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遠い夜会の夢

「はー……」

 

 ジアードは眼下の景色に驚嘆した。

 吐き切った空気を取り戻すように深く息を吸えば、重怠さを訴える匂いが鼻腔を満たす。何かが腐った匂いと似ている。だが、不快ではない。むしろ郷愁すら覚える。

 よくわからない感覚に落ち着かない心持ちになり、癖のある毛を右手でかき回す。

「でっけえな……」

 なんとか絞り出した言葉にダウィはどこか不満げだ。

「感想、それだけ?」

「言葉になんねえ」

 急な坂道を下った先は一面の青。灰色がかった青が次第に深みを増し、遥か遠くで空の青と混じる。背後から差し込む陽光で輝く波頭と、まにまに浮かぶ漁船だけが静謐な青の世界に彩と生を与えている。


「なあ。あれ、全部塩水なんだろ」

「そうだね」

「不思議なもんだなあ」

 

 塩水ということは、温めればそのままスープになるのか。かつての上司なら「舐めてみたい」と言う所だろう。

 唇の端にふっと笑みを乗せ、チャンスがあれば味見をしてみようと考える。


「出港は明日だって話だけど、俺たちが乗る予定の船が停まってるよ」

「え、どれどれ!?」

 ダウィの言葉にフアナが身を乗り出す。それに習うように胸元から小鹿が首を伸ばしている

「あの右の……」

 視界のずっと端に港が見えた。

 そこに停泊するのは、この旅のはじめに乗った船とは比べ物にならない大きな船。周囲で作業をしている人がアリのように見える。

「でっけえなあ」

「ジアード、さっきからそればっかり」

 呆れたように言うフアナに苦笑で返す。

 想像を超えたスケールにはもう「でっけえ」としか言いようが無いのだ。


「ウォーゼルから乗ってきた船もでかかったけどよ、こっちはその倍はあるじゃねえか。あんなんどうやって動かすんだ」

「あれは帆船だよ」

「あんなに大きくても風の力で動かせんのか」

「うん。すごく早いよ。

 それにあの船の船長は純血の海の民だから潮を読む能力がずば抜けてる――っていうか、海流が感覚で『わかる』んだって。それで一番良いルートを辿って行くから、アスリア最速の船って言われてるんだ」

「あー……海の民っつーのは――」

 昔話の中で時折出てくる名前だ。しかしそれだけに現実味を感じない。

「大昔に、海の女神が創りたもうた古い一族。この国の海岸沿いにはあちらこちらに集落があるよ。

 元々アスリアっていう国は彼らの国だからね」

「へえー」

「神によって創られた人たちは何かしら特殊能力があったりするけど、海の民の場合はあの船の船長みたいに潮の流れが読めるって人が多いね」

「漁師や船乗り向きだな」

「うーん……」

 珍しく歯切れが悪いので先を促すように片眉を上げる。それなりに付き合いの長い二人だ。それだけで十分通じる。

「海の民ってね、俺たちから見るとちょっと変わってるから……そういう職業の人が居ないわけでもないけど、そればっかりでもないんだよなあ」

 ダウィはちらりとジアードを伺い、そして船の方へと眼をやってクスリと笑う。

「一番変わってるのは、金銭感覚が全くない事」

「金遣いが荒い?」

「違う違う。お金に興味がないんだ。

 今はソメイク人が持ち込んだ貨幣文化があるけどね。元々は『お金』の感覚もなければ『商売』に相当する事をする人もいなかったんだ」

「金が無いなら……物々交換か」

 鮮やかな金髪を揺らすように、ダウィは静かに首を横に振る。

「海の女神ってさ、生命を創りだす神なんだよね。

 だから海の民も命を創りだす作業が好きで、農作業――いや、自給自足の中に幸せを見出す民族なんだ。隣近所で物を共有しあう事はあったかもしれないけど、集落同士の交易は存在しなかった」

 ジアードは首をかしげ、周囲を見回す。

「なら、この町にも店はないのか」

 馬車を降りたのは宿屋に近いという町外れ。確かに左手には畑が広がっている。しかしきっちりと居住区域と分けられたそれは、母国の畑を中心に構成された農村とは印象が異なる。これも文化の違いか。

「何百年も前の話だよ。

 今は貨幣も根付いたし、この町は港に目をつけて各地から集まってきた商人の町だから文化的には昨日泊まったロトガスとそんなに違わない。

 それに混血や移住が進んでね。国中を見回しても昔ながらの海の民の生活を保ってる人は少ないんじゃないかな」

 ダウィは遠くを見て穏やかに目を細め、やがて何かに思い至ったかのようにわずかに眉を寄せた。


「――うん。いろんな人がいるけど、正直一筋縄でいかない人たちだね」

 

 そんな表情を覗き込んだフアナが指を指して笑った。

「苦手、って顔に書いてあるー!」

「あはは。トラウマかなあ」

「何かあったの?」

「ちょうどフアナくらいの年の頃に海の民の長老陣との折衝の役目を仰せつかって、胃に穴が空きそうな生活を一年ほど」 

「うわあ」

 

「でも憎めないんだよね。あの朴訥さと頑固さは。

 ――さあ、今日の宿を探しに行こうか」



 * * *



 夜会の最中の王宮っていうのは、案外と静かなものだ。

 勿論王侯貴族の集う大広間やその周辺は音楽と笑い声に溢れているし、裏方であっても厨房の周辺などは指示と檄が飛び、足音が入り乱れ、静寂とは間逆の戦場のような騒ぎだ。

 だが、そういう忙しいところに人が集まっているお陰で、俺の所属する連隊の配備される辺り――広間からも厨房からも遠く、人目に付きにくい王宮の隅の隅は、まったくというほど出歩く人がいない。

 まあ、それだからこそ、この場所の警備を俺たちが任されてるわけなんだが。

 隊員の殆どが異民族という特殊性からすれば、お偉い貴族たちの近づかない場所に追いやられているのは仕方ない事だ。向こうは俺たちなんて目に入れたくないだろうし、俺たちだって蔑まれるのは御免だ。だから離れていた方がお互いのためだろう。


「それでもこういう特別な日に王宮内の警備に加えられてんだから、俺たちの実力は評価されてんだよ」

 

 不服そうな新人の肩を叩き、敬礼を交わしてその場を立ち去る。

 出入り口など要所要所に立つ部下たちに声をかけ、異常がないか確認すること。それがその日の俺の役割だ。

 執務棟と呼ばれる建物の二階を巡り、ふと窓から中庭を見下ろした時だった。


 植え込みの間の道に揺れる影。


 一瞬、賊かと身構えた。

 しかし良く見れば橙色の布を重ねた衣装。あれは貴族の誰かだろう。

 まだ逢引には早い時間だ。となると、道に迷って奥の奥へと入り込んできてしまったものかもしれない。

 俺は道案内すべく、早足で階段へ向かった。

 


「――馬子にも」

 言いかけた言葉を呑み込み、改めてその人影へ声をかける。

 丁寧に梳られた髪の毛が揺れ、入り口のスロープに設置されたランタンの明かりで煌めく。

 近づけば香水だか香油だか知らないが、良い匂いがする。いつもと違うそれに眉を寄せると、何を誤解したものか彼女は言い訳めいた事を言い出した。今日の衣装は下賜されたもので自分で選んだのではないのだとかなんだとか。


 似合っていないとは、言っていないのだが。


 ただ、俺みたいな庶民にはその衣装の値段も生地の名前も価値もわからない。それだけだ。

「まだ夜会も始まったばかりだろう。こんな所で何をしているんだ」

 話を変えれば口を尖らせる。せっかく抜け出して来たのにというが、こっちは頼んだ覚えもない。

「早く戻れ」

 そう言って先程出てきたばかりの建物に戻る。巡回の続きだ。後は三階の奥。何とかいう高そうな名前の石で造られた階段を上りながら、これからやるべき事を考える。重要書類の入っている金庫のある部屋付近に部下が二人居るはずだ。そこを確認してから――と指折り数えながら廊下を進む。不審者の隠れる場所もない廊下だ。特に警戒が必要なわけでもないので歩きながら窓の外を見ていた。

 踵を返した彼女の背中が木々の間で見え隠れしていたが、道の交わるところで誰かに呼び止められたようだ。

 足を止めた彼女の様子を何の気なしに眺めていると、明らかに夜会出席者であろう服を纏った貴族の青年が近づいてくる。道に迷った奴なら彼女が連れて行くだろうとあまり気にせず再び巡回に戻る事にする。だが直後に青年がとった行動で、俺は足を止めてしまった。

 

 貴族の男が王族以外に跪くのは、求婚の時だけだ。


 彼女が戸惑った様子で青年に話しかけるのが見えた。

 そして俺は、胸をよぎった感情を――

 

 






「ジアード……?」


 暗闇の向こうから、穏やかな声が名前を呼んだ。

「悪い。起こしちまったか」

「んー……どした……?」

 眠たげな声は少し舌足らずで、この男には似合わない。珍しいものを見たと思ったら、落ち込んでいた気持ちが少し浮上した。

「いや。夢見が悪かっただけだ」

「そう……明日は乗船手続きあるから……日の出前に宿を出ないと……今のうちにしっかり寝て……」

「ああ」

 一度は剥ぎかけた毛布をもう一度頭の上まで被った。

 昔の夢を見ていた気がする。妙な夢だった。

 目を閉じた時にはもう隣のベッドからは寝息が聞こえていた。

 


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