指導の先輩
日の出を見るより早く、いつもより良い笑顔でダウィが旅立っていった。
休暇前に目途をつけておかねばならない仕事があるとかで、昨夜はまったく寝ていなかったというのに、ひどく上機嫌に。
それとは逆に、後ろをついて行くタイが肩を落とし尻尾を丸めていたのが可笑しかった。あの犬は船に乗るのが嫌なんだろう。
そしてジアードの手元には一冊の本。
留守の間にも試験勉強ができるようにと大陸史の本を渡されたのだ。
その時ダウィは、『歴史は出題されるところがだいたい決まってるから、印をつけたところだけ暗記すればなんとかなるよ』とも言っていた。パラパラと捲ってはみたが、印の部分だけでもなかなかのボリュームだ。先は長い。
――とはいえ、これはダウィが帰ってくるまでのひと月でじっくり取り組めば良い事。
「……とりあえず、飯かな」
ダウィにつられて早く目覚めてしまったので定時までまだ時間がある。少し早いけれど食堂に行こう。この時間ならまだ空いているはずだ。
ジアードは早朝の冷たい風に身を縮こませながら宿舎の門をくぐった。
* * *
サラダと丸パンにスープ。
好きなものを好きなだけ取って良いというから朝はたいていこれだ。肉も魚も好きだが、朝から食べるには少し重い。年のせいとかではなく、子供の頃からの習慣だ。
今日はサラダに玉ねぎが乗っている。それに、その隣の白いものはラディッシュだ。好物が重なって、自然と口角が上がった。
スープを受け取って空いている席を探す。
早い時間のせいか、窓際の良い席が空いていた。
「たまには早起きもしてみるもんだな」
ドレッシングやソース類のカウンターを素通りし、まっすぐその席に向かう。この国の味付けはジアードには少し濃いので、いつもドレッシングなどは使わず、テーブルに常備された塩だけを振って食べている。
朝日の差し込む明るい席で、簡単な食前の祈りを捧げてフォークを手に取った。
サラダに混じった野菜はまだこの刻んだ状態しか見たことがない物が多く、正体はわからないが大概旨い。食堂のおばちゃんに顔を覚えられてからは黙っていても大盛にして出してくれる。
この体格で野菜ばかりというのは意外な事らしく、最初のうちはあれこれ言われたけれど、最近は周囲も随分慣れ――
「え、それで足りるの? 本当に?」
慣れてないヤツもいるようだ。
きょろりと大きな目の男がいつの間にか向かいに座っていた。
「見習いのジアード君だよね。僕、事務のミカ」
少年のような容姿の……いや、少年か。フアナと同じくらいの年の男。背も低いし、体格の良い男ばかりの騎士団では浮いて見える――が、制服を見る限り、ちゃんと騎士団本部に所属する騎士だ。
「何の用だ?」
ミカと名乗った奴は朝食のプレートを持っていない。それに、こんなガラガラの食堂で向かいに座る理由もない。
「用があるのは僕じゃないよ。君を紹介してくれって頼まれたんだ」
おーいと手を振り、入口の辺りに立っていた男を呼び寄せた。
色素の薄い、細身の神経質そうな男だ。生来の生真面目さに壮年期の頑固さが加わったような顔をしている。
「彼はユト・ラウリー。ダウィの留守中は君の指導を担当するんだって。
――ユト、この人がジアードだよ。じゃあ、僕はちゃんと紹介したからね。仲良くするんだよ。いいね?」
ミカは一方的にしゃべり、ユトが口を挟む間もなく手を振って走り去っていった。
「えーと、あー……」
「ユトです。辺境騎士団本部シーリア隊ユト・ラウリー。ダウィさんの補佐をしています」
硬質な声でそう告げると、男は白い手袋を取り手の甲を返して見せた。関節の目立つ細い指に武骨な指輪が鈍く光った。
先に上官から正式な挨拶をされてしまっては座しているわけにもいかない。慌てて立ちあがてジアードも正式な挨拶を返す。
「ジアード君。よろしく。食事中に悪いんだけど、食べながら聞いて下さい」
柔らかいが有無を言わさぬ口調で勧められ、再び腰を下ろした。
ユト・ラウリー。以前ダウィが、自分が留守の間の指導を任せると言っていた騎士の名が『ユト』だった。あの後も気になって、ちょくちょく勤怠表を見ていたがいつも『出向中』となっていて一度も会う事が叶わなかった。それがこの男。
筆跡と同様、四角四面な喋り方をする男だ。
ユトはジアードがスプーンを取るのを確認して口を開く。
「今日は朝課が終わり次第神殿街へ行き、僕の仕事を手伝ってもらいます」
「ユト先輩の仕事とは、どんな仕事ですか?」
「ユトで結構。敬語はいりません。僕らの隊に上下関係はないのだそうですから……って、聞いていませんか?」
「は、はい……」
そういえば、初日に団長から『ダウィについて指導を受けろ』と言われたくらいで他の同僚と話す機会は殆どなかった。入団早々フアナの護衛で大陸東岸地域まで行くことになり、二か月以上も留守にしていたのが大きな原因ではあるが。
ユトは深くため息をついた。
それはもう、体中の空気をすべて押し出すようなため息だった。
「……また、あの人は――っ」
静かな怒りを含んだ声で吐き捨て、ユトは拳を握った。
「大切な事ほど伝えないあの癖はまだ治らないんですか!」
ダンッと拳が机をたたき、スープの表面が大きく揺れた。
――こいつはいつもそうだ。よくしゃべる癖に大切な事ぁ言わない。
以前にも同じような言葉を聞いた。鍛冶屋の地人がダウィを評して言ったのだ。
「どこまで聞きましたか。僕らの隊の事とか、君の今後の事とか」
「……何も」
ユトは絶望したような顔で天を仰いだ。
* * *
ユトはまっすぐに背を伸ばした。どこもぶれたり歪んだりしていないのに少しも力んで見えない美しい姿勢だ。
軽く組んだ指に視線を落とし、年相応に落ち着いた声でゆっくりと語りだす。
「僕らの隊は、シーリア隊と言います。昔は正規の騎士団員ではないものが一時的に配置される隊であったと聞いています」
「正規ではない者っていうと、俺みたいな見習いですか」
「いえ。『協力者』です」
「協力者?」
「辺境騎士団は、加盟する国々において様々な特権が許されています。支部長クラスになれば各国の中枢に食い込んでいく事も可能です。だからこそ、我々には独立・中立が求められます」
「どっかの国に肩入れすんなってことですか」
「はい。そういった理由で、騎士になるにはそれなりの条件が課せられます。戦闘力・知力・精神力といった資質は勿論の事ですが、最も重要なのは公平性です。
例を上げれば、王侯貴族とその縁者は騎士にはなれない」
「貴族の三男・四男でも?」
母国で騎士といえばそんな奴ばかりだった気がするが。
しかし、その問いにユトは深く頷いた。
「家からの干渉が完全に断たれている証明がなされれば認められますが、証明も難しい事ですので滅多にありません」
言っている事は筋が通っている。
公平というのは多くの場合理想論でしかない。それをなんとかしようというならそういった厳しい条件を課す事も必要になるのだろう。
だというのに、ユトは渋い顔をする。
「ただ、王侯貴族には強い魔力を有している者が生まれやすい」
「魔力……魔術師か」
そういわれて見れば、歴史ある国の建国の物語にはよく魔術師や女神の子孫といった不思議な力を持った人たちが出てくる。彼らがそのまま国王や有力貴族になるのだから王侯貴族に魔術師が生まれやすいというのは確かにあり得る話なのだろう。
「そう。魔術師です。
君も先月の護衛任務中に魔族と戦ったとダウィさんの報告書で読みました。だから、君も知っているでしょう? 魔族を始めとした『人でない者』と渡り合う事は常人にとってはとても難しい事です。
けれど、僕らには『人でない者』を相手にせざるを得ない事があります。魔術を使える方に協力を仰ぐ必要が出てくる事も珍しくありません。そんな時に手伝いをお願いする方が『協力者』――辺境騎士団員の特権を使うことはできないけれど騎士団員と同等の資質を認められた者、です。
『協力者』には、僕らのこの鉛色の指輪ではなく白金に金の縁飾りのついた指輪を渡されます」
ユトは左手の中指にはめられた指輪を撫でた。上品な印象のこの男にはあまり似合わない、武骨な指輪だ。中央に辺境騎士団の紋章が印章のように刻まれている。
「現在のシーリア隊は正規の騎士団員が七名と『協力者』が四名。それに見習いの君で、合計十二名。
全員が揃う事は今後も無いと思いますので参考程度に」
「今後『も』って事は今まで無かった?」
「僕が転属でここへ来たばかりの頃に一度。もう十年以上前のことです。
この隊の隊員は、僕のように平素出向している者やダウィさんや長老のように個人で活動している者――それぞれの事情で出払っている事が多いので、本部にいつもいるのは隊長代行のエンシオさんくらいかと思います」
「エンシオが隊長代行?」
「え、そこからですか……エンシオさんまで何やってるんだか。
彼は副隊長です。もっとも、正規の騎士団員ではなく『協力者』ですが」
「あいつ騎士じゃね――ないんですか?」
「試験には合格し本人の意思も固いのですが、生家が反対しているので『協力者』として籍を置いています。貴族の子女は騎士団員にはなれませんから」
「貴族だったのか……」
「嫡男に子が生まれれば干渉も断たれて正規の騎士になれるでしょう。それまでの暫定処置です。
ただ、シーリア隊は彼のように扱いの難しい者が集められた場所という理解で問題ないかと」
「ユト先輩も?」
「僕は正規の騎士です。ただ、神官の素養があるので神殿からの出向要請をこなすためにヨシュア王国の支部から自由の利くこの隊に移りました。
ジアード君。君も同様です。正規の騎士になったら、その瞬間からイーカル支部設立担当として動く事になるでしょう。その時に身動きがとりやすいようこの隊に配属されたと聞いています」
「はー……成程……」
「同じ隊といっても、このようにそれぞれが別の仕事をしていますので先輩後輩という概念は無意味です。だから互いに敬語は不要――というのが、ほぼ唯一の隊長命令です。今後は呼び捨てで構いません。ああ。僕のこの口調は神官としての習慣ですのでお気になさらず。相手によっていちいち話し方を変える方が面倒なので」
ちらりと本性が見えたような気がした。
ユトは表情ひとつ変えずに淡々と話を続ける。
「さて、今日これからの事です。
君の指導は任されましたが、僕は冬至の祭祀の準備があるので神殿に戻らなければなりません。作業の合間であれば指導もできるはずですので、今日のところは僕の手伝いをお願いします」
 




