アニキの理由
「アニキは目玉を食べる派ですか? 食べない派ですか?」
――いや、食わねえだろ、普通。
フォークに突き刺した魚の目玉をうまそうにしゃぶるマヌに信じられないものを見たという視線を送る。
しかし、マヌは一向に意に介さない。
「好き嫌いが分かれるんスよねー。俺はこのプルプルしてる所が好きなんスけど」
他にマヌに勧められたのは骨髄とか背びれだとか。なかなか勇気のいる食卓だ。
この地域じゃ手に入りやすい魚のようだが、それでもその辺の部位は珍味であるらしく、周囲のテーブルからも時折好奇の視線が寄せられる。
「……俺はこの身の部分だけで十分だ」
兜焼きからは目を逸らしつつ、隣の皿に手を伸ばす。こちらは短冊状に切り分けた身をハーブで包んで揚げた物だ。やや塩気が強いがほっくりとした旨みの濃い白身が癖になる。
これで地酒の注がれた酒盃でもあれば完璧なのにと胸中で呟きつつ、薬草茶で満たされたマグに手を伸ばす。
ダウィには今日くらい呑んでも良いと言われたのだが、一応任務中だからと遠慮したのだ。
ちなみにそのダウィは「真面目だなあ」と苦笑して先程二階の客室に戻って行った。ついでに言えば、欠伸を漏らしながらフアナが階段を登っていったのも、その後をタイが忠犬よろしく追いかけて行ったのも随分前の事だ。
そして残されたのは、酒肴の並んだテーブルを挟んで向かい合うヤンチャそうな青年と人相の悪い男。
ここが宿屋の食堂でなく場末の酒屋だったら堅気の人間には見られなかっただろう。
「じゃあ。朝起きたら勉強して、師匠の世話をして、勉強して、師匠の世話して、勉強して、師匠の世話して、勉強して寝るのか」
「ま、まあそんな感じっス」
省略しすぎただろうかと首を傾げた。
先程の揚げた魚が無くなったので皿を隅に押しやり、代わりに端にあった野菜ソテーをテーブルの中央に寄せる。
「師匠の着替えを用意するだとか起こすだとか、炊事洗濯掃除に風呂の準備なんてのは、纏めれば『世話をする』じゃねえの?――ああ。こりゃ面白い食いもんだな」
水気が多くてくたっとした野菜。歯ごたえはなく、とろんとした舌触りが独特だ。
「そうなんスけど、なんか簡単そうに聞こえて釈然としないというかなんというか……――あ、それはエッグプラントっス」
「すげーなあとは思うなあ――エッグプラントか。名前まで変な野菜だな。皮は黒いのに中は白いし」
「何がっスか――切る前は卵みたいな形してるんス、その野菜。それは黒い皮っスけど、殆どのは色も白くて」
「労働の対価として講義を受けてるんだろ。――随分汁気が多い野菜だな。これ葉っぱか?」
「そうっスねー――そんな分厚い葉っぱある訳……ああ、そっか。サボテンとかと違うっスよ。食べるのは実っス」
「でもその、早朝だとか深夜の勉強っつーのは、あー……なんつったっけか」
「エッグプラントっス」
「そっちじゃねえ。師匠が居ない所で鍛錬……じゃねえ、勉強するっつー」
「自習とか自主学習とかって奴っスか?」
「それだ。自習。自習なんだろ」
「っス」
「それがすげえと思ったんだ」
酔っ払いの会話のように話が拗れてきたところで、ジアードはエッグプラントのソテーをマヌの前に押しやり、足を組みなおした。
ふーっと深く息を吐き、天井をぼんやりと眺める。木製の梁が煤だか脂だかでエッグプラントの皮と同じ色に変色していた。
「俺は勉強なんざまともにしてこなかったんだよなあ。
子供の頃に学校で読み書きを習ったが、要領が良いほうだったんで教師の話聞いてりゃ覚えられた。家で勉強なんてしなくてもずっと次席が取れてたんだよ。まあ田舎の小さな学校の話だけどな」
ふと脳裏に浮かんだのは主席を取り続けた幼馴染の顔。
王都から来た医者の息子で、元々優秀な上にガリ勉だった。成績で勝てた事は無かったが、腕っ節では常にこちらが圧勝だったから互いに尊重しあってずっと親友であり続けられた。
国を出ると報告した時の間抜けな表情を思い出して、ふっと口元が緩む。
マヌが珍しい物を見たように目をぱちくりさせるものだから、すぐに口をへの字にしてしまったが。
「だからなあ。『自習』ってした事ねえんだ」
「うーん……俺も自習はするけど、その、自主鍛錬?っていうのはしたことないっスよ。
ただ、軍人なら仕事の為に体を鍛えるもんだし、職人なら仕事のために技術を磨く――ってのは当たり前なんじゃないっスかね。だから、俺が将来の仕事のために勉強をするのも当たり前って思うっス」
「お前、将来は学者になんのか」
「そう思っていたんスけど、今は政治も面白そうだし、迷ってるっス。ここの学問所を卒業すれば、平民が議員になるのも夢じゃないっスから。――ジアードさんは?」
「あー……将来……将来なぁ」
しばし口を閉じて考える。
半年後に再試験を受け、受かったら正式に辺境騎士団に入団する。
――それから?
そのうちイーカル支部が出来ればそこに移る事になるんだろう。
最初はその為の仕組みや何かを作って軌道に乗せるのが役割で――そんなダウィから聞かされた事をつらつらと口にすると、マヌは「堅実っスねぇ」と笑う。
「馬鹿野郎。堅実な奴が故郷を飛び出して知り合いも居ねえ国に来たりしねえだろ」
「そういや、なんで遥々こっちに来たんスか」
何気ない質問に、しばし考えてから答えた。
「……辺境騎士団に入りたくて、だな」
「それもう叶ったっスよね。じゃあ次の目標ってヤツ――あ、ジアードさん、これどうぞ」
葉野菜の上に白っぽい野菜の乗ったサラダだ。言われるままにその白い物をカリッと齧る。
「いや、正式な入団にはまだ試験が残ってんだ。書く方な。
で、結局。勉強ってどうやったら良いんだろうってとこに戻んだよ。まずどっから手つけて良いかってとこでな――なんだこれ」
「取っ掛かりがわからないって事っスか――ええと、ラディッシュっス。婆ちゃんが生で食うとイライラが収まるって言ってたッスよ」
話しながらマヌもそれにフォークを伸ばした。
強い匂いも味も無いのに、不思議と頬の内側に纏わり着いていた脂がすっきりと消える。
「ああ。さっぱりだ――効くのか?」
「そうだ。先輩とかに相談してみたらどうっスか――民間療法とかおまじないの類かもしれないッス」
「なるほどなぁ――うん。さっぱりするな」
「ああ、そういう理由かもしれないっスね」
二つの会話を平行しているうちに、互いにどちらに返事をしているのかわからなくなり、二人は顔を見合わせてふきだした。
「ふはっ! 『さっぱり』って、俺さっきも言ったよな」
「くっ、くははははっ! アニキ、面白い! こういう遊び結構好きっス!」
「あー。お前、さすがに頭良いな。もう着いていけねえ」
「アニ――じゃない、ジアードさんだって」
「いいよ」
「はい?」
「アニキでいいっつったんだ」
ぽかんと口を半分開けて、マヌが目を丸くする。
「なんだよ、お前さっきもそう呼んでたじゃねえか」
ぐいぐいと距離を縮められるのは得意じゃないが、こいつの事は嫌いじゃない。
マヌが聞いたら喜びそうな事だが、あえて言葉にはせず、口の端だけで笑って見せた。
「アニキ!」
「……んだよ」
十数年ぶりにそう呼ばれるのはどこか照れくさい。
わざと面倒くさそうな顔を作って傍らですっかり冷めてしまった薬草茶に手を伸ばす。
酒じゃないのがどうにも締まらない。
「あ、そうだ、アニキ!
さっき一緒に居た、ダウィさんって人はアニキの先輩なんスよね? その人に勉強法や要点を聞いてみたらどうっスか? 俺も先輩に頼ってますよ。過去問とか」
「……その、過去問ってのはなんだ」
「去年とか一昨年の試験の問題っス。問題の形式とか傾向とかが分かるっス」
「そんな手もあるのか」
ジアードは素直に関心する。頭の良い奴は要領も良いんだなと。
なにせ真面目に試験を受けようだなんて考えたのはこれが初めてだったものだから、そう言う物の存在すら知らなかったのだ。
「ああ……むかねえなあ。勉強っつーのは」
面倒くせえと思わずぼやき、右手で頭をかき回した。
そんな時、ぽりぽりとラディッシュを齧りながらマヌがぽつりぽつりと口を開いた。
「……俺は昔っから勉強が楽しくて仕方が無いガキだったんでそういう気持ちはよくわかんないっスけど。
ヤな事やる時はどうしてそれをやんなきゃいけないか考えるようにしてるっス。
んー……例えば、先月引越しの手続きが面倒臭いと思った時は、憧れのロトガスでより良い環境で勉強するためなんだ、とか。目的が前向きなら、ヤな事もやる気になるっていうか――あはは。何か偉そうっスね。若輩者なのに」
「――んな事に年齢なんて関係ねえだろ」
そう呟いて、マヌを真似てラディッシュに手を伸ばす。
前歯にひっかけるようにして齧るとカリッと軽い音がした。
「そうだな……なんでやらなきゃいけないか、か……」
小さく呟き目を閉じる。
――なんで、騎士になろうと思ったのか。
答えはシンプルだ。
――『彼女』のため。
もう、あんな顔をさせないために。




