よく目を凝らすと、すぐにその言葉の意味がわかった。
丈夫な幌布が襤褸切れとなって風に揺れる様子はすでに相当な年月が経っている事を容易に想像させる。
これなら難儀している人などいるはずもない。
「二十年くらい前にね、盗賊に襲われたらしいよ」
ぽそっとダウィが呟く。
それを聞いてフアナは目を瞬かせた。
「盗賊って本当にいるんだ」
「残念ながら」
ダウィが首を振ると、少女は小さな肩を抱いて身を震わせた。
彼女の生まれたウォーゼル王国は庶民が武器を所有する必要が無いほど平和な国らしい。おそらく魔族の話を聞いた時のジアードと同じくらい、現実味を伴わない不安を喚起させる言葉だったのだろう。
馬車から顔だけだして周囲を窺う少女の頭を、ダウィはぽんぽんと撫でた。
「大丈夫だよ、騎士が二人も居れば君くらい守れる」
それにはジアードも頷いた。
訳のわからない存在である魔族と違って盗賊は生身の人間だ。人間が相手であるなら多少人数の分が悪くてもやり方次第で渡り合うこともできる。
ジアードにとっては魔族よりも盗賊の方がまだ現実的だった。
「しかし……随分酷いな」
横転した馬車が近づいて来るとその異様さに肌が粟立った。
荒地のガタガタした地面に対応するため、かなり頑丈に作られているはずの荷台が真ん中からへし折られているのだ。
どう見てもただの風化ではない。
「嵐だよ」
御者台から、いつもより一段低いダウィの声がした。
「聞いた話と調査資料を読んだだけで、一部俺の個人的な解釈もはいってるけどね」
ジアードが「さっきは盗賊と言ってなかったか」と聞く前に、ダウィはその馬車にまつわる話を語りだした。
「――あれは乗り合い馬車で、海の方から水の街へ向かっていた。その中には五歳くらいの女の子が一人――保護者もなく、一人で乗っていた。連れではないらしいんだけど、同乗した若い女性二人がとても可愛がっていたそうだ。他には商人が……正確には覚えてないけど、五人くらい。
一か月近くかかってここまで来て、馬車が盗賊に襲われた」
フアナが身をかたくする。
「御者は盗賊に斬り殺されてる。これが多分一番最初だね。
狂乱の中、盗賊は荷台に乗り込んできた。そして御者と同じような刃物で男達が殺された。ここまでは検死の結果からの推測だ。
そしてこの事件唯一の生存者である女の子の証言によると、自分を守ろうと抱きしめてくれていた優しいお姉さん達が無理やり引き剥がされ、お姉さんの顔が恐怖に歪んで――そこで視界が暗転した、と」
「気を失ったの?」
フアナの問いには答えず、ダウィは東の方を見ながら続けた。
「ちょうどその日、ここから少し離れた場所に『彷徨い人』と呼ばれる遊牧民のキャンプがあった。
そこには呪い師といわれる魔術師がいた。
遊牧民にとって呪い師は、占い師であり、巫女であり、医師であり、あらゆる知識に長けた人だ。当然、遊牧民にとって一番重要な移動の時期を決める天文学や気象学にも精通している訳だけど、その彼女が『その時期は例年雨は降らず、その日一日雨どころか風の兆候すらなかった』と証言している。
――なのに、その日の夕方、突然暴風が彼女のテントを揺らした。慌てて外に出ると西の空が黒く染まっていた。嫌な予感がして、そこへ馬を走らせた――と、調査資料にあった」
ジアードの位置からはダウィの表情は窺えない。
だが、いつもは顔に笑みを貼り付けているのと同様に声も穏やかさを保っている彼にしては珍しいほど、抑揚のない声だった。
「まるで嵐だったと」
一度息を吐くと、そのまま淡々と言葉を連ねた。
「吹き飛ばされそうなほど強い風が四方八方から吹き荒れ、雨が叩きつけられ、必死にたどり着いた嵐の中心にあの真ん中からへし折られた馬車があった。
そしてそのど真ん中に、唯一の生存者である少女が倒れていた」
びくっとフアナの体が揺れる。
こちらを向いては居なかったが、ダウィもその気配を感じたのだろう。
ゆっくりと首をまわし、琥珀によく似た金色の瞳がフアナの顔を捉えた。
「フアナ、わかるよね」
唇を噛んでいたフアナが小さな声で答える。
「その子――魔導師だったのね」
「そう。恐怖で魔力が暴走して周囲の全ての物を破壊したんだ。盗賊たちも、馬車も、同乗者の死体も――大好きなお姉さんも」
この旅に出て幾度目になるかわからない、ジアードの常識を大きく超えた話だった。
だが確かに、魔術のような力でもない限り、この頑丈な馬車の軸をへし折る事は出来そうにない。
「……すげえな……」
ジアードは思わず呟いた。
魔術を知らないジアードにはそれ以上の感慨は持てなかったが、おそらくフアナには同じ魔術師として思う所があるのだろう。先程までのダウィと同じように、感情を押し殺した声で言う。
「魔術師にはよくある話よ。それだけの事件なら、その子が生き残っていたのが奇跡なくらいね」
「力の暴走は周囲の人を殺すだけでなく、自らを殺す事も珍しくない――成人する魔術師が少ない理由の一つだね」
ダウィの補足に、フアナが重々しく頷いた。
「その子、どうなったの?」
「事件の前の記憶が抜け落ちていて、持ち物からも身元がわからなかったから、その発見者の呪い師が引き取ったよ。呪い師がその子につけた名前は『ラクトゥリィ』。古代の言葉で『嵐』っていう意味だ。
彼女は呪い師が死ぬまでの五年間を『彷徨い人』と過ごし、その後『魔術師の森』に引き取られた」
「生きてるのね」
「――魔術を使う事を自ら戒めて、今は『魔術師の森』のコーディネーターとして生活してる」
ジアードには、魔術師の事情はわからない。だから今の会話の半分も理解できていない。
だが、ひとつだけわかった事がある。
「それって、お前の嫁さんの話か」
ダウィがちらりと振り返ってジアードを見る。
「気づいた?」
「魔術師のコーディネーターをしてるって話は昔聞いた。
それに二十年も前の事件にしてはお前が知りすぎてるって感じたしな」
ダウィは肩を竦めて手綱を握りなおした。
「おしゃべりが過ぎたね」
しばらく口を閉ざしたが、やがていつもの声色に戻って話し始めた。
「あと少しで、その呪い師の住んでいたキャンプに着くよ。
呪い師のおばあちゃんは死んじゃったけど、この季節ならおばあちゃんの家族があの辺りにいるはずなんだ。
だから今晩はそこに泊めてもらおう。あそこなら水浴びもできるから」
水浴びと聞いて、フアナが嬉しそうに手を叩いた。
ぽつりぽつりと馬車の行く先に足首ほどの背丈の潅木が見え始め、嵐によって破壊された馬車ははるか後方に遠ざかっていった。