同郷の二人
「お茶のおかわりを貰ってきます。君の分は――ジアード君?」
名前を呼ばれているのに気が付いた途端、音が溢れた。食後の歓談を楽しむ男女の笑い声。食器を洗う水の音。見習いに指示を出す料理人のがなり声。
「随分集中していましたね。お茶のおかわりはどうしますか?」
慌てて確認すると、殆ど口を付けていないカップにはまだ十分な量が残っている。
「俺はまだいい」
食堂のカウンターへ向かうユトの背中を見送り、一度手元の本を閉じた。
辺境騎士団の団規やら行動規範やらを纏めた本だ。夕飯を食べている時にこの間の捕り物の話題になり、気になった点を質問したらこれが出てきた。
正式に入団すればその時に渡されるものらしいが、ユトは「早い分には良いでしょう」と言っていた。良いのだろうか。
そんなこんなで簡易な勉強会が始まったのが半刻前。小難しい法律用語満載の本と格闘するうちにいつの間にか食事の時間のピークは過ぎていた。満席に近かったはずの食堂は、食後の時間をゆったり過ごすグループがいくつか見られるだけ。
一度伸びをして首を回してから、本の表紙を撫でる。箔押しされた文字がかすかに指に引っかかった。
「愛、真実、平和――」
表紙に書かれた文字は、飾り文字になって団旗にも描かれている。ジアードの指輪にも。
どれも良い言葉だと思う。だが、ぼんやりとして掴み所のない言葉だ。
「『真実』ってのは、犯罪捜査とかそういうのだろ? 『平和』は戦争が無いって事で――『愛』ってのは恋愛とか家族愛とか……あんまり騎士団とは関係なさそうだよなあ。それとも共通語だと別の意味があるのか?」
ぱらぱらとめくってみた範囲にはそれに関する解説は無さそうだ。
ユトが帰ってきてから聞けば良いかと顔を上げる。
「ああ――向こうも終わったか」
人もまばらになった食堂に、肩をすぼめたエンシオが現れた。
彼もすぐに気が付いてまっすぐこちらに向かって来る。
「ジアードも飯?」
「食い終わった。そっちは憲兵本部から戻った所か? 酷え顔してんな」
「苦手なんだよ。取り調べの空気ってさあ……」
今日、エンシオは辺境騎士団を代表して偽金事件の取り調べに立ち会っていたのだ。
「部屋の隅に座ってるだけだっつーのに、胃が痛くなる」
「繊細だな」
「うるせー……」
崩れ落ちるように向かいの椅子に腰を下ろす。「その席はユトが」と言う間も無かった。
どうしようかと迷っているうちに、ユトがマグカップを手に戻ってきた。奪われた席を見て眉を寄せ、生気のない顔色に眉間の皺を深め、そのあとは文句も言わず湯気の立つカップを差し入れた。
「お疲れ様です。何かわかりましたか」
「んー……まあ。そうだなあ……取り合えず飯……」
「俺がとって来る。座っとけ」
腰を浮かしかけたエンシオを押し留め、ジアードが席を立った。
カウンターの前に並ぶと「お前はさっき食ってただろう」と食堂のおっちゃんに睨まれた。
「エンシオの分だよ」
「ああ、坊ちゃんか。まーた疲れた顔してんなあ」
「胃が痛えっつってたぜ」
「じゃあ揚げ物はやめた方がいいな。――おい! 賄いのスープ残ってたな。あれ持ってこい!」
下っ端らしい若者が奥から湯気の立つ鍋を運んできた。大きめの器に盛られたそれに、パンとデザートが添えられる。
「悪いな」
「いつもの事よ」
にっかり笑ったおっちゃんに手を振り、ついでに茶を一杯もらって帰る。これはユトの分だ。あいつも、自分の分の茶をエンシオにやってしまうくらいには彼に気を使ってるんだろう。
「愛されてんなー、お前」
「……何がー?」
ぐったりしたエンシオには冷やかしも通じなかった。
とりあえず食えとトレーを押しやる。
滋味溢れるスープの香りにもなかなか食欲がわかないようだったが、ユトに促されて一匙二匙と流し込むうち、なんとかいつものエンシオに戻ってきた。
「あー……芋うめえ……この少し煮崩れてるとこが最高……」
ゆっくりペースながらスープの半分ほどが胃袋に消え、パンに手が伸びたところでユトが口を開いた。
「それで。何かわかりましたか」
取り調べの結果か。真面目な話の気配にジアードも背を伸ばし、耳を傾ける。
エンシオは口の中の物を嚥下し、一度周囲を見回してから腕を組んだ。
「それがなー……小者ならすぐ口を割るかと思いきや、なかなか――」
「中佐をもってしても駄目でしたか」
「アレは母国で家族を人質に取られてるんだろ。ああいうのは口を割らねえ」
ありそうだ、とジアードは思った。サザニア帝国では珍しいことじゃない。
「拷問コースですか?」
「大陸法があんだろ、大陸法が」
「回りくどいですねー……」
ため息をつくユトを、エンシオは半眼で見つめた。
「裏でやらかしてねえだろうな」
「僕は普段犯罪捜査には関わりませんから」
「――まあとにかく。拷問は大陸法で禁止されてるから、自白の線は諦めて証拠固めをってムードだったんだよ。
でもそん時に、ジアードが持ってきた勲章――ほら、魔族の血の入った女ともみ合った時に奪ったってヤツ。あれを見せたら社長がペラペラしゃべりだした。ジアードのお手柄だな」
咄嗟に手が出ただけだったが、役に立てたならよかった。ジアードは冷めきったお茶を一口飲んで頷いた。
「それで。サザニア帝国の関与は」
「確定だ」
ユトが天井を仰ぐ。
「面倒くさい……」
ジアードも今回ばかりは心の底から同意した。
国家主導で他国の贋金を作っていたなぞ、完全に戦の火種だ。
これから少なくない犠牲が出て、最悪どちらかの国が滅びるような事態だって起こりうる。
「戦争となりゃ、俺たちの出る幕はねえが……魔族と違法薬物の件があるから完全に撤退ってわけにもいかねえのよ」
「逃げた女の行方は」
「まったくわからん。正面玄関から飛び出して、憲兵を蹴散らしつつ西に向かったらしいってとこまでだ」
「素性は」
「サザニア帝国から送り込まれてきた軍人。社長室の金庫からあいつの指示に黙って従うようにって命令書が出てきた。ちなみに日付は二年前」
エンシオはポケットから取り出した手帳をぱらぱらと捲る。
「本名や年齢等は不明。店じゃ『オリガ』って名乗っていた。表向きは社長の秘書で、仕事の体であちらこちらに繋がりを作りつつ贋金作りの采配をしていたんだと。
社長は――あの女については『本国から遣わされた軍人という事しか知らない』と主張している。取引先や出入りの業者からは社長の愛人だと思われていたって話なんだが、社長本人にそれを伝えたら『とんでもない』って必死に否定してたんだよな。ありゃ、何かを隠してるっつーより、怖がってるって感じだったんだが……軍人って言っても若い女だろー? 弱みでも握られてるのか?」
取り調べの様子を口にしながらどこか腑に落ちないというような顔をするエンシオ。そう感じるのも仕方がない。彼はあの時一人建物の外にいた。一度もあの女の姿を見ていないのだ。
だが、暗闇の中であの女をねじ伏せたジアードは知っている。
あの女の縦に裂けた瞳孔を。鋭く光る前歯を。食い込む爪を。そして、人間には敵わない圧倒的な膂力を。
ぶるりと肩を震わせた。
怖い。そうだろう。社長って奴だって、ただの人間ならアレに逆らえるはずがない。
「それで、この後どうするんですか?」
ユトの問いに、エンシオは顎を撫でながらゆっくりと口を開いた。
「こっちとしては、もう少しあの女について――というか、あの国の魔族の事について聞いておきたいとこなんだがなあ……」
「あの腹黒ですか」
「中佐には中佐の考えがあんだろ。この事件はまだあっちに優先権があるからな。長丁場になりそうだしキリのいいとこで誰かに引き継いで――そういや、そろそろダウィの休暇も終わるよな」
「そうですね?」
ユトは僅かに椅子を引いて身構えた。
「なら、お前は暇になるな。手伝えよ」
「嫌です」
「乗り掛かった舟って言葉があるだろ」
「ウチの方には無いですね」
「おいこら同郷」
「エンシオさん、領都生まれ領都育ちじゃないですか。同郷とは言えないですー」
睨みつけるエンシオに対し、口をとがらせてそっぽを向くユト。その仕草は子供のようだ。ただし彼はいい年したおっさんで可愛げは無い。
「そういや、二人の故郷ってどこなんだ。この国じゃないんだろ?」
断片的に聞いた話を総合すると隣国のようだが、どこかふわっとしている。
エンシオの実家はアスリア=ソメイク国の貴族家で、ユトはここに来る前はヨシュア王国の支部に居たということだ。しかし、国を跨いでいては普通同郷と言わないだろう。
「俺たちはアスリア=ソメイク国だよ。イルァークォイデ領って知ってるか? 国の南西の端っこでヨシュア王国と国境を接してる。
そこの領主が俺の親。ヨシュア風に言うなら辺境伯だな」
貴族出身だとは聞いていたが、本当に貴族だった。結構な貴族だった。
「辺境伯って相当偉いんじゃねえ?」
「親はなー。
で、俺はそこの坊ちゃんなんで領主館のある領都出身。ユトは領の西の外れにある隠れ里みたいな村の生まれだよ」
「隠れ里」
「誰も隠してないですよ」
「隠してないけど常人じゃたどり着けないだろ。四方を山で囲まれてるせいで領都からだと徒歩で山越えしないといけないし。
その上、唯一馬車で通れる道は領都じゃなくてヨシュア王国に繋がってるっていうおかしな場所なんだよ」
「それは西側の尾根が一番傾斜がマシだったっていうだけでしょう」
「国益はー?」
「税はきちんと収めています。でも確かに農作物の売り買いなんかは専らヨシュア王国相手でしたね。僕が辺境騎士団に入った時も最初にヨシュア王国支部に行きましたし」
「滅茶苦茶だろー?」
エンシオはケラケラと笑う。
その説明の通りなら相当便の悪いところだ。隠れ里と称されるのもわかる。
「一応、何百年も前に大地の女神がそこに住んで子を成したって聖地なんだけど、道が悪すぎて聖地巡礼に行くヤツも殆ど居ないような所でさ。俺も生まれた時と成人の挨拶でしか行ったことねえ」
「祈りの場以外なにもありませんからね」
「そうそう。なんにも無いの。祈りの場だって畑の真ん中に石置いてあるだけだし――そんなのでも『聖地』だから儀式やら決まりやらあるんだ。一族の中ではユトの家系はその祈りの場を守る神官の家。ウチは聖地を守るために領主やってる家って役割でさー。俺は不出来な末っ子だから気楽なもんだけど」
話しながら、エンシオが二個目のパンに手を伸ばす。食欲が出てきたのは良い事だと頷き、何気なく聞いた。
「ダウィの親もその隠れ里出身なのか?」
ただの世間話だったのに、彼の手の中のパンがぽろりと皿に転がった。
「え、は? 知ってんの?」
「前に『大地の民』について話したので、彼の父親が同郷だと教えました。言っちゃ駄目でした?」
「本人があんま言いたくなさそうだったからなあ……」
口ごもりつつ、エンシオはマグカップに手を伸ばした。
すっかり温くなったお茶で唇を湿らせ、しばらく考え込む。
聞いてはいけないことだっただろうかとジアードが詫びの言葉を探し始めた時、エンシオがぽつりぽつりと話し始めた。
「確かに、ダウィの父親はあそこの生まれだ。成人する少し前までは隠れ里に住んでいたと聞いた。母親も多分そうなんじゃないかと思う。そっちは良く知らないけど。
昔、あそこで骨肉の争いがあったんだよ。酷い時には兄弟やら叔父甥やら血族内で殺し合ったんだと。ダウィの父親やその兄貴たちはその頃に隠れ里から出てったらしい」
エンシオは殊更明るい声で笑いながら付け足した。
「で、ダウィの親を殺そうとしたヤツの血を引いてるのが俺」
「……は?」
「俺たちの間で蟠りはねえけど、身内の恥だからお互い触れて回ったりしねえ昔話ってやつだな」
そんな事があったのでは、確かにダウィが言いたがらないというのもわかる。そうやって笑って話すのもどうかと思う程度には。
眉を寄せたジアードに、気にすんなと言ってエンシオは話題を変えた。
「んで、そのダウィが帰って来るのっていつだっけか。来週?」




