完了の手続き
たんたんと、タラップを踏む足は軽い。
それは前を行く少女も同じで。
目の前で揺れる髪を見るのもこれが最後かと思うと感慨深い。
「二人とも、お疲れ様」
労いの言葉をかけるダウィと軽く拳を合わせる。
するとフアナも真似をして拳をつき出し、そして突然に笑い出す。
「あー! やっと帰ってこれたー!」
「久しぶりのウォーゼルだね」
ダウィが応じれば、フアナが目を輝かせる。
「ワックルー食べたい! ワックルー!」
「ヤギ貝のオイル煮もいいな」
「オムレツ! 野菜たっぷりの!」
「それに、カルパのフライとか」
二人の口からは郷土料理の名前がぽんぽん出てくる。ジアードにはまだここいらの料理を懐かしむほどの里心は無いが、それでも長旅を終えた感慨はある。
「この景色も、久しぶりだな」
周囲を忙しげに走り回る人足や商人たち。そこここに積み上げられた国際色豊かな貿易品。
ここから初仕事が始まり、そして初仕事が終わる。
「フアナとはここでお別れだね。っていっても、書類のサインがあるからまた明日辺境騎士団本部まで来てもらう必要があるんだけど」
「うん。なんか寂しいなー」
「そう言ってもらえると、この仕事受けてよかったなって思うよ」
「フアナ。ジアード。今回は魔族に襲われるなんてイレギュラーな事があったけど、商品を無傷で届けて全員無事にここまで戻ってこれた。これって凄いことだよ。
お疲れ様――そして、初仕事達成おめでとう」
いつも浮かべている笑顔とは少し違う、力が抜けた穏やかな笑顔だ。
ああ、こいつもほっとしてるんだろうなと気がついて、ジアードは唇の片端を上げた。
二ヶ月と少し。共に旅をすると言う密度の濃い時間は、それまでの数年間を上回るほどで。殆ど感情を表に出さないこの男の表情の違いを理解できるようになった。
それに、フアナとも。
今にも泣き出しそうな顔をした少女と目が合った。
そしてぼふりと胸元に衝撃が。
「おい、お前――!」
「いいでしょ、少しくらいっ! ジアードのけちー!」
そう言って抱きついてぐしぐしと顔をこすり付けてくる。
周囲を見回せば、なんだなんだと好奇心を隠さず覗いてくる野次馬と目があう。
ジアードは思わず空を仰いだ。
そういえば、旅を始めた頃はこんな少女を連れまわして犯罪者と間違われないかと思ったものだ。しかし、明らかにフアナから抱きついている今の状況なら拐かしを疑われる事も無いだろう。
そっと両手を上げて無実をアピールしながらそんな事を考えた。
* * *
次の日。書類の整理に追われるダウィの向かいで、ジアードは参考書を紐解いていた。
この国で歴史を学ぶ学生が最初に手にするという本だ。歴史書としながらも、そこには地理や法律が絡んできて、以前なら頭を素通りするどころか、綴りの読み方すらわからなかったような小難しい事項が並ぶ。しかし今は、知らない事だらけでも読めば一応理解できている。
ジアードはそっと視線を上げて、向かいの席を盗み見る。ぶつぶつと文句を言いながら今回の仕事の報告書を書くこの男は、ただ旅行をするだけでなく基礎を叩き込んでくれていたのだ。
試験まで後数ヶ月。もしかしたらなんとかなるかもしれないと希望を見出し、ジアードは再びペンを手に取った。
「ダウィ―。お客さんー」
誰かの声ではっと顔を上げた。随分長い事集中していたらしい。厚いと思っていた本が四分の一ほども進んでいる。
向かいで報告書を書いていたダウィが「フアナかな?」と言いながら立ち上がった。こちらはちょうど終わったところのようだ。綴じ紐を結ぶ作業をしていた。
「依頼者はね、事務で終了の書類を提出して依頼完了なんだ。だけど今回はジアードが初仕事だったから、一応全体の流れを見てもらおうとおもって、フアナが来たら声をかけてって頼んでおいたんだ」
そんな話をしながら受付の方へ回ると見慣れたポニーテールが元気に跳ねた。
「ダウィ! ジアード!」
大げさな動作で振り返って駆けてくる少女。若さだ。
「あれ、タイは?」
きょろきょろと見回すが、今日はあの犬はいない。
「船酔いが抜けきってないみたいでね。宿舎の庭で寝てたよ」
「そっかー。酷い顔してたもんねー」
酷いなんてものじゃなかった。朝、ジアードは出勤前にタイを呼びに行くという飼い主と共に犬小屋へ行ったのだが、力なく地面に横たわる姿を見て死んだかと思ったほどだ。
容赦の無いダウィが揺り起こし「ついてくるか」と聞いた時、犬の表情なんてわかるわけないと思っていたジアードですら心配しだすほど生気の無い顔をちらりと向け、返事をする気力もないとばかりに再び地面につっぷした。
だが、その姿を見ていないフアナはあっさりと納得して、手にしていた書類をぴらぴら振った。
「これね、お婆ちゃんから預かってきたんだけど、書き方ってこれであってるかな?」
「見せてもらっていい?」
ダウィの受け取ったそれを背後から覗き込む。1枚目が依頼の申込書の控えで、2枚目が完了手続きの書類だそうだ。1枚目は流れるような達筆で、2枚目は丸っこい癖字。どちらを誰が書いたのか丸わかりだった。
「うん――日付OK。サインOK。期間と経由地も問題なし。随行者変更の事も魔族の件も書いてあるし……ああ、参考意見の欄が空白だけど、ここは大丈夫?」
「何書いたら良いかわからなくて」
「契約期間中に問題が起きたら書く所だよ。護衛中に不満があったり契約違反があったりした時に記録を残す必要があるんだ。だから何かあったら遠慮せずにここに書いてね。
ちなみにその場合は一部返金や、場合によっては賠償にも応じることになってるし、そのことで依頼者が不利益を被ることがないように配慮する規則があるから安心して」
「不満なんてないない。むしろ感謝しか!」
「それは良かった。じゃあ、こっちの完了手続きの紙を窓口に提出してきて」
「はーい!」
ぴょんぴょんと跳ぶように歩くフアナの後を追って、窓口へ向かう。
事務員のチェックの様子を見学させてもらって、これで本当に初仕事終了だ。
建物の外まで見送るつもりで歩き出す。するとくるりと振り返ったフアナがジアードを見上げ、晴れ晴れとした笑顔で言った。
「今日はね、もう泣かないから!」
「お、おう」
昨日の船着き場での事だろう。確かにこの場所であの時のように感極まって抱き着かれては困る。
「あのね。私、帰ってからゆっくり考えたの。
ジアードはまだ、えーと……十か月くらいはこの国にいるんでしょ。まだまだいっぱい、会えるよね」
「……あー……なんだ?」
「私ね。ジアードと、ダウィと、タイと、もっと仲良くなりたい」
フアナの小さな手がジアードとダウィの手に触れた。
「またおしゃべりしたいし、一緒にご飯食べたいし、一緒に旅をしたい」
その手がきゅっと握られて、男二人は思わず顔を見合わせる。
予想外の事に対応しきれずにいるうちに、フアナは二人の手を離し、ぱっと身を翻した。
「旅の間、本当にありがとう。またね!」
大きく手を振って、フアナは眩い午後の日差しの中に飛び出していった。
いつの間にか見慣れていたあのポニーテールの後ろ姿は、あっという間に雑踏の中に紛れて消えた。
「……嵐か」
しみじみ言えば、ダウィが噴き出す。
「ああいうとこは、ソユーとそっくりなんだなあ」
「フアナの婆さんだっけ?」
「この街では有名な運び屋だから、そのうちジアードも会えるんじゃないかな」
「そりゃ……楽しみだな」
正直付き合いきれるかわからないと思ったのだが、その辺りのニュアンスもダウィには通じてしまったらしい。
再び楽しそうに笑われた。
「さて、ジアードもお疲れ様。通常はこの報告書を事務に回して終了だよ。でも、今回は魔族ってイレギュラーがあったから団長室に直接持っていく、んだけど……」
「ん?」
「うーん……話が長くなりそうだから、先に戻っててくれるかな」
そう言ってダウィは先ほど書いていた報告書の束を抱え、一人廊下の奥へと行ってしまった。
事務室へ戻ると、エンシオが壁のボードに何やら記入しているところだった。
「おう、ジアード。初仕事完了か。お疲れー」
へらりと手を振る彼のちょうど腰のあたりに自分の名前を見つけて立ち止まった。
「……なんだそれ」
「ああ。お前ずっと外にいたから知らないのか。勤務予定が書いてあるんだ。――ジアードの分はここ」
「なんで俺だけファーストネームなんだ」
他の奴はフルネームで書かれているというのに。
「団長が書いてったんだ。文句は団長に言ってくれ」
あの「ジアードという名が気に入ったから」なんて理由で仮入団を決めた団長か。ここまで徹底されるとからかわれているんじゃないかとすら思い始める。
「で、上の数字が日付な。今日はここ」
指の先をたどって行くと、今日の分に△印がついている。
「これは半休。午後から休みって事だな。それから……例えば、昨日までの分は矢印だろ? これが出張。
出張や外出ん時はこっちの欄に行く先を書いていくのがルールな」
そのついでに早番・遅番・宿直といった勤務時間を示す記号の意味を教わった。
「赤い丸が休み――ってことは、俺明日から休みなのか」
「そうだな。護衛任務でずっと休みを取ってなかったから十日くらい休めるはずだ」
「そんなに休んでいいのか」
「権利は使っとけ。それに休むことも良い仕事には必要なんだよ。これも仕事のうち」
「落ち着かねえなぁ」
疲れていると判断力が鈍るから適度な休みを取るべきだというのは理解できる。しかし、軍人時代は休みといってもそんなに長い休暇はなかった。風邪や怪我での休養を除けば、長くて三連休だったか。
「まあ、ぶっ続けで休むのが不安だったら何日かずつに分ける手もある」
「そっちの方が良い」
「んじゃ、後でダウィに相談するんだな。見習いの勤怠管理は担当のヤツの仕事だから。あいつはこの先しばらく大きな仕事が入っていなかったはずだから融通が利くと思うぜ」
成程と頷いて、ダウィの欄を探す。
表の真ん中辺りにその名前を見つけた。彼もファーストネームだけだった。
「――ん? ダウィは休みがないんだな」
十連休も貰ってしまったジアードは勿論、他の者にも週一回程度は赤い休日の印がついているのに、ダウィだけは真っ黒だ。
「あいつの家はウルス=フィリアだから一日じゃ帰って来れないだろ。だから何ヶ月かに一度、まとめて半月くらいの休暇にして家に帰ってんだ」
「へえ。だったら家族でこっちに引っ越してくりゃいいのにな」
「そうもいかねえんだってよ」
「なんで?」
休むのも仕事のうちと言われた矢先だ。休まなければ十分な仕事ができないというなら引っ越しをするか転職をするかが普通の考え方だろう。そもそも辺境騎士団には隣国にだって支部があるのだ。
「さあな。理由なんざいくらでも考えられっけど」
エンシオはにやりと笑った。
「例えば元犯罪者で、保護観察とかの理由でアスリアを出れないとか?」
「犯罪者ってなあ……辺境騎士団はそれを取り締まる方だろうが」
悪趣味な冗談だと思いつつも、思わず眉をしかめる。
「いや、過去にはいたらしいぜ? 例えば、薬物使って脅されていた奴や、略取されて無理矢理犯罪の片棒を担がされていた奴。あとは性的暴行や日常的な暴力の被害者でそれから逃れる為に加害者を殺した奴とか」
「理由には同情するが、どれも立派な犯罪者じゃねえか」
「いやだから、元々被害者だから情状酌量されるだろ。それで放免された後でここへ来て、自分みたいな被害者を増やさない為に騎士になりたい――みたいな奴な」
「……その発想は理解できなくもないな」
だが、それを受け入れるという騎士団の柔軟さには疑問を抱かなくもない。
難しげな顔をして考え込むジアードをみて、エンシオは苦笑した。
「お前には司法取引の話なんかはしない方がよさそうだな」
「なんだそれは」
「それはそのうちおいおいな。
だいたい、あいつにそういう暗いイメージないだろ。嫁さんの仕事の都合だとか親の介護だとかそんな理由だと考えるのが無難だと思うぜ」
そういえば嫁は魔術師だとか言っていたか。砂漠の街で出会った幼女にしか見えない魔術師は、坑道を守るために駐留していると言っていた。ダウィの嫁もそのような仕事をしてるのだろうか。
「そういや、ジアードはここに来て初めての休日だよな。俺も休みなら観光案内くらいできたんだけど」
「気持ちだけでもありがたい」
「そのうち休みが重なったらどこか行こうぜ。温泉とか」
「温泉」
「イーカルにはあんのか? お湯の湧き出る泉があって、その湯に浸かる場所なんだけど」
「ローラク王国で入った。また行きたいと思っていたところだ」
そう答えるとエンシオは嬉しそうに計画を立て始めた。
あの寒さの厳しい国で立てた、「もう一度温泉に行く」という目標も近々無事に叶いそうだ。




