同郷の学士
『彼女』を初めて『見た』のは、薄暗い部屋だった。
カーテンの引かれた窓の側。彼女は、蝋燭の頼りない灯りを頬に受け、苦しげな表情を強張った笑顔で隠した。
言葉もなく立ち尽くしたためか、両脇を固めたメイドが威嚇するような目をこちらに向けた。ヘアブラシなんか構えても、武器になりようが無いのに。
「――――」
ジアードの名を呼ぶ声。
少女と呼ばれる頃をいくつか出たばかりという年齢にしては落ち着いた声。
しかしそれは、聞きなれた者しか気づかない程度だが、僅かに震えていた。
髪の先から爪の先まで磨き上げ、真新しい衣装に身を包んだ彼女。
綺麗だとか可愛いだとか、そんな事を言うべきだったのだろう。
だが彼女の心をほぐすような言葉など何一つ出てこなくて、視線を逸らした。
頭の中は沸騰しそうな程の熱を持ち、薄暗い感情と行き場の無い怒りとがぶつかり合っているというのに、不器用な表情筋はぴくりともせず、淡々と用意していた言葉を口にした。
それに彼女がなんと応えたのかは覚えていない。「それでいい」とか「任せる」とかそんな簡単な返事だったように思う。
殆ど働いていない脳みそに焼き付けられたのは、視線の先にあった新品のパンプスの小さな足と、最初に見た彼女のあの表情――
退出を促す言葉を口にしたのは彼女だったか、それとも他の誰かだったのか。その記憶もはっきりしないが、言われるままに部屋を後にした。
扉を閉める重苦しい音が反響して聞こえたのは、がらんとした長い廊下のせいか、それとも堂々巡りをする意識のせいか。
噛み締めた奥歯がギリリと鳴った。
全てを諦めた眼差し。
縋る事も頼る事もせず握り締められた拳。
何も出来ない自分。
幾度目かの角を曲がり、階段を下ろうとした時だ。
ああ。
上階から『光』が下りてきた。
技巧を凝らしたドレスを纏い、騎士や従者を侍らせた姫君が。
兵士として最上級の礼を取り、道を譲った。
絨毯の上を幾重にも重ねられたレースがカサカサと音を立てながら通り過ぎる。
この布の塊が、『光』か。
ならば吹き消される寸前の蝋燭の灯火の方が余程美しい。
空虚に笑い、目を閉じた。
笑った顔も喜ぶ顔もいくらでも知っているはずなのに、何一つ浮かばない。
ただ、つい数分前に見た『彼女』の――『初めて出会った時』と同じ、生を諦めた空ろな瞳が瞼に焼きついて離れなかった。
* * *
「さて、暇だね。俺たちはどうしようか?」
そう言ってダウィが小首を傾げたのは、三国学問所の校舎の入り口だった。
学長室があるというその建物にフアナが連れて行かれるのを先程見送ったばかりだ。そして彼女が依頼人と商品の受け渡しや書類のやり取りを終わらせるまで、半刻あまり。その間学内を自由に見学して良いと言われてはいるが――
「何か見たい物でもある?」
「何があるのかさっぱりわからん」
「図書館に資料館、実験農場……それともどこかの授業に潜り込む?」
「いいのかよ」
「良いんじゃない? 俺の頃はよく知らない奴が授業聞いてたりしたよ」
「――ん? 『俺の頃』?」
動きを止めてダウィを見やる。
なんでもない事のようにさらりと応えた。
「ああ。俺も一年ほどここに通ってた事があるから」
「……もう、お前が何言ってもおどろかねえ……」
本当にもう、何なんだこの男は。
変わり者だがただの傭兵だと信じていた、しばらく前までの自分を殴ってやりたい。
そんなジアードの心中を知ってか知らずかダウィはいつもの調子で
「そうだなあ。俺のお勧めは……」
「見つけた!」
「おー?」
どこかから聞こえてきた声に二人そろって首を巡らせる。
目の前の道の随分遠くの方から手を振って駆けて来る男が居た。
「エフィム!」
ダウィが男の名らしきものを呼ぶ。
男はさらにスピードを上げるが、そのフォームを見れば走りなれていないのは明らかだ。背も高くなければ肉付きも良い方とはいえず、細身でいかにも学者然とした容姿をしている。
息を切らせ、上気した頬でダウィを見上げる瞳の色は黒。同じ色の髪を男性としてはやや長めの長さで揃えている辺りも含め、軍人上がりのジアードなどから見るとどこか女々しい。
「ダウィ、さん、が、来てる、と聞いて、慌てて――」
荒い息遣いの合間に、切れ切れに言葉を発する。
普段より少し目じりの下がったダウィの表情から察せられるのはあれだ。昨晩のマヌの時と同じ「犬っぽい子が好き」とかいう。
「あはは。ありがとう。
実は後で君を探しに行こうかと思ってたんだ」
「僕を?」
「うん。彼を紹介したくて」
ひらりと手で示されて、黒い双眸がこちらに向けられる。
マヌが牧羊犬タイプだとしたら、目の前の彼は完全に愛玩犬タイプだななどと失礼な事を考えてしまう。
「最近辺境騎士団に入った新人なんだけどね。ジアードっていうんだ。君と同じイーカル人で、イーカル支部の設立メンバーになる予定」
「イーカルの人なんですか?!」
男が嬉しそうな声を上げる。目を瞬かせる様子など、上官に連れられて行った貴族の屋敷に居た小型犬に良く似ている。
「こんな所で同郷の人に会えるとは思わなかったです。
エフィム・ベノフです。よろしくお願いします」
「よろしく」
無愛想なジアードの挨拶にも、彼――エフィムは満面の笑みで応えた。
「エフィムはそろそろ専攻決める頃?」
ダウィが問う。
「はい。ヨーセフ師に就くことになりました」
「政治学か」
「師の部屋にも出入りさせていただけるようになったので、伝説の論文も読みましたよ」
「伝説の論文?」
エフィムは悪戯をしかけた子供のようににやりと笑った。
「貴方の書いた論文です」
「……俺、政治専攻じゃないよ?」
「必修の基礎政治学の試験答案です。覚えていますか? 『南ラシュマーン帝国の革命とオーチング主義に関して自分の考えを述べよ』っていう」
「あー……」
ダウィは眼を覆って溜息と共に言葉を吐き出した。
「あんなやっつけ論文まだ残ってたの」
「素晴らしい論文でした」
「あれ、評価は確か『可』だったでしょ」
「自分の考えを述べよっていう問題なのに一切自分の意見を書かずに『可』をもぎ取った所が凄いんです」
部外者のジアードには意味が判らない話だ。
ぼんやりと視線を彷徨わせていると、向こうから近づいてくる人影に気がついた。
ダウィより数段色の淡い金髪に、高い……というより、大きい鼻。
ジアードは僅かに眉を寄せる。
この距離でははっきりとはわからないが、瞳の色はおそらく青だろう。
それも、うっすら雲のかかったような、くすんだ空の色。
そいつは少し離れた場所から手を振りながら甲高い声で叫んだ。
「エフィムー。飯はー?」
呼ばれた本人はどうやら親しい間柄らしく、軽く右手をあげて応じる。
「先に行ってー」
気安い口調の返事に男は同じように手を上げて返し、来た道を戻っていった。
その背をじっと見つめるジアードに気づいたエフィムが、苦笑に似た表情を浮かべる。
「彼ね、サザニア人なんです」




