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座学のススメ

「失礼しました!」

 まるで教員室から出る学生のような仕草で頭を下げ、退出する運び屋。

 パタンと小さな音を立てて閉められた扉。

 その向こうから「はあ~っ」と深い溜息が聞こえる。


 私は壁際に控えていた執事と視線を交わし、口角を上げた。執事も微笑ましげな表情を浮かべる。

 あの緊張しきった小柄な少女が今どんな顔をしているのか、この目で見ることが出来れば面白いのに。


 少女はこれが初仕事だと言っていた。

 私にとってのそれは何十年も前の話だ。

 念入りに準備を重ね、前日には徹夜までしたと言うのに不安は拭えず、朝食をとりながら読んでいた資料は目が文字の上を滑っていくばかりでまったく頭に入らなかった。部屋を出てからの事に至ってはもう霞がかかったように思い出せない。きちんと仕事をこなせたのかどうかはおろか、どうやって部屋まで帰って来たのかすら、だ。しかし、そんな極度の緊張に追われた一日の中で、ただひとつ。今でも鮮明に覚えている事がある。それは――

「チョコレートはあるか?」

 突然の問いにも動じず、執事はふっと笑って答える。

「先程彼女の持ってきたパイを召し上がったばかりでしょうに」

「あのパイは『二番目』だ」

「はい?」

「一番の好物はお前のチョコレートだと言ったんだ」

「……私が作っている訳ではありませんよ」

 苦笑を浮かべながら執事が机に置いたのは、小皿でも高級チョコレートの箱でもなく、彼のポケットから取り出されたパラフィン紙の小さな包み。町の菓子屋で、おそらく子供の小遣いでもなんとか買える程度の値段で売られている、何の変哲もないチョコレートだ。

 初仕事のあの日。緊張から解放され、宛がわれた部屋に辿り着いた途端に座り込んでしまった私に差し出されたそれと同じもの。

 ころりと舌の上で転がせばじんわりと甘さが広がる。

 もっと口どけの良いものも香りの良いものも容易に手に入る立場であるが、私にとって特別な菓子はこれなのだ。

 ティーカップに新しいお茶を注ぎながら執事が目を細めて笑う。

「ご機嫌が、よろしいようで」

「そりゃあね」

 机の上に置かれた「呪われた絵本」の表紙をなぞる。

「彼女の仕事は完璧だったよ」

 本についていた「余計なもの」は綺麗さっぱり除かれているし、何より本自体が傷んだりしていない。砂漠や雪道といった過酷な旅の最中も適切に扱われていた証拠だ。

「次も運び屋の仕事は彼女に頼もう」

「『次』の予定が?」

「ないよ。今は」

 けれど、彼女から聞き出した話によれば、イーカル王国の開国に向けて辺境騎士団も動き出したらしい。

 想像するだけで漏れる笑いを抑えられない。


「ふふ……イーカルにはきっと未だ私の知らない本がたくさんあるんだろうね」



 * * *



 海へ向かう乗合馬車はがらがらだった。

 昼をだいぶ回った頃という半端な時間。空いているのも当たり前で、むしろたった三人と一匹のために馬車を出して貰えた事に驚くべきだ。

 ジアードがその事を口にすれば、「もうすぐ港に着く船便に合わせて海沿いの街に戻るつもりだった」と御者は笑っていたが。


 ぼんやり外を眺めていたら、不意に二の腕の辺りに重みを感じてびくりと身を起こした。

 厚手の上着越しにも感じる暖かな体温と、どこかぬくもりを感じる色の髪。

 隣に座っていたフアナが寄りかかってきたのだ。

「――フアナ?」

 顔を覗き込もうにも、ジアードの位置からでは後頭部と髪を束ねるリボンしか見えない。

 代わりにダウィが囁き声で応える。

「寝ちゃったみたいだね」

 初仕事を終えて緊張の糸が切れたのか。確かに穏やかな寝息が聞こえてきた。

 ずり落ちそうになっている荷物を直してやりながら、ジアードは口を開く。

「あと五ヶ月だよな」

「うん?」

「団長が言ってた、入団試験の再試験」

「そうだね」

 前回28点だった筆記試験を180点くらいまで引き上げないとならない再試験。

 

「エフィムとイーカルで会う約束をしたからな、余計に受からないといけねえって思ったんだ」

 真剣な決意宣言を、ダウィはいつものふんわりした笑顔でさらりと流した。

「ジアードなら大丈夫だよ」

「勉強。お前に習えって言われたけど、結局まだ何もしてねえじゃねえか」

「ああ。やりたい?」

 そう言ってダウィは鞄の中から紙の束をひっぱりだした。

 

「第一問。サザニア帝国に源流を持ち、ウォーゼル王国を横断、アスリア・ソメイク国アスリア領ミダスへそそぐ川の名前を答えなさい」


 いきなり問題かと眉をひそめたが、どこか覚えのある地名が出てきたことに気付く。

「ミダスって、『水の街』の船会社に行った時に定期便がどうとかって言ってた所だよな?

 だから、ウォーゼルから船にのった川の名前か……あー……ス…スー……スーゼルク川?」

 記憶の糸を辿りつつ答えれば、ダウィは唇の端を軽く吊り上げて見せた。


「第十五問。アスリア・ソメイク王国とサザニア帝国を隔てる砂漠を行き来し、遊牧や行商を生業とする民族の名前を答えなさい」

 問題の番号が飛んだ気がするが、これにも覚えがある。

「彷徨い人のことだな」

 独特の文化を持った人たちだった。またあの砂漠を横断したいとは思わないが、蒸しパンはもう一度くらい食べたい。

 そんなジアードの言葉にうなずきながらダウィは紙を一枚めくる。


「第四十二問。ローラク王国の産業について説明しなさい」

「地熱や温泉を利用した農業?」

 畑や池を暖めて、冬でも野菜や魚を育てる事ができるとか言っていた。 

「他には?」

「鉱石採取とか金属加工つってたっけか。山ん中で製鉄の煙が見えたな。後は――ああ。織物だとか木の桶だとか」

 立ち寄った町々に並ぶ商店を思い浮かべながら答える。

 冬は雪に埋もれる山岳地帯だというのにとても豊かな国だった。


「第四十三問 アスリア・ソメイク王国アスリア領ロトガスの街の特徴を答えなさい」

「石造りの古い街。三国学問所の本校がある。王家の分家であるアスリア家の屋敷がある。魔術師の森が近いから魔術師が多い」

 これは今まで居た街の事だから答えやすい。ちらりと振り返れば、まだ坂の途中の城と屋敷が見えた。

 ダウィはほめるように目を細め、また紙を1枚めくる。

「第七十八問。絶滅の危機に瀕している野生生物の国際取引に関する条約の名前を答えなさい」

「あー、エールジカのあれだよな。確か……マーレップ条約?」

「第百十三問。魔術士と魔導師の違いを答えなさい」

「魔術師が拳闘士で、魔導師が剣士?」

「もうちょっと詳しく」

「……拳闘士が己の体だけで戦っているみたいに、魔術に自分の魔力だけを使うのが魔術師で、剣士が剣を使うようにそこら辺に漂ってる魔力を道具として借りるのが魔導師だっけか。

 で、その辺の境界線は曖昧なもんだから、魔術を使えればとりあえず魔術士って呼ぶ――?」

「ギルが教えたんだろうけど、問題の答えとしては最後の部分は要らないかな。

 ――今の問題、全部君が受けた入団試験の問題だよ。だいたい正解」

 ジアードは褒められたはずのその言葉に苦虫を噛んだような顔をした。

 どれも覚えている。条約や川の名前のような普通ならすぐに忘れてしまうような言葉まで。

 そしてその理由には心当たりがあった。


「……日記、か」


「あ、気付いた?」

「日記を書けって、共通語に慣れるためだけじゃなかったんだな」

 そう。小さな単語まで覚えていたのはどれも一度ノートに書いているからだ。それも文章に起こすためにそれなりに頭の中で整理をしているし、ダウィの添削を受ける度に何度も見直している。日記に書いた事ならほぼ全て正しい綴りで記憶している自信がある。

 その事に思い至って渋い顔をするジアードに、ダウィは楽しげに笑いかけた。

「君は真面目だからきっと俺の言った事なんかもちゃんとメモするだろうと思ったんだよ。

 でも座学よりこっちの方が良かったでしょ。百聞は一見にしかずっていうし」

「――はめられたみたいで釈然としねえ」

 だが、今まで名前しか知らなかったそれぞれの国のイメージがつかめたのは事実だ。

 この旅に出ずに机に向かっていても身につかなかったであろう事は想像に難くない。

 だから感謝すべきだとは思う。思うのだが。

「なんか面白くねえ」

「あはは。ごめんね?」

「……お前が、案外性格悪いって事に気がついた」

「今更?」

「おい」

 へらへら笑う男を睨みつけると、足元に寝そべっていた大きな犬が深い溜息を漏らした。


 ――これは唸りたくなるのわかる。


 よくダウィにからかわれているタイの気持ちが理解できてしまい、肩を落とす。するとつま先の上を前足でぽんぽんと叩かれた。

 視線を交わすと、フアナのように言葉が聞こえるわけではないがなんとなく通じ合ったような気になる。

 慰めてくれてありがとうと頭を撫でる。

 タイは軽く鼻を鳴らして返事をしたようだった。


 ダウィはそんな一人と一匹の様子を気にするでもなく一度広げた紙束を元のようにそろえ、マイペースに話し出す。

「多分ね。これだけ色んな国を見に行けば、もう下地は出来てると思うんだ。だからこれからは細かい数字や年号も覚えてもらうよ。それに法律関係は殆ど手をつけてないからそっちの方がやっかいかな」

 明らかに面倒臭いその言葉に思わず表情が引きつる。

「大丈夫だよ。ここからはミダスまで船に乗って、そこからまた別の船に乗り換えてウォーゼルまで。一ヶ月かな。長ーい船旅の間、やる事は無いし時間もたーっぷりあるからさ。好きなだけ勉強できるよ」


 冷や汗を垂らしつつ、下を見るとタイが同情するように笑った――ような気がした。









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