約束の拳
ジアードは片眉だけを動かし、意外だと伝えた。
男がサザニア人である事がではなく、イーカル人であるエフィムがサザニア人と親しくしている事が。
「サザニア人は嫌いですよね」
ジアードの表情をじっと伺っていたエフィムは、やがて悲しげに目を伏せた。
「――辺境騎士団へ入るような方なら、もしかしたらと思ったんですが、そういう訳にもいきませんね」
少し考えてから問いかける。
「サザニア人が、友人なのか」
エフィムは控えめに、しかししっかりと頷いた。
「共通語が、話せなかったんです」
「ああ?」
「この国へ来る時に、共通語は勿論勉強してきたんです。でも、スラングなんかはさっぱりわからなくて、こちらの国の人たちに随分馬鹿にされました。
馬鹿にされてるって事は雰囲気でわかるんだけど、何言ってるのかわからないんですよね。ムカムカするけど、言い返しようもなくて下を向いていた時に、後ろで聞いていた彼が――さっきのサザニア人の彼がにっこり笑って言ったんです。イーカル語で『クズ野郎』って。
僕に絡んでいた人達が『今なんて言ったんだ』なんて彼に絡み出したんだけど、彼は『ちょっとそこを通して下さいって言っただけですよ』とか言って誤魔化して」
饒舌に語りだしたエフィムは、その時の事を思い出したのかおかしそうに笑った。
「後で聞いたら、彼の言った『クズ野郎』っていうのはイーカル語じゃなくてサザニア語だったらしいんです。普段敵対していて話す機会もないけれど、すぐ隣の国だけあって言葉が似てるんですね。話してみれば、他にも同じ意味でよく似た発音の言葉がいくつもありました。
そんな事が切欠で、共通語で苦労する者同士話すようになって」
「……抵抗は無かったのか」
「無かった――とは言えません。
それこそ『クズ野郎』事件以前は、お互い視界に入れないように避けていたくらいです。
僕の周りでもサザニアとの戦で亡くなったり腕を無くした人が居て、今でもサザニアを許せない気持ちは確かにあるし、彼もそうだと思います。
――でもなぜか、彼と過ごす時間は心地良くて。サザニアを憎んでも彼の事は憎めない」
「別物か」
「別物です。
三年後には、僕らはそれぞれの国に帰り、おそらく僕も彼も国の役人になるでしょう。戦も続くかもしれない。
それでも僕は彼にだけは刃を向けることが出来ないと思うんです」
ちらりと視線を上げてこちらをうかがった。
ジアードとしては感情を表情にのせていたつもりは無い。だが黙っていると不機嫌に取られがちな顔から勝手に憶測したのだろう。叱られた子犬のようにしゅんと縮こまった。
「イーカル人失格だと、思います。自分でも。
遠く離れた異国だからこその関係で、ここにいる間だけの仲だともわかっています。
だけどもう少し、国境も争いもないぬるま湯のようなこの場所で過ごしていたいと願ってしまう事があるんです」
すぼまった肩に舌打ちし、右手で髪の毛をかき回した。
「……俺はサザニアは嫌いだ」
丸まった背中がびくりと揺れたが、構わず続ける。
「見てわかるだろうが、こっちに来る前は軍人だった。俺の目の前で何人もの仲間がサザニア人に殺された。俺の体にもいくつも傷が残ってる。
だから正直、サザニア人と仲良くするあんたの気持ちはわかんねえ」
「――はい」
「でもな、俺はイーカルも嫌いなんだ」
エフィムが目をぱちくりさせるのを見て、唇の端に笑みを浮かべた。
「俺はヨシュア人で、俺の生まれた村は十二歳の時にイーカルに侵略された。親父も兄貴も殺された。
そん時に俺もひっとらえられて強制的にイーカル国軍に入れられたが――イーカル国軍は俺の家族の仇だ。最初は抵抗したし王都から逃げだそうとも思った」
思っただけで実行することはなかったけれど。
もしあそこに妙なカリスマ性を持った将軍がいなければ、もし彼が自分の存在をそこに留めてくれていなければこんな大陸の外れの国には来ていなかったのだと思うと不思議なものだ。
「軍もな。十年もいてみりゃ、同じ連隊に居た奴らは悪い奴ばかりじゃなかった。友人もできた。
十五年目なってようやく気づいた。俺が恨むべきは侵略を命じた国王であって、逆らう事が出来ずに従った軍人達は、内心納得できないものを感じながらもイーカル国軍にいる俺と変わらないんだってな」
ぽつりぽつりと、自分に言い聞かせるように話すジアードを、エフィムはじっと見つめていた。
「きっとサザニアっつー国もそうなんだろう。だから恨むべきは戦を命じたサザニアの皇帝だか貴族だかであってサザニア兵じゃない。
サザニア人と仲良くするあんたの気持ちはわからないし、紹介されたって俺には無理だが、あんたが友人を作る事が悪い事だとも思わない」
捨てられた子犬のように揺れていた瞳がじわり涙で歪んだ。
「ありがとうございます……」
自分の言葉に感極まったのか、頬を伝い落ちる雫を慌てて拭う様を目に映し、ジアードは再び右手で癖のある髪をかき回した。
「ヨシュア人から見た俺も、イーカル人から見たあんたも、変わらねえんだろうと思っただけだ」
エフィムが落ち着いたのを見計らって、口を開く。
「……あんたは、イーカルの王が変わった事は知ってるのか?」
擦りすぎたのか紅く腫れた瞼をぱちくりと動かし、エフィムは突然の話題変換の真意を問うように見上げた。
「去年の春ですよね。まだイーカルに住んでいました」
「新しい王は、第三王子だ」
「ええ。何度かお話する機会をいただいた事があります」
「へぇ? ああ。あんたも貴族かなんかか」
そういえばこんな異国の、それも大陸最高とまで言われる学問所に入れる学力が一朝一夕に身につく訳は無い。それに、丁寧な言葉遣いも、普通に振舞っているようでいて品を失わない仕草もそれなりの育ち方をした証拠ではないか。
普段と違う言語と異国の地という特殊な環境のせいで観察眼が鈍っていたようだ。
非礼を詫びるべきかと考え始めたあたりで、エフィムはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、父は王宮勤めのただの文官です」
「十分ご立派だ」
たとえ貴族でなくても、王宮に出入りできるなら「平民」じゃないと、漁師の息子は思うのだ。
貴族でなくて王宮に出入りできる文官となると限られてくる。神殿関係者という線もあり得なくはないが、今彼が異国の学問所に通っている事を考えると、その親は有力貴族のお気に入りの学者辺りが妥当だろうか。
「まあいい。話した事があるってなら、あいつがどういう奴か知ってんだろ」
エフィムは少し首を傾げるようにして考えながら答えた。
「前向きで芯の強い方ですね」
「ただの馬鹿だよ」
ジアードの言葉にエフィムはにこりと笑う。
その表情でジアードも悟った。
こいつも、知っている。
先王の時代には国王の言いなりの振りをし続けてきた『良い子の王子様』が決して外面通りの人物でない事を。
父の目の届かない場所では、幾重にも被った猫を脱ぎ捨て、興味の赴くままに異民族と杯を交わし、時に政治犯や過激な思想を持つ者とすら議論を重ねる彼のことを。
「――改革に励んでいらっしゃると聞いています」
改革じゃなくてクーデターじゃねえのと言う言葉は飲み込み、イーカル族の特徴でもある黒い瞳を覗き込む。
「ああ。だからよ。期待しても良いんじゃねえか?」
「え?」
「あいつは俺みたいな異民族の平軍人とも平気でしゃべるような馬鹿だ。
あんたがイーカルに戻った時に、説得すれば聞くかもしれねえ」
高度な政治的ななんちゃらとかいうのは知らない。長年の確執やら古い貴族の利権問題やなんかで、実際に戦を止めると言うのは難しいかもしれない。
だが、せっかく聞く耳を持つ王が立ったのだ。先王の時代なら斬り捨てられるような言葉でも、口に出す事が出来る。
嫌だと思うなら力の限りを尽くせば良い。
何もしないで後悔するのは、自分が死ぬ事より苦しいから。
「友達と殺し合いをしたくねえんだろ」
ジアードはにやりと唇の端だけで笑みを作ってみせた。
「――やっぱ似てるよなあ」
今まで黙って聞いていたダウィが呟く。
ぱちりと目を瞬かせ、二人同時に振り返った。
「は?」
「はい?」
片や訝しげに眉をひそめ、片や丸い目をさらに丸くさせて。
そんな二人を交互に見つめ、ダウィは一度頷いた。
「ジアードとエフィムは見た目も性格も逆だけど、どこか似てるんだよね。女の子のために国飛び出して来ちゃうあたりとか」
「手前、それはっ!」
ジアードはダウィに殴りかかる真似をした後、気まずげにエフィムを見た。
「あー……その、なんだ」
「……意外と、情熱的な方なんですね」
「……お互い様だろ」
ジアードにしてみればむしろエフィムの方が意外だ。
エフィムの話し方や体つきはなよなよとして見える。背が低いわけでも女のような顔をしているわけでもないのだが、どこをとっても『男らしさ』を感じないのだ。そのせいでそんな思い切りの良い事をするようには思えなかった。
しばし見つめ合い、先に視線を泳がせたのはジアードだった。
「恋人のために、この国へ?」
顔をのぞきこむ邪気のない視線に、うまく交わす言葉も思いつかなかった。
「いや、そういう関係じゃねえけどよ。――あんたこそ」
「僕も、そういう関係の人じゃないです。
それに僕はとっくに彼女の事を諦めてます。
国を出てここへ来たのも、彼女のためというより――義理とか探求欲とか、そういう物のためです。
帰国した時には彼女が誰か良い人を見つけて、子供でも抱いていたらいいと思うくらいで」
「ふうん」
――そんな風に割り切れるもんかね。
少なくとも、ジアードにはできそうになかった。
彼女が幸せであれば良いと思うのと同じくらい強く、他人の物になった彼女の姿など見たくないと思ってしまうのだ。
そんな微妙に食い違う二人の雰囲気を微笑ましげに見ていたダウィがふとエフィムに問うた。
「もう彼女の事は気にならないの?」
しばらく迷ったあと、それでもはっきりと、エフィムは頷いた。
「――はい」
「なんだ、ジアードなら彼女の近況を知ってるかもしれないのに」
ダウィの言葉にはたと時間が止まった。
「だってジアードは王都に居た元軍人だよ。で、エフィムは文官として王宮に仕えていたんでしょ。
っていうことは同じ街に住んでいたっていう事にならない? 共通の知り合いがいたり、噂くらい聞いてるかもしれないよ」
言われてみればその通り。
王都に十年以上住んでいた。いくら人付き合いの良い方でなくとも知人や顔見知りなんて数え切れないほどいる。その中にエフィムの想い人やその友人が居たとしてもおかしくはない。特にエフィムが王宮仕えの文官だったなら、「元職場」は同じ場所だ。
「彼女の近況……」
ジアードを見上げる黒い瞳がわずかに揺れた。
「まあ、俺は二人が知人かどうかはわからないし、可能性の話だけどね」
ダウィがいつもの笑顔で言った。
しばし迷う素振りを見せる彼を、ジアードは淡々とした目で見下ろしていた。
せっかく異国の地で出会った同胞だ。答えられることなら答えてやろうという気持ちはある。一方で知らない方が幸せな事だってあるだろうと冷めた思いを抱く部分もある。
だが、結局。聞く聞かないは彼が決めることだ。
ジアードは返事をせかす事もなくただじっと待つことにした。
やがてエフィムは吹っ切れたような表情で首を横に振った。
「……やめておきます」
そして、ふっきれたを通り過ぎ、何かを超越したような表情でエフィムは続ける。
「下手な事聞くと、彼女に再会した時にぶん殴られそうですから」
「ぶん殴……」
ジアードから見るとかなり上品な言葉遣いをする彼の口から、意外な言葉が出てきた。
何に驚いているのかわからないという顔でエフィムはこちらを見た。
「あんたがそういう言葉使うと思わなかった。殴る、とかな」
「彼女は僕とは少し住む世界が違う人なんです」
住む世界が違うとはどういう意味か。そして、男性を殴るような女性とはどんな人なのか。
王都に居た頃に聞くともなしに聞いた酒の席での話がふと脳裏を過ぎる。
「……ああ、そういうことか」
ジアードの中で色々な事に合点がいった。
「あんたが好きな女の名前、もしかしたら知ってるかもしれねえ」
「そうなんですか」
「あんたの噂も、多分少し聞いた事がある」
「ふにゃふにゃだとか根性なしだとか?」
「もう少し酷かったかもしれんが」
エフィムのいう「彼女」の近況もある程度は知っている。
少なくともジアードが国を出た時には子供はおろか結婚すらしていなかった事も。
だが、その話を彼は聞きたいだろうか。
しばし考えてジアードは軽く首を振った。
そうだ。知らない方が身の為だといっていたではないか。
「彼女」にぶん殴られるのは気の毒だ。
エフィムにもジアードの考えていた事が伝わったのだろう。口元にうっすらと笑みを浮かべ、楽しげに告げた。
「イーカルに戻ったら、答え合わせをしましょう。僕の言う『彼女』とあなたの思う『彼女』が一緒かどうか。
僕が卒業してからの話ですが」
「三年後だな」
「ええ」
二人は共犯者のような笑みを交わし、どちらからともなく挙げた手の甲を軽くぶつけ合う。
それはここから遠く離れたイーカル王国における約束の印だった。




