社長の眼鏡
「あれ、こんな所に」
ダウィは入ってすぐに立ち止まった。
ロビーらしい広い空間の奥から、二つの人影が近づいてくるのが見えた。
一人はどこかぼーっとした印象の三十前の男。もう一人は――布を巻きつけたようなスカートと長く垂れる帯が印象的な、どこかの民族衣装を着た若い女。
二人はすぐにこちらに気がつき、手を振った。
「ダウィ」
女が声をかけると、ダウィの後ろから彼の飼い犬がのそっと顔を出す。
「ごめんね、タイも居たのね」
タイの背をなでながら、女はダウィを見上げた。
イーカル人ともウォーゼル人とも違う顔立ち。ダウィともまた少し違う。話に聞く海岸地方の民が近そうだ。
大きな赤みがかった茶色の瞳とそれより少し落ち着いた色の髪をしている。顔はとても可愛らしいのだが、表情や仕草が妙に大人びていて年齢が良くわからない。フアナよりいくつか年上というくらいだろうか。
柔らかそうな唇がゆっくりと動く。
「ローラクへ行く途中?」
「うん。今船でついたところ。何してたの?」
「お祭りの打ち合わせ。去年のが好評だったから今年も手伝って欲しいって」
「今年もやるんだ」
「期待してて。
――じゃあ、そろそろお昼だから家に戻るね」
女は背後の男を振り返り、小さく手を降ると、そのまま玄関へ向かって歩き出した。
「ちょっと待った」
思わぬダウィの行動に、ジアードは目を瞠った。
彼は去りかけた彼女の肩をいきなり後ろから抱いたのだ。
「放して」
女は逃げ出そうともがいている。
止めるべきかと伸ばしかけた手を、女と一緒にいた男が押し留めた。
にやにやと笑っている。
ここは放っておいて良いらしいと判断して手を下ろした。
「寂しかった、とかはないの?」
ダウィが囁くと、女の動きが更に激しくなる。
「な、何言ってるの!」
「冷たいなあ」
「冷たくなんかないっ 放してっ!」
「やだ」
「急いでるの!」
「だから?」
「帰る!」
「駄目」
しばらくそんなやり取りを続けた後、女は観念したように小さな声で呟いた。
「――じゃあ、『早く帰って来てよ』」
「うん」
「満足したら放して!」
なおも腕から逃れようともがく女性の頬にキスをし、ようやくダウィは腕を緩めた。
自由になった女性はパタパタと逃げるように走り去ってしまった。
「相変わらずだなあ、君達」
にやにやと見守っていた男が言うと、ダウィは満面の笑みで答えた。
「あの恥ずかしがってる顔が可愛いんだって」
「おいおい」
「ああそうだ。今暇?」
「さっきの打ち合わせで午前の仕事は終わりだから、食堂に行こうと思ってた所だけど」
「じゃあ、一緒に食べよう」
「友達が一緒なんじゃないのか?」
男はジアードとフアナを見た。
「君に紹介しようと思って連れてきたんだ」
「へえ?」
「ちっちゃい子はソユーの孫の『運び屋』フアナ。
隣のでっかいのがジアード。今度出来る辺境騎士団のイーカル支部の担当……になる予定」
男は目を細めた後、愛想の良い笑顔を浮かべた。
「はじめまして。シュイッツアー社社長のアスター・クロディアです」
* * *
「え、じゃあ、さっきの人が奥さんだったんですか!?」
口に運びかけたフォークを止めて、フアナは目を丸くした。
「あんなに嫌がられてるからてっきりストーカーでもしてるのかと」
「……失礼だよね、それ」
へこみきった顔のダウィを見て笑ったのはこの会社の社長――アスターだった。
「ストーカーはいいな。今度からそう呼ぼう」
「やめてくれ」
案内された社員食堂はこの地方の郷土料理を中心としたメニューで、調理法や素材の名前には聞いた事もないものがちらほらあった。
とりあえず右へ倣えするように日替わりB定食なるものを注文した。大きめのプレートに三種類のおかずが乗り、スープとパンがついている。一見質素だが、野菜たっぷりのスープはよく出汁が溶け合い、肉は手間がかけられているためか臭みもなく柔らかい。これは確かにそこら辺のレストランに入るよりも美味しいんじゃないだろうか。
丸いボールのような形のパンをちぎりながらジアードは素朴な疑問を口にした。
「ダウィはウォーゼルにいたから嫁さんと会うのは久しぶりなんだろ?」
「そうだね」
「それで、これから何か月か旅に出るってのに、『お昼の時間だから帰る』って嫁さんの態度にしちゃ冷た過ぎねえ?」
「そうかもしれないね」
「嫁さんってのはこういう時――まあ、『寂しかった』だとか『愛してる』だとかいうのは人にもよるのかもしれないが、『気をつけて』とか『行ってらっしゃい』とかくらいは言うもんだと思ってたのはイーカル人だからかね」
もしかしたらそういう所は国によって異なる習慣があるのかもしれないと思ったから聞いてみたのだが、フアナも首を大きくふって頷いた。
「この国でも普通はそうだと思う」
「だよな。俺もお前が付きまとってるのかと思った」
ダウィが机につっぷした。
その様を愉快そうに眺めていた、アスターがフォローするように口を開く。
「あれでもね、彼女はこいつにべたぼれなんですよ」
「えー。そうは見えなかったー」
「普段のあの子を知ってる僕から見ると、ああやって感情をあらわにして大声を出すのは珍しいんです。ダウィの前でだけね」
机に顔を伏せたままだったダウィが目を上げた。
「あんまり言うと後で彼女に叱られるぞ」
「うん。この辺にしておく」
アスターはパンに手を伸ばしながらおかしそうに笑った。
「そういえば、ダウィがおしゃべりになったのも彼女のためだったっけ」
「アスター」
「今度はダウィに殴られそうだからやめておこう」
随分心を許した関係のようだ。
ジアードとダウィとの付き合いはそう深くないが、短くも無い。
世間話なら幾度かした事がある。友人と冗談を交わしているのを見たこともある。
だがいつも顔に貼り付けている笑顔以外の表情を引き出す者は居なかったように思う。
拗ねたような顔も怒った顔も、初めて見た。
「仲が良いんだな」
思わずそう呟くと、いつもの笑顔に戻ったダウィが答える。
「同じ学校に通っていたんだ。当時は共通の知り合いがいて『顔は知ってる』くらいの関係だったけどね。
俺がこの街に引っ越してきてからは何かと便宜を図ってもらってる」
「便宜を図るのは見返りが十分にあるからだよ、ダウィ。現にこうしてイーカルの人や運び屋さんを紹介してもらっている。一方的に享受するのは好きじゃないからね」
「その言い方じゃどっちが鶏でどっちが卵なんだか」
「友達とはフェアでいたいっていう話だよ」
そう言ってアスターは笑う。
次に振り向いてジアードを見る目は、先程までよりだいぶ柔らかくなっていた。
「イーカル王国は開国を期に大きなビジネスパートナーになると思ってるんです。
数年後には、イーカルの東側までは船を運行できるようになるでしょうし、イーカルの工芸品を欲しがるアスリア人は多い。内水面の大量輸送に関しては僕の会社の右にでるものはないと自負しておりますから、輸出に興味のある商人の方をご存知でしたらどうぞご紹介下さい」
次にフアナを見た。
「イーカルには魔術師はあまり生まれないと聞きます。と、言う事は誰にも知られず眠っている魔術絡みの宝もあるでしょう。運び屋さんの活躍の場も増える。
荷物を守ってくれる運び屋さんは運送会社の大切なパートナーですから」
「ジアードさん、フアナさん、これからどうぞよろしくお願いします」
* * *
食事を終え、アスターに手を振りながらフアナがぽつりと呟いた。
「ちょっと不思議な人でしたね」
先を歩くダウィがそれに応じる。
「見た目がぼーっとしてるから誤解されがちなんだけど、頭はよく回るし、あちらこちらに投資をしていて人脈も広い上、根回しも得意だ。役人なんかからすると扱いづらいタイプの人間だね」
「確かにぼーっとしてたなあ」
次第に敬語が抜けてきたフアナが笑う。
「目が悪い癖に、頭痛がするからとかいって眼鏡を掛けないんだよ。だからいつも焦点が合ってなくてああいう顔になるんだ」
「ああ、なるほど」
「基本的には人に恩を売りまくって弱みを握ろうとするタイプでね」
「……やだなそれ」
「でも一度友達になると、貸し借りの関係を嫌う潔癖症。ちょっと歪んでるけど、懐に入っちゃえば良い奴だよ」
「確かにそんな事は言ってたけど……」
「あ、でもシュイッツアー社と仕事をする時は、『恩を売られる前に売れ』が鉄則だから気をつけてね」
「うぅ……。私そういう駆け引きみたいなの苦手だなぁ」
「じゃあ大丈夫。
アスターはそういう子に弱いから」
ダウィは意味ありげな笑みで船着場を振り返った。
ちょうど大型船が到着し、大きな荷物を抱えて下船する客の間を、観光船の漕ぎ手たちが忙しげに駆け回っていた。
「さて、そろそろ出発しようか。
夕方までに次の街に行かないと行けないからね」