遠話の魔術師
眠れない夜が明け、宿に併設された食堂で朝食を詰め込む。
疲労や緊張感を漂わせていないのは相変わらずマイペースなダウィだけだった。
隣で飼い犬すら欠伸を繰り返しているのに、こいつはどういう神経してるんだ。
……今更か。
上辺は飄々としているが中身は計算高く、笑顔の下には感情の機微だって無いわけじゃない。これでも実は不安を隠していたり、パンを噛むふりをしながら器用に欠伸を噛み締めているのかもしれない。
ただ、このマイペースさは昨晩怖い目に合ったフアナにとっては良かったらしい。
ダウィからこの先に生息するサバクアナウサギ――ねずみによく似た外見でふわふわとした毛皮の小型ウサギ――の話を聞くうちに次第に元気を取り戻して来た。
――女ってのはどうしてそういうのが好きかねえ。
おそらくダウィも意図的にその話題を振っているのだろう。ウサギもそうだが、大抵の女と言うものは小さな動物が大好きで、街中で猫や犬を見かけようものならちょっかいを出しに行く。どんなに機嫌が悪い時でも、「ふわふわ」「もこもこ」「小さい」「可愛い」「綺麗」「甘い」――そんなキーワードですぐに釣れる。
ジアードの知る十六、七の女というのは誰もが頭の中にそんな甘ったるい物ばかりが詰まっている生き物だった。
どうやらフアナもそうらしい。
虹色の羽を持つ蝶の話を経て、掌に乗るほどの大きさで長い尻尾をふりふり群れで砂漠を横断するトビネズミの話に至った頃には、もう目を輝かせながら聞きいっている。
「ったく、女ってのは……」
呟きかけて、ふっと頭を過ぎったあの少女の儚げな横顔だけは――少し違う事に気がついた。
* * *
砂漠へ出る前に、昨日の魔族の襲撃について報告するのだと言っていた。
だから当然、連れて行かれるのは騎士団の支部だとか出張所みたいなものだと思っていた。
だがそこは昨日馬車を降りた場所に近い旅館に似た造りの建物で、想像していたような待合室や受付があるわけでもなく、屈強な男が出入りしている気配もない。
片側に小部屋の並んだ廊下の窓からは隣接する馬車会社の敷地が見える。昨日の御者が馬に飼葉を与えていた。フアナが手を振れば、御者も気がついて手を振り返してくれた。
ダウィは迷うことなく一番奥の部屋へ向かった。ぴたりと閉まった扉には金属製のプレートがはめられている。そこに刻まれた文字は聞きなれない単語だった。
「えんわしつ?」
「遠話室。だいぶすらすらと読めるようになってきたね」
「……なんだこれ?」
「ああ、見た事ないんだね。
ええと、魔術師連盟が主要都市においている緊急連絡用の部屋っていえばいいのかな?
魔術師の中には遠くはなれた人と会話する能力がある人がいてね。そういう人が常駐してるんだ」
ジアードは短く刈り込んだ髪を掻き回し、頭をフル回転させて理解しようと努める。
「それは……ここから魔術を使って、別の街に居る奴と会話ができるってことか? 例えばここからウォーゼル王国やイーカル王国でも?」
「そういうことになるね」
「それは便利だなあ」
「使い方次第だよ」
すぐに思いついたのは戦場での情報伝達に便利だという事だった。前線から遠く離れた安全な場所に司令室を設置する事も出来るではないか。それに狼煙も伝令も必要ない。伝達ミスや情報漏洩の危険もおそらく下げられるし、その魔術が時間差を生じないものなら迅速な行動にも繋がる。
――だが、イーカル王国に魔術師は居ない。すぐに実現をするのは難しそうな考えだった。
ついつい母国での運用など考えているジアードをよそに、フアナは彼とは別の部分に関心していた。
「遠話室がこんな小さな町にあるなんて凄いね!」
「ここは砂漠の入り口だから砂漠で何かあった時に必要なんだ」
「なるほど~」
「今は水の街にも遠話室がないから、実際には砂漠だけじゃなくてもっと広い範囲をカバーしてる事になるのかな」
話しながら、ダウィは扉を押し開けた。
その途端、お香か何かの甘い匂いが鼻腔をついた。
そこは窓がないのか塞がれているのか、昼だというのに真っ暗な部屋だった。視覚情報が少ない分、嗅覚への刺激が余計に強く感じられて思わず鼻での呼吸をやめた。ジアードは香水などの強い匂いで頭痛を生じるたちなのだ。
「パウラ、いる?」
ダウィが声をかけながら中に入り、二人と一匹も後に続く。
扉を閉めると虚ろな闇が周囲を埋め尽くし、頼りは隅に置かれた蝋燭のゆらゆら揺れる炎だけになった。
かなり広い部屋らしく、蝋燭一本では照らしきれていない。
フアナが不安げに側に居たジアードの袖を掴んだ。ジアードも正直気味が悪かったが、こうも頼られてしまうとそれを表情に出す事もできず、ただそっと腰の剣に手を添えた。
「パウラ、留守?」
ダウィが再び呼びかけると、奥のほうで何かが動く気配がする。
闇の向こうへ目を凝らした。そこには暗い色の布が下がっているようだ。カーテンというより部屋を仕切る垂れ幕だろうか。気配はその向こうにある。
「居ますよ。今行きます」
声と共に、垂れ幕の向こうからローブ姿の人物が出てきた。三十代前半位の青白い肌でやせぎすな女性。
ジアードがイメージする魔術師そのものの外見だった。
「あらダウィ」
意外そうな顔で一行を見た。
「お友達?」
「ソユーの孫のフアナと、騎士見習いのジアードだよ」
「あらあら。ソユーに孫がいたの。可愛い子ね。この子も運び屋?」
「うん。それでちょっと問題があって、ウォーゼルと『森』に連絡したいんだ」
「わかったわ。入って」
女は垂れ幕をめくり中に入るよう促した。
垂れ幕の向こうも蝋燭がひとつ置かれているだけの暗い部屋だった。
そしてその真ん中には――
「魔法陣」
床に描かれた複雑な図形をみて、フアナが呟いた。
昨晩見た例の絵本に貼ってあった直線的な魔法陣とは違って、こちらは幾重にも重なった丸いラインの中に見たこともない文字らしきものが円を描くように書かれている。これは魔力を高める事を目的とした魔法陣なのだそうだ。
「そこに椅子があるでしょ。座って」
言われるがままに、図形の脇に置かれたベンチに腰を下ろした。
「先にウォーゼルね」
パウラと呼ばれた魔術師は魔法陣の真ん中に座り、何か呪文のようなものを唱えだした。
これから何が起こるのかと緊張した面持ちで見つめるジアードにダウィが説明を始める。
「ああやって今、ウォーゼルにいる遠話能力者と連絡を取っているんだ。
繋がったら、俺達の言葉を――心の声っていうのかな? そういうので相手に伝えてくれる」
以前ならまったく理解できなかったであろう説明だが、今はなんとなくわかった気がしている。
「心の声ってのは、その犬がフアナと話している時のあれか」
ワンとも言わない癖にフアナには言葉が通じている。あれもそういった耳では聞こえない会話方法があるのだろう。そう言うと、ダウィが「そうそう」と言って頷いた。
魔術というのは普段の生活とかけ離れているせいで説明されてもまったくイメージできないが、理屈の通らないものではないらしい。
ただ、ジアードには扱えない力が存在し、ジアードには聞こえない音がある。それだけの事。
例えば、世の中には色の判別できない人や特定の音域が聞こえない人がいる。フアナとジアードの見ている世界の違いは、それと似たような事だ。
朗々と吟じられていた呪文が、不意に止んだ。
魔法陣の中央に座ったパウラは目を閉じたまま頷き、それを確認したダウィが一語一語区切りながらゆっくりと話し出した。
「辺境騎士団ダウィ・C・クライッドです。辺境騎士団本部へ伝言をお願いします。
『依頼者が魔族か竜種と思われるトカゲのような生物に襲われました。依頼者・荷物共に無事です』」
またしばらく、静寂に包まれる。
篭った香の匂いばかりがやけに強く感じられる。
「伝えたわ。これだけでいい?」
「ああ」
パウラは再び呪文のようなものを唱え、それからようやく目をあけた。
「次は森ね」
続けて呪文を唱えようとした彼女を止めたのはダウィの一言だった。
「リサがいるはずだから、彼女に」
「え!?」
ジアードの隣でフアナも驚きの声を上げる。
「リ、リサって――まさか!?」
二人の反応からすると、魔術師の世界の有名人だろうか。
フアナの態度など狼狽に近い。
それを見るダウィは……ああ、こりゃ楽しんでやがる。
「魔術師同士だし、フアナから話す?」
フアナは顔を真っ赤にして首をぶんぶんと横に振った。
「む、無理!」
「そう。それなら俺が話すよ。
ところで、もし向こうがこのまま旅を続けて良いって言ったら、行く?」
「はい?」
「リサが魔術師連盟として危険だと判断したら、旅を中断して一度ウォーゼルに戻る事になる。問題ないと判断したら、このままローラクに向かうよ。
……でもね。もし君が昨日の事でこの仕事が怖くなったなら、一度戻ってソユーなりもっと慣れた魔術師と交代してもらってもいいと思うんだ。
君はどうしたい?」
「私……」
フアナは一度俯いて膝の上で握った拳を見つめた。それからきっぱりとした声で言った。
「行きます。一度引き受けた仕事だから」
ダウィは満足げに微笑んだ。
その間に落ち着いたらしいパウラは立ちあがり、壁際においてあった蝋燭を手に戻ってきた。
「これでいいのよね。さすがに緊張するわぁ」
蝋燭を魔方陣の真ん中におき、再び目を閉じて呪文を唱えだす。
ジアードには先ほどと同じものに聞こえたが、そもそも何語なのかすらわからないので意味もわからなかった。
ややあって、パウラがゆっくりと目を開ける。
「少しお待ち下さい、ですって」
「うん」
ダウィが頷くのとほぼ同時に、前触れもなく蝋燭の炎が大きく揺れた。
――ぶわっ!
熱風と共に、火が大きく膨れ上がる。
「きゃっ」
フアナが小さく叫んで体を小さくした。
火事ではないらしい。
炎は焚き火ほどの大きさで安定した。これも魔術の一種なのだろう。
「大丈夫大丈夫」
ダウィがフアナを安心させるように頭をぽんぽんと撫でて立ち上がる。
大きなな炎の中に、人の姿が映った。
《久しぶり》
どこからか女の声が響く。
言葉に合わせて炎が揺らめいた。それで、炎の中の女がしゃべったのだとわかった。
「半月前に会ったよ」
《挨拶しかしなかったじゃない》
「君の周りの人は苦手なんだ」
女はケラケラと笑った。実際にそこにいるかのように映像は鮮明で、肩先で切りそろえた黒髪が揺れるのまで見て取れる。
二十代の快活なイメージの女だった。
《で、今日はどうしたの?》
「ここにね、ソユーの孫がいるんだ。
運び屋をやってて、俺は今は彼女の警護をしてる。目的地はウクバの森」
フアナがピンと背を伸ばした。
女の顔がこちらに向けられ、切れ長の目がフアナをうつす。
――あかい。
赤い目だ。辰砂色と言うのだろうか。
その女の目が本当にそういう色をしているのか、それとも単に炎の色をうつしているだけなのかわからないが、燃えるような色の目だった。
「この子が昨日何者かに襲われた。そいつは荷物を狙っていたようで、ダミーの鞄を奪っていったんだ。犯人は魔族か竜種か――」
《どっち?》
「見てないからわからない。
彼女の腰ぐらいの背丈で、トカゲのような体に羽が生えていたって言ってる」
《そこだけ聞くと竜種みたいね》
「でも竜種にしては知能が低すぎる」
《確かにダミーにひっかかるなんて竜種のやることじゃないわね。それに荷物を奪うような低俗な事で力を貸すとは思えない》
「魔族なら」
《セガルの言っていたあれ?》
「可能性は無いことは無い。ウォーゼルからサザニアの領土を通ってここへついたところだから」
《――サザニアが、魔導書や魔力のあるアイテムを集めているのは事実のようよ》
「何のために?」
《さあ、そこまでは。
これ、評議会でも一部しかしらないトップシークレットよ?》
「言いふらしたりはしないよ」
《そこにいる三人も》
「言わないよね?」
二人の会話の意味は――特にジアードには――さっぱりわからなかったが、三人は揃って頷いた。
サザニア帝国と聞いてすぐに思い出したのは、湖上で見たトカゲ男だ。あれをダウィは魔族と言っていた。
フアナを襲ったのはもっと小さなモノだったそうだが、それもやっぱりトカゲ。
一日に二度も、トカゲの形をした魔族に遭遇したのだ。ジアードには無関係とは思えなかった。
ダウィはいつもの表情を隠す笑顔を浮かべていて、何を考えているのかわからない。
だが口ぶりからすると関連を疑ってはいるのだろう。
「その魔導書集め、魔術師連盟は手伝ってるの?」
《正式な協力要請が来た訳じゃないから傍観》
「もし来たら?」
《理由次第》
「それについて今動いている人は?」
《さすがに部外者にそこまで言えないわ》
女は前髪をかきあげながら嫣然と笑う。そこに逆らえない迫力を感じた。
ダウィもこれ以上深く追求するのをやめたらしい。
「フアナが襲われた理由にはなりそうだね。ありがとう」
《お礼を期待してるわ》
「フアナの事は――」
《彼女の思うようにすれば良いわ。怖ければ辞めれば良いし、やる気があるならこのまま行けばいいのよ。
その時『もしも』が無いようにするのは辺境騎士団の仕事でしょ。私はこの件を評議会に報告するまでが仕事》
話を終わらせるように、炎が揺らめいた。
《――貴方は魔力音痴なんだから気をつけなさいよ》
ダウィが頷くのと同時に、炎は小さくなり、消えた。
それまで緊張しきった顔をしていたパウラとフアナが同時に深く息を吐いた。
「怖かったー」
「びっくりしたー」
「初めてですよ、遠話で姿まで映したのは」
「あんな大物呼び出すなら先に言っておいて欲しいわっ」
二人が口々に言う。
炎の女は二人を萎縮させるほどの人物だったらしい。
「魔術師からしたら大物なのかもしれないけど、部外者の俺から見たら誰でも変わらないよ」
ダウィがジアードの心を代弁するように言った。
遠くに居る人間と会話するとか犬と話をするとか、一般人からしたらもうそれだけで驚きの世界なのだ。
「そりゃそうでしょうけど……」
フアナは不満げに続けた。
「でも第四位の魔術師よ?」
「魔術師はなりたくてなるものじゃない、でしょ?」
「……偉い人でもそうなのかなあ」
「そういうのは、人それぞれだろうけどね。
さて、魔術師連盟のお許しも出たし、出発しようか」
ダウィはパウラに「お礼」と言って洋ナシによく似た形の果物と数枚の銀貨を渡して部屋を出た。
ガラゴロガラゴロ大きな音を立てて馬車が荒地を進む。
母国のものより頑丈な造りをした幌つきの荷馬車だ。その頑丈さの意味はすぐに知れた。
「随分揺れるな」
ジアードは手すりを握る手に力をいれつつ舌打ちした。
最初にこの馬車に乗り込んだ時は「なんで馬車にこんなものついてるんだ」と言ったものだが、ここに来てようやく意味がわかった。硬い岩盤がむき出しになった砂漠の道を進むには、必要なものだったのだ。
床に座り込み、手すりに抱きつくように掴まった姿勢でフアナが言った。
「『眠れない』ってタイが文句言ってるよ」
馬車の一番後ろで丸くなったタイが恨めしげにこっちを見ていた。
御者台で手綱を操るダウィが苦笑しながら振り返る。
「もう少し砂砂漠側を行けば多少マシにはなるんだけど、その分車輪が砂に嵌って大変な事になったりするからね」
「これがずっと続くのー?」
「明後日には楽になるよ」
「後二日……」
「とはいえ、タイが眠れないのは困るな。
昨日のような事がまた無いとは言えないし、盗賊や人攫いも出たりするから夜はタイに見張らせようと思ってたんだ」
「『無理。死ぬ』って言ってる」
「犬は夜行性だから大丈夫」
「『馬車が揺れるから昼間は寝れない』だって」
「人間寝る気になればどこでも寝れるって誰かが言ってたよ――ああ。人間じゃなくて犬か」
「『お前より盗賊のほうがまだ優しくしてくれる気がする』」
「皮剥いで売られるか、人語が解る犬として見世物にされるのが関の山」
「――あ、いじけた」
「そのまま寝てくれるといいなあ」
大きな犬は床に蹲って丸くなってしまった。
慰めるつもりか、フアナがその犬に覆いかぶさって抱きしめる。
……ふわふわーとか言ってるから、単に毛皮を触りたかっただけかもしれない。
「犬の言葉がわかるっつーのも、面白いなあ」
拗ねたように顔を隠して丸くなる犬の首辺りを撫でてやる。
「お前、思ったより人間臭いこと考えてんだな」
タイは丸くなったまま尻尾を一回パタと振った。