初めての休暇
いつもの時間に目覚めてしまい、天井の染みをぼんやりと眺める。
休日といわれても特にやることもなければ、外に知り合いもいない。
「観光――か」
ふと昨日エンシオが口にした単語を思い出す。
言葉は知っているが、生まれてこの方一度もした事がない。
軍に居た頃は王都を出るといったら遠征の事であったし、もっと昔――田舎から王都に移った時はそれどころじゃなかった。
「やってみるか」
観光マップなる看板が船乗り場に置かれているのは、以前そこを利用した時から知っていた。
指針となるものもないので取り合えずそれを見に行く事にした。一人で街を歩くのも、ここへ来た時以来でなにやら新鮮な気になる。
「イーカルとはだいぶ違うな」
母国の市場は露店ばかりでごちゃごちゃとしていたが、この国の市場はもっときちんとした店を構えている所が殆どだ。
その店はといえば、四角い箱のような形の建物で隙間なく建てられている。このみっしりと詰まった建て方がこの辺りの建築の特徴だ。先日までの旅で数か国を巡っていて気が付いたが、こういった建物の素材や形だけを見てもそれぞれの地域で違いがあって興味深い。
扱うものもそれぞれに違う。この市場では食料品や生活用品以外の物が多いように見受けられる。それとも食料品などはまた別の市場で扱っているのだろうか。
時折軒先に並べられた商品を覗きつつ、ゆっくりと市場を船着き場のあるであろう方向に進んでいく。
「国に帰る時には、土産とか買って行くべきなのかね」
そんな事を思ったのも「土産」の看板を見つけたからでしかなく、受け取った事は数回あっても贈った試しのないジアードには何を選んで良い物かわからなかった。
赤茶けた塗り物の箱や、干した果物らしきもの、日持ちのしそうな硬い焼き菓子、何に使うのか解らない人形の形をした道具――そんな物を今後の参考にするため眺めていると、
「ジアード!」
背後に、ここ数週間毎日見てきた、そして昨日別れたばかりの笑顔があった。
今日も頭の後ろでひとつにくくった髪が楽しげに揺れている。
「フアナじゃねえか」
「ジアードはおっきいから目立つねー。向こうからでも見えたよ。今日はこんな所でどうしたの? あ、サボってるの?」
「休日だ。旅の間休みが取れなかったから、その分しばらく休めと言われた」
「そっかー。買い物?」
「いや、観光っつーのをやってみようかと」
そんな事を話していたら、フアナの後ろから小さな老婆が近づいてきた。
「フアナ、知り合いかい?」
訝しげに声をかけられ、ジアードは軽く会釈をした。
「ローラクまで付き合ってくれた騎士さんだよ。ジアードっていうの。――ジアード、これがうちの婆ちゃん」
「そうか。孫が世話になったね」
「いや、こちらこそ」
差し出された皺だらけの手をそっと握り挨拶を交わす。
フアナと同じ色の眼が、値踏みをするかのように眇められた。その様子に、ジアードは旅の間にダウィから聞かされた話を思い出した。老婆はダウィの事を「ザルの方がマシな虫ケラ以下」などと評し、触れ回った張本人だ。それに、随分食えない老人であるように言われていた。気難しげな顔は確かにその印象を後押しさせるものがある。
「……孫から聞いたよ。あんたイーカル王国から来たんだってね」
頷けば、老婆は細い眉を吊り上げた。
「若い頃に一度行った事があるよ。酷い砂漠だった」
「婆ちゃん!」
フアナが袖を引いて止めているが、砂漠の過酷さについてはジアードも同意するところだ。
「まあ住み良い国じゃねえな」
「一度砂嵐で立ち往生した」
「ああ。あれは毎年遭難するやつが出る」
「肉料理しか出てこないし、なんでも塩味だ」
「そういやこの国もアスリアも、調味料の種類が多いのには驚いたな」
「それから伝染病が多かった」
「へえ――」
伝染病の事など他国と比較した事が無いのでどこもあんなものだと思っていたが。
「婆ちゃん、人の故郷をけなすものじゃないよ。――ごめんね、ジアード」
「いや、いいんだ。イーカルは嫌われ者らしいしな。現実は現実で受け止めねえと」
「……随分達観した男だね」
拍子抜けたように言い、老婆はおまけのように付け足した。
「お茶は旨かったよ。今でも取り寄せて買っている」
「取り寄せる事なんてできるのか」
母国は国交を断絶して久しいというのに。
「国境をものともしない連中がいるからね」
「犯罪じゃねえのかそれ」
「国境も法律も所詮人間の決めた事だからね。彼らの事は知らん。私は店で売ってる物を買うだけだ」
「彼ら?」
「人でなくて人と住んでいる者たちだよ」
人ではないものと聞いてジアードの脳裏を過ったのは、トカゲのような肌と尻尾。それに長い爪。
「魔族だとかそんなのか」
「あれもそうだね」
「そんなのと親交があるのか」
「『そんなの』と渡り合うのが『運び屋』の仕事だよ」
思わずジアードの眉が寄る。見た目の異形さにも慣れることはないだろうが、それ以前に奴らはやる事も非道だ。旅の間にはフアナの荷物が奪われ、訳もわかないうちに襲い掛かられ、散々な目にあった。全部相手は魔族だった。
しかし老婆は魔族の肩を持つ。
「悪い奴ばかりじゃないよ」
一瞬。ほんの一瞬だったが皺だらけの口元が緩んだ。
孫が危ない目にあったというのにそんな態度とは納得がいかず、ジアードは「まともな神経じゃねえな」と心の中で呟いた。
老婆はジアードの様子など意に介することもなく、二人の間でおろおろするフアナから荷物を取り上げた。
「観光って言ってたね。フアナ。案内しておやり」
「いいの?」
「今日は大した荷物じゃない。いっておいで」
そう言い残して老婆はさっさと踵を返す。
すぐに雑踏に紛れてしまう小さな背を見送り、身軽になったフアナは肩を竦めた。
「行っちゃった」
「良いのか?」
「婆ちゃんが良いって言うなら良いんじゃないのかな」
「いや、フアナが」
「うん。今日は婆ちゃんの買い物の荷物もちしか用事なかったからね。
私は生まれも育ちもここだからだいたいどこでも案内できると思うけど――どこか行きたいとこある?」
* * *
「こんな物があったのね」
例の観光マップを前にフアナは感嘆の声を上げた。
「知らなかったのか」
「こんなとこ、いつも素通りだもの」
地元民というのはそういう物なのかもしれない。
フアナはそのマップを面白そうに見つめながら、ひとつひとつ指差していく。
「この街で一番有名なのはこれ。すぐそこにあるラズ・ゲットルの彫像ね」
「ああ、イーカルを睨みつけてるっていう大きな像だろ」
「さすがに知ってた?」
「ここであんたと待ち合わせした日にダウィに教えてもらった」
「そっか、通り道だものね。
後は、さっきの市場の周辺ね。アスリア・ソメイク国からウォーゼル城まで続いている街道と、ヨシュア王国とサザニア帝国を結ぶ街道が交わってる広場があるの。そこを中心に大きなマーケットがあるわ」
「周辺国の物が全部集まるのか。そりゃ色んな字が溢れてるわけだ」
「字?」
「商品の入ってる箱やなんかな。あの文字の種類は国によって違うんだろ? 最初に来た時には何がなんだかわからなかった」
フアナは声を上げて笑った。しかし、異国から来たジアードにとってはそこが一番関心した部分だったのだ。
「後は――観光といえばお城の周りかな。
お城は勿論入れないから外から見るだけだけど、お城の前の広場と鐘塔が有名ね。ウォーゼルで一番蔵書数の多い国営図書館もその近く。
それに、朝晩の衛兵交代式は外国から来た人にはショウみたいに扱われてるらしいわ」
「軍人は芸人と一緒か」
「今は平和だから」
確かに軍人なんて仕事がないのが一番だ。
「他には……そうね。この川の向こうの地区は神殿や墓地だとかそういう神聖な物がある地域なの。ジアードはあまり神様とか信仰してなさそうなイメージだけど」
「特定の神様っつーのはねえな……万策尽きて戦女神に祈った事はあるけどよ」
「じゃあこっちはパスね。
――ここまでで何か見てみたい物はあった?」
「あー……そうだな……」
「ジアードなら衛兵交代かしら。衛兵交代自体は一時間置きにあるんだけど、この時間なら夕方の式を待った方が見応えが――」
「……これはなんだ?」
示したのは地図の左上。丸く囲われた部分が真っ青に塗られている。
フアナは「ああ」と頷いた。
「湖よ」
「この間船で通ったグロース湖?」
「ううん。グロース湖はこの地図の一番下にちょっと見えてる青い部分。湖は西の方にもひとつあるの」
「遠いのか?」
「行きたい?」
「……少しな」
* * *
「おじさん、馬貸してー」
ジアードが連れて行かれたのは町外れの馬小屋だった。看板に書かれた「貸馬」の文字とその下の料金表を興味深く眺めていたら、奥から壮年の男が顔を出した。
「なんだフアナか。商売にならねえ」
「ちゃんとお金出すって言ってるじゃない」
「お前から金取ったらお袋に叱られるっての」
どうやら旧知の仲らしい。慣れた様子で雑談を交わしながら馬小屋の中に入っていく。馬の品種が違うのだろう。ジアードの知る馬より一回り小柄な馬が馬房に並んでいる。しかし、小柄と言っても足腰はしっかりしているし毛艶も良く健康で良く手入れされている様子が窺えた。
フアナは迷わず奥にいた葦毛の馬に近づき、その鼻づらを掻いてやる。
「今日も毛並みが艶々ね。――ねえ、おじさん。この子ともう一頭借りてって良い?」
「ああ?」
「友達が一緒なの」
フアナの視線を追って振り返った男が目を丸くする。
「彼氏か?」
「違う違う」
「ああ、吃驚した」
「なんで」
男は声を潜めて言ったつもりのようだが、ジアードの耳にはしっかりと漏れ聞こえてきた。
「お前の親父と同じくらいの年じゃねえか」
「……そういえばそうね」
ジアードの体格を見て連れて来られたのは一番大柄な馬だった。
酒や牛乳など重い荷物を運ぶ事が多い馬だといっていたが、人を載せるのにも慣れていて余計な揺れが殆どない。良い馬だ。
その評価は先を行くフアナの馬も言える。気心の知れた仲らしい一人と一頭は林の中を気持ち良さげに進んで行く。
「お前、馬に乗れるんだな」
「『運び屋』だもの。急ぎの時は馬を使うわ。
あそこは昔から婆ちゃんが馬を借りてる所でね。私も子供の頃からよく乗らせてもらってこの辺で練習してたの」
子供の頃からか。それは慣れている訳だ。フアナの後ろ頭は殆どぶれることなくずっと綺麗な姿勢を保っていた。
「ジアードも慣れてるわね」
「イーカルは騎馬民族だからな。軍じゃ乗れなきゃ移動もできねえっつーんで最初に仕込まれた」
「あ、そっか」
イーカル王国は広いもんねーなんて言うフアナは本当に分かっているのかわからないが、こんな平和な昼下がりにそれを指摘するのは無粋だろう。
ゆったりとした馬の動きに合わせながら、ジアードはそっと目を閉じた。
蹄が土を蹴る音。木々が風に揺れる音。遠くで鳥の囀る声。
「これが休暇ってやつか――」
閉じた瞼の向こうから木漏れ日の暖かさがじんわりと伝わってきた。




