真珠色の存在
階段を登り切ると同時に目に差し込むのは眩い朝日。
水平線の向こうから姿を現した太陽の白い光が、甲板にマストの長い影を作り出していた。
周囲に飛び交う大きな声は、軍人達の掛け声や市場の競りの声に似ているが少し違う。
おそらく「確認を急げ」とか「ロープを引け」だとかといった事を喋っているのだろう。だが、それらはどれも元の単語がわからぬほど喋り崩された言葉で、独特な抑揚を持った――そう、異国の民謡の中を歩いているような心持ちになる。
「出港まであと少しあるね。あっちにベンチがあるから座っていようか」
そう言って船尾の方へ向かうダウィのあとを飼い犬が追い、その尻尾を追いかけるようにフアナがちょこちょことついていく。ジアードは更にそのあとをゆったり大股で辿った。
こんな一行の移動姿もこの旅の間にすっかり板についたパターンだが、改めて思えばフアナに合わせられた速度はとてものんびりしたものだ。周囲を見回し、無駄口を叩いたり景色を楽しむ余裕すらある。こんなに穏やかな時間を過ごすのは、そういえば子供の頃以来ではないか。
ジアードは慌しく立ち働く船員達を眺めつつ、ふと脚を止めた。
先を行くフアナがそれに気がつき、小走りで戻ってくる。
「どーしたの?」
「……ああ、いや。遠くまで来たもんだと思ってな」
「そだね?」
小首を傾げ納得していない様子だが、太もものあたりをタイが鼻先でつつきせかすのでフアナは再び歩き出す。
跳ねるように歩く彼女の後頭部で一つに括られた髪が大きく揺れた。
「ジアード! 早くおいでよー!」
ぶんぶんと両手を振り回す仕草に苦笑し、軽く手を挙げる事で応じる。
追いついた時には彼女は手すりから乗り出すようにして、船の周囲で走り回る人足たちの姿を見つめていた。桟橋には、客の乗り込む舷梯とは別に船尾へ向かって伸びるスロープがある。ダウィが言うには客室の下にある貨物室に荷を運び込んでいるのだそうだ。殆どは今回の経由地でもある商業都市へ運ばれる交易品だが、中には川を使って内陸のウォーゼル王国まで届けられる物もあるという。
「あ!」
不意にフアナが大きな声を出して荷物の運ばれて行く方を指差した。
貨物の搬入口と思われる場所から船員が数人顔を出し、荷札のチェックをしたり何事か指示を出しているように見える。そんな彼らの中に一人、明らかに服装が違う小柄な影がある。
「女の人もいるんだね!」
フアナの言葉によくよく見れば、確かに女だ。船員と言葉を交わしている様子を見る限り人足サイドではなくこの船に関わる者だろう。
ジアードの隣から身を乗り出し確認したダウィが納得したように頷いた。
「ああ。あの人が船長だよ」
「女の人が船長なの!?」
驚いたのはジアードも一緒だ。確かに東方の国々では性別によって職業を分けられる事が無いと聞いている。しかし、女性は力仕事に向かないだろう。
「昨日も少し話したっけ。彼女は『海の民』だからこの国の船乗りたちの中では一番潮を読む力に長けていて、彼女のお陰でこの船は通常一ヶ月かかる航路を最短二十日で航行できるんだ」
思わずまじまじと見つめてしまう。
きりっと引き締まった意思の強さを感じられる顔立ちの女性だ。船長という役職にしては若く、三十路くらいに見える。しかし実際より若く見えるという大陸沿岸部の民だから年齢はもっと上か。
彼女は貨物を指差し何かを確認している様子だったが、すぐに民族衣装のような服の裾を翻して船の奥に引っ込んでしまった。
ふわりと広がるそれに既視感を覚える。
「……あの服どっかで見たな」
「ラクトゥリィじゃない?」
「あー。お前の嫁さんか」
そういえば、変わった服を着ていたという印象がある。あの時は単純にこの国の民族衣装なのかと思ったが、今あの女船長を見るまで同じ形の服を見ることは無かったから不思議なものだ。
「この辺りでは珍しくないんだけど、それでも最近は着る人も減ったみたいだね」
「嫁さんはこの辺りの出身なのか?――って、ああ。そうか。記憶がねえとか言ってたな」
「うん。でも」
ダウィは朝日の方へ顔を向け、目を細めた。
「顔を知らなくてもお母さんはお母さん、なんだってさ」
* * *
『海の民』――海の女神によって創られた人々。不思議な力を持つという彼らの血をひく船長は、確かにすごかった。
手を離せばパラパラと捲れてしまうノートのページを右手で抑え、ジアードは唸った。
「馬より早いんじゃねえの、この船」
「また腕を上げたね、船長」
どこか楽しそうにダウィは笑う。
ちなみにフアナは知らない子供と一緒になって甲板の手すりに掴まってきゃーきゃーはしゃいでいる。成人している年齢のはずだが、まだ十代ならあんなものだろうか。
再び視線をノートに戻そうとした時、足元でつっぷしていたタイがピクリと揺れた。
船酔いで動けないという話だったのに、のろのろと立ち上がったかと思えば、水平線を見据えてぴたりと動きを止めた。
「どうかし――」
ガラーンガラーンガラーン……ガラーンガラーンガラーン……
ダウィの声をかき消すように、低い鐘の音が辺りに響く。
「な、なんだ!?」
「船が揺れるぞっていう合図だ。その辺に掴まって!」
そう言ってダウィはフアナの元に走り、肩を抱いて支える。
ジアードもそれにならい、フアナの近くの手すりを握った。周囲の子供たちの元にもそれぞれ保護者が駆け寄ってくる。
水面は静かなものだ。
さっきまでと変わらず、船の起こす波だけが平らな海に広がり、白い跡を残していく。
何も起こる気配はない。
油断しかけたその時、船からだいぶ離れた水面で泡が二つ三つはじけるのが見えた。目を凝らし、その大本を見定めようとした直後――
「うわ!!」
船が大きく左右に揺れた。思わず叫びながら手すりを握りなおす。同時に、隣にいた子供がバランスを崩して転びそうになるのを左手で引き寄せ、抱え込む。
あちらこちらで悲鳴が上がる。顔を上げる間もなく水しぶきが降り注ぎ、全身が濡れる。
「なんだ!?」
まだ揺れの収まらぬ甲板でなんとか体を支えつつ周囲を見回せば、先ほど泡が見えた辺りに大きな白い渦ができていた。
倒れかけた子供に意識を取られて見逃したが、フアナや他の子供たちが口々に「何か居た!」と騒ぐので、水中に潜む生物がいるのだろう。それもかなり巨大な何かが。
泡は渦を描いているだけでなく、一筋の線のように、渦の中心からまっすぐ沖へと伸びている。
筋を辿るように視線を動かせば、その先で「ぼこり」と一際大きな泡が湧く。
再び現れるであろう何かに、人々は身を固くした。
「来る!」
ジアードの背後でダウィが息を呑むのが聞こえた。
「海竜――!」
きらきら輝く水面を割って現れたのは、乳白色の鱗に包まれた巨大生物。大きな背が水しぶきを上げながら弧を描き、最後に棘のある尾が水中から飛び出す。
全身から水をしたたらせた人々が呆然と立ちすくむ中、その生き物は虹色に輝く身体をくねらせて沖へと泳ぎ去った。
その邂逅はほんの数秒の事。しかしそれはジアードの意識に鮮烈な印象を残した。
真珠のような色の鱗が陽光を反射し、一枚一枚が複雑な色に煌めくのをはっきりと見た。見たのだ。
貴重な巡り合わせを噛みしめていると、腕の中で子供が泣き出した。
はっと我に返り、ジアードは近くに居た親に引き渡そうとした。しかし子供は腕にしがみついたまま離れない。
「ああ、おい。坊主? 怖かったのか? 大丈夫だ。もういっちまったから」
不器用にその頭を撫でれば、涙にまみれた顔をぐしぐしとジアードの腕にこすり付ける。熱い滴がシャツ越しにも感じられた。
ようやくしがみつく力が緩んだところで母親が子供を抱きかかえた。何度もお礼を言いながら去っていく母親に手を振り、別れる頃には、甲板を船員たちが慌ただしく駆け回っていた。
乗客の無事を確認しながらタオルなどを配っている。慣れたものだ。こういう事態は珍しくないのだろうか。
もう一度沖の方へ顔を向けるが、やはりもうあの大きな生物の影はどこにもなく、ただ平らかな青い海がどこまでも広がっていた。
「あれが、竜か」
ぽつりと呟けば、隣で同じように遠くを見ていたフアナが濡れた髪を揺らして頷いた。
「綺麗だったね。すっごく」
「ああ――魔族とは全然違った」
再びフアナが深く頷く。
思い出したのは、砂漠の中の街で小さな魔術師が話していたあれだ。射落とした異形の生物が魔族なのか竜なのかと聞いた時、魔術師は自信満々に答えていた。
――魔族よ。竜はもっと美しいわ。
今ならはっきりとわかる。魔族と竜はまったく違う。
見られたのは一瞬だけで、それも背と尾びれという一部分にすぎなかったが、それでもわかる。理解させられた。
犬と猫の姿が違うとかそういう次元の話ではなく、あれはまったく違う存在だ。
見た目の違いではなく、気配が違う。
神秘的というのはああいうもののことか。
そこにあるだけで周囲が厳かな空気に包まれるもの。
「ジアード?」
何もいなくなった水面を見続けるジアードを不思議に思ったのか、ダウィが目の前で左右に手を振る。
「いや、なんでもない」
「そう?」
なんでもなくはないのだが、言葉が出てこない。
濡れた髪を伝って海水が口に入る。
「……しょっぺえな」
これを温めてもスープにはならなそうだ、といつか伝えよう。




