出港の汽笛
ジアードが入団試験を受けた次の日の早朝。
まだ数人しか出勤してきていない事務室で、ダウィは分厚いファイルの一番上にジアードの試験結果を挟み込んだ。
その様子を見ていた同僚が声をかけて来る。
「例のイーカル人? どうだった?」
「実技が274点。筆記が28点」
「それ何点満点?」
「300点づつ」
「……ある意味すごいわ」
「筆記は10点取れるかどうかと思ってたから、頑張った方だとおもうよ?」
ダウィは筆記試験の答案に目を通しながらフォローの言葉を口にする。
「イーカルは義務教育がないから、字の読み書きも出来ない人がいっぱいいるんだ。
――戦術論と大陸中部の地理や気候の問題以外解答欄真っ白だね」
「偏ってるなー」
「実技で点数を稼いで合計302点。合格最低ラインギリギリだから、半年後までに合計450点にしないとクビだってさ」
「まあ要するに座学だろ? お前の専門じゃねえか」
そういって、普段から本を手放さないダウィを揶揄する。
「500点は取れるように叩き込むつもりだけどねー」
ダウィは手元のファイルをぱらぱらとめくった。
「なんだ。偉そうな事言う割に、エンシオも入団試験は実技180点に筆記233点じゃないか。よく受かったね」
「手前、何見てやがるっ!」
「はいはい。しまっておく、しまっておく」
ファイルを奪い取ろうとする同僚――エンシオの手を振り払い、ダウィはファイルを棚に戻して鍵をかけた。
その背中にエンシオが言葉を投げかける。
「俺で180点って事はさ、あいつの……ええと、274点だっけか? それってもしかして凄い?」
「うん。次はもっと点数伸びるだろうしね」
ダウィは飲みかけだったらしいティーカップを引き寄せながら続ける。今日のカップは淡い花柄。ちなみにエンシオの机に乗っているのはひよこが花畑で戯れる絵柄だった。
「点数が伸びるってなんだよ?」
「試験の時に使う練習用の武器ってあるでしょ」
「ああ。刃を潰した剣とか木槍とかな」
「そうそれ。この辺りで使われているような剣ならだいたいの種類のものを揃えているんだけど、急な事で今回はイーカル王国で使われている武器を用意できなかったんだ。剣は似たような形のを見繕ったんだけど、バックラーが無くて普通の盾でやってもらったんだよね。でも、半年後の再試験までにはイーカル流の装備を用意するから、きっと点数は跳ね上がるだろうって」
「バックラーだって盾だろ? そんなに違うもんか?」
「イーカル王国の――多分南部地域の物なんだと思うんだけど、普通より小型でスパイクがついてるんだ。攻撃を受けるだけじゃなくて、武器にもなるようなの」
「へー」
「多分持ってきてるから後で見せてもらえば? 俺、前にそれでサザニア兵の鎧をぶっ壊すのを見た事があるよ」
「うげ」
エンシオは気持ち悪いものでも見たような顔をした。
「そんな鎧破壊の防具なんて、そのまま試験に使わせられないでしょ。もう防具って言うより武器だしさ。
それとも君が相手する?」
「――ごめんこうむる」
心から嫌そうな顔をした。
「残念な事に半年後の試験じゃ君は参加できないだろうけどね」
「ああ、半年後ってそういう意味か」
納得したように呟いて、ダウィの方へ体の向きを変えた。
「で、その270点の鎧破壊君はどういう経歴なの?」
「気になってきた?」
ダウィは楽しげに聞いた。
「君と同じ軍人上がりだよ。
ちょっと変わってるのは、近接戦闘専門の部隊に居た事くらいかな」
「それが珍しいのか?」
「イーカル王国は騎馬民族であるイーカル族が周辺民族を制圧して作った国だからね。軍は騎兵が中心なんだ。むしろ正規兵に関してはそれしかないと言っていいくらい。だから――あ、着替え終わった?」
ダウィにつられるようにエンシオが更衣室の扉に目をやると、ちょうどジアードが出てくる所だった。
「こういうのは初めてなんだが、これであってるのか?」
着心地が悪そうに腕を回したり襟元をひっぱったりする。糊の利いた黒いコートに同色のズボンとネクタイ。辺境騎士団の制服は、大陸北東部の国の軍服をベースに作られているため、大陸中央部出身のジアードには着慣れない形の服だった。
だが、体格の良いジアードが着るととても映える。ダウィは感心したように唸った。
ただひとつの問題は……
「髪がねー」
「ああ。そういや伸びっぱなしだったな」
ジアードはようやくそのことを思い出し、括れるほどの長さになった後ろ髪に触れた。
「ここの三軒向こうに床屋があるから後で行って来るといいよ」
俺はいつもそこで切っているんだ、なんて話しながら、ダウィが手際よく裾や襟ぐりを確認していった。
「サイズは良さそうだね」
「少し動きづらい」
「じきに慣れるよ。
っていっても、これからしばらく私服勤務になるんだけどね」
ダウィはエンシオを指差して言った。
「今こいつと仕事変わってもらったから、明日からちょっと旅にでるよ」
* * *
「おはよう、ジアード」
ダウィはいつもの爽やかな笑顔で、騎士団本部に現れた彼を迎えた。
「なあ、そのジアードっていうのやめねえ? 呼ばれなれてないから自分の事だって気がしねえ」
「慣れるしかないね。団長がこの名前気に入っちゃったから」
あの日、応接室でジアードに試験の申込書を渡した壮年の男は、辺境騎士団の団長だったのだ。その偉い人がその場に居た者に「ジアード」と紹介してしまったから、もう誰もが彼を「ジアード」と呼ぶ。その度に彼は尻のむずがゆくなるような気分を味わうのだった。
「別にどこにでもいる名前じゃねえか」
「大陸中央部じゃそうかもしれないけど、こっちじゃ珍しいんだ。
感謝しなよ。その名前のおかげで追試のチャンスを貰ったような物なんだからさ」
釈然としなくて、ジアードは髪をかき回した。昨日数ヶ月ぶりに短く刈った髪は、まだちくちくとささるような気がする。
そもそも試験を受けさせて貰えたのも、彼がイーカル人だったからというちょっと微妙な理由だった。
実は、ずっと鎖国を続けていたイーカル王国が、他国との国交正常化政策の一環としてこの辺境騎士団への加盟を申し出ていたのだ。加盟が認められればイーカル語を話せる人員が必要となる。だからジアードは試験を受ける事ができた。
もしジアードがイーカル人で無ければ試験も受けさせてもらえなかったかもしれない。その上、点数が悪かったにも拘らず「イーカル人だから」見習いという扱いと追試のチャンスが与えられた――そこにジアードの実力は殆ど存在していない。なんとも座りの悪い話である。
「その内慣れるよ」
ダウィは慰めるようにジアードの肩を叩き、部屋の奥で丸くなっていた愛犬を呼び寄せた。
「お、もう行くのか?」
荷物を背負ったところで声をかけて来たのはちょうど出勤してきたエンシオだった。
飼い犬にも荷物を背負わせながらダウィが応える。
「船の時間もあるし、その前に鍛冶屋に寄らないといけないからね。君こそ今日は早いね」
「一応仕事を代わってもらった身としては見送りくらいな。
それに、先方には昨日のうちにお前と代わった事を伝えておいたんだけど――」
「面識あるし問題ないでしょ」
「いや、それがな」
エンシオはちょっと困ったような顔をした。
「あの婆さん、体調がすぐれないとかで、代わりに孫娘を連れて行けってさ」
「おー?」
「待ち合わせの時間と場所はそのままで良いって言ってたから、まあ、気をつけていけよ」
「ありがとう」
「ジアードもな」
エンシオは二人の肩を叩き、ついでに駆け寄ってきた白い犬の頭を撫でて事務室へと入って行った。
「じゃあ、行こうか」
* * *
大陸中央部と海とを結ぶ交通の要所であり、そこを行きかう商人達によって発展した商業の国、ウォーゼル。
その中心都市は大陸各地の商品を扱う店が軒を連ね、まだ日が昇ったばかりだというのに仕事の準備をする威勢の良い声が飛び交っていた。
「すげーな」
左右の店先に並んだ箱に書かれた文字は共通語ばかりではなく、色彩からも異国情緒を感じさせる品物が多い。
きょろきょろとするジアードに気を使っているのか、歩くペースを緩めながらダウィも口を開いた。
「朝から仕事熱心な人が多いよね、この街は。
そうそう。仕事といえばさ、騎士の仕事は色々あるでしょ。何が思い浮かぶ?」
「治安維持・警備・国際犯罪の摘発――」
初日に団長から聞かされた話を思い返しながら指を折る。
「確かにこの国ではそういう仕事が多いね」
ダウィは頷いた。
「じゃあ、イーカルではどうだろう。
イーカルに辺境騎士団が入る事にななれば、まずは君が行く事になるでしょ。そこは例え君の故郷であろうと、辺境騎士団に対する理解という地盤が出来ている他国とは勝手が違う。いきなり同じような仕事が出来る訳はないよね。
それなら、君に求められるのはなんだろう?」
ジアードは空を仰いだ。
「地盤……を作る事か?」
「そうだね。
最初のうちは、地道な捜査なんかはイーカルのそういう組織に任せればいい。
向こうも突然流れ込んできた奴に口を出されるのは嫌だろうし、向こうの邪魔をして関係を悪化させる事の方が問題だ。
最初は我々に何ができるのかを提示しつつ、彼らに認められるようになる事」
「……それはそうだな」
「そして開国したばかりのあの国が辺境騎士に――君に一番求めるのはコネクションだ」
ダウィはそこで言葉を切り、ジアードの表情を伺った。
「イーカルだと、大規模な犯罪の捜査をする組織は軍になるのかな?
その軍の上層部は、きっと他国から流れ込んで来る犯罪者や他国へ逃げ出した犯罪者を取り締まるために辺境騎士団を利用したいと考えるだろ。
その時に他の国際的な組織との仲介者になって、問題を解決し、そこから得た信頼でイーカルの各組織と辺境騎士団の協力体制を――ひいては、イーカルと大陸中の各組織との協力体制を作り出す。
それが君の最初の仕事」
大きな課題にジアードは眉頭を押さえて眉を寄せた。
「コネクションに協力体制……か」
「一年しか時間がないからね。俺はその事だけを君に教えるつもりだよ。
勿論、勉強もだけど」
ダウィは鞄から取り出した本のようなものをジアードの手に押し付けた。
「とりあえずこれね」
受け取ったそれをぱらぱらとめくってはみたが何も書かれていないようだった。
「共通語の読み書きが苦手なんだろ? だから宿題だよ。これから毎日、これに共通語で日記を書くこと」
「日記?」
ジアードの頭にまず浮かんだのは軍の日報だった。ああいう物で良いんだろうか。
「後で俺がスペルのチェックをするから、旅先で見たもの聞いたものを箇条書きするくらいで十分だよ。
心情とかを書いても良いけど恥ずかしいだろうしね」
「……わかった」
「ジアード、見て」
川に面した公園に巨大な像が建っていた。
ジアードと変わらないくらいの年だろうか。銅像にされるにはやや若い男の像だ。辺境騎士団の制服とどこか似ている軍服のような服を着て、細身の剣を捧げ持っている。
「あれは三百年前のウォーゼル王ラズ・ゲットルだよ。
一度はイーカルに奪われたこの国を取り返した事で知られてる。だからこの像もイーカルに睨みを利かせるように、公園の中心部じゃなくて西を向いて立てられたんだ」
「へえー。奪ったり奪われたり忙しいもんだな」
最近までそのイーカル国軍に属していたはずのジアードはまるで他人事のように言った。
「ここは交通の要所で、その上貴重な穀倉地帯だからね。昔から周辺国との争いが絶えないんだ。
ほら、去年イーカルで国王が暗殺されて一時的にイーカルの国境警備が厳しくなった事があっただろ?
その時も、国境地域にいきなり兵が増えたものだから、この国の人達はイーカルが攻め込んで来るのかって戦々恐々としてたんだ」
「前王ならともかく、今の王はやらねえだろ」
「君達はそう思っていても、彼を知らないこの国の人たちはそうは思わない」
「難しいもんだな」
ダウィは肩をすくめて見せた。
「で、この銅像の王様なんだけどね。剣を持ってるでしょ」
指差したのは銅像が捧げ持つ細身の剣だった。
「あれはね、『抜かれなくなった剣』といわれてる。
彼がイーカルからこの国を奪い返した後、『私はもう剣を抜かない。私の役目は剣を腹に収め、共に戦った者たちに恥じない戦いをする事だ。――祖国ウォーゼルの為に』と誓ったのを象徴してるんだ」
要は建国宣言とか即位式の宣誓とかそんなものだろうか。
曖昧に頷くジアードを見てダウィは話を切り上げる事にしたらしい。
「実際にラズ・ゲットルは剣の使い手で、あれも彼の愛剣をモチーフにしてる。銘は【萌花】っていうんだ」
纏めるようにそう言うと、先に立って歩き出した。
「じゃあ、あの剣を作った工房に行こうか」
ジアードの認識でいうと、そこは武器屋。
はて、工房と聞いたはずだがと首を傾げながら店内を見回した。
壁にずらり並んだ剣や槍。中央には防具の類。箱に入った鏃の山に、完成した矢も置いてあった。どう見ても武器屋だ。
ダウィは慣れた様子で店員と挨拶を交わし店を抜け、店の奥へと入って行った。ジアードもその後を追いかける。くぐり戸を抜けると途端にむっとした熱気に襲われた。
本当に工房であるらしい。
鉱石を溶かす窯らしきものや、鉄を打つ槌などが見える。
「こんにちは」
ダウィの声に応じて出てきたのは、小さな……本当に子供のように小さな男。
「おお、久しぶり。久しぶりだな」
中年男性の顔をした子供が笑顔でちょこちょこと駆け寄って来る。
ジアードの脳裏を過ぎったのは幼い頃に聞かされた昔話の小人。
その小人がダウィに抱きつくそぶりを見せると、ダウィは子供をあやす時のように彼を高く持ち上げた。
「やめろ! 離せ! 高いぞ! 高い!!!」
ようやく地面に降りると、ダウィを睨んだ。
「またでかくなったな。でかすぎだ」
「さすがにもう伸びてないよ」
まだ何か続けようとする男の背をダウィの飼い犬が鼻面でつついた。
「お前も居たのか。居るよな。久しぶりだな。お前も大きくなったか。なったな」
犬とその頭を撫でる男の目の高さは同じくらいだった。
ぽかんと見つめるジアードの前で小人男は独特の話し方でダウィに話しかける。
「今日はどうした。前のが駄目になったか? 錆びたか? 欠けたか?」
「違うよ。新人を連れてきたんだ」
ダウィがジアードを指差すと、男はちょこちょこと駆け寄って背伸びするように顔を覗き込んだ。
「でっかいな。とにかくでかい。熊みたいだ。お前さんはヨシュア人か?」
「よくわかりますね。ヨシュア人です。国籍はイーカルですが」
「わかる。わかるさ。ヨシュアは俺たちの先祖がいた土地だ。いいとこだ。
ああ。北のほうがイーカルに取られたっつってたな。その辺か」
「はい」
「苦労したんだろ――まあ、そこ座んな。座るといい」
示されたのはジアードの体格には低すぎる椅子。これまた低い作業机の前に四つばかり並べられていた。子供用かと思ったあと、小人の体格に合わせてあるのだと納得した。ジアードが座ったら壊れそうだ。だが、先に座ったダウィが手招きするのでおそるおそる腰をおろした。尻を乗せるところは小さいが、意外にも座り心地は良い。
その間に小さな男はポットから作り置きらしいお茶を注ぎ、二人の前に並べてくれる。コップは普通の大きさだった。
「ダウィの事だから余計な事ばっかりくっちゃべって肝心な事ぁ何も言ってないんだろう。こいつはいつもそうだ。
よくしゃべる癖に大切な事ぁ言わない。しゃべるのは仕方ないが伝える事は伝えないといけない。それが俺たちのポリシーだ。
こいつは中途半端でいけない。
なんの話だったか。そうだ。ウチはここで四百年以上剣を作ってる工房だ。どんな剣だって作れる。騎士達の剣も俺が作ってる。柄の所に騎士の紋章が彫ってあってな、身分証明にもなる有難い剣って訳さ。それに何でも切れる」
「はあ……」
話にまったくついていけないジアードにダウィが補足した。
「君の分の剣を作るって話をしてるんだよ。ああ。お金は騎士団から出るから大丈夫」
「それで、ヨシュア人。ヨシュア人ってことは、お前さんも両刃のこんぐらいの長さの剣を使うんだろ」
男は両手を広げて見せた。
「そんなもんかな……」
縮尺の小さな男ではいまいちサイズがわからない。
ジアードは腰の剣を外して机に置いた。
「今使っているのがこれです」
小さな男はそれを両手で持ち上げ、一瞬バランスを崩す。
「こりゃ重てぇな。なんだこれ。こんなの振り回してるのか? 片手で? 熊か。熊だな本当に。
こりゃダウィ以来の面倒な騎士だ」
剣を抜き、しばらく持ち上げたり叩いたり撫でたりする。
「うん。覚えた。完璧だ。
これと同じのをつくりゃ良いんだな。熊、じゃない、ヨシュア人。なんか希望はあるか? もっと軽くしたいとか。軽くするか?」
「いや……これがちょうど良い、です」
ジアードが返された剣を再び腰に下げる間に男は紙になにやら沢山の数字を書き付けていた。
「次来る時までに作っておくよ。三ヶ月だな。三ヶ月かかるがいいか?」
問われても突然連れて来られた身にはよくわからなかったのでダウィに助けを求めると、ダウィは笑顔で頷いた。
「お任せします」
「そんじゃ、それまでの間これでも持っていきな」
取り出したのは短剣。柄に辺境騎士団の紋章が彫ってある。
「そんな荷物ばっかじゃ長い剣渡すのも悪いしな。長い方がよかったか?」
「いえ、ありがとうございます」
ジアードがそれを鞄に差すのを見ながら、小さな男は満面の笑みを浮かべた。
「まあ、頑張ってくれや」
二人と一匹は店を出て川沿いの広場を歩いていた。最初に案内された銅像のある広場だ。
「あのおっさん、小さかったな」
ジアードが気になるのはやはりそれだった。
「あれも小人っつーのか?」
「小人っていうのは自分よりも小さい種族をさす言葉だからね。小人だとかなんだとかっていうのは個人個人が決める事だよ」
なんだか小難しい事を言っていてよくわからない。ただ、あの男を「小人」と表現するのはあまり好ましくないようだ。
ジアードは言葉を選びながら言いなおした。
「人間以外の種族ってのを初めて見たんだ。あれはなんていう種族なんだ」
「彼らは地人っていうんだよ。大昔、大地の女神が創りたもうた古い民。
思ったことをすぐ口にしちゃう癖はあるけど、絶対に嘘をつかないし仲間を裏切らない――良い奴らだよ」
ダウィは川沿いに建てられた白い建物の前で足を止めた。
「ここで依頼人と待ち合わせ」
ジアードは入り口に掛けられた看板の文字を一音ずつ読み上げる。
「……ふ…な……ちげぇな。ふ……ふね……のり、ば?」
更にその先にも大陸共通語で説明が書かれている。慣れない文字に悪戦苦闘しながら読み進めると行き先や料金らしい。
「乗合馬車みたいなもんだな」
「うん――ああ、多分彼女だ」
看板の文字と格闘するジアードを置いて、ダウィはまっすぐにロビーの椅子に座っている旅装束の娘の元へと向かった。
「ソユーのお孫さん?」
顔を上げたのは、十六、七才の少女。まん丸な目をきょろきょろ動かしダウィと背後の犬とを見比べた。
「はい。フアナです。よろしくお願いします」
「辺境騎士団のダウィ・C・クライッドです。あれはジアード」
そう言ってダウィは手の甲を返して見せた。中指に銀色の指輪。辺境騎士団の証だ。走って追いかけて来たジアードも慌ててそれにならった。
少女はもう一度名前を名乗ってにっこりと笑う。
――この娘がこれから一緒に旅をする護衛対象。
ジアードは首をひねった。
この国の事情は分らないが、ジアードの感覚で言うと彼女は成人を向かえたばかりという年。細い体にはまったくと言って良いほど筋肉はついておらず、武器らしき物も持っていない。ごくごく普通の少女だ。とてもじゃないが旅慣れているようには見えないし、万が一の時に身を守れるようにも見えない。身を守れないから護衛を雇ったといわれてしまえばそれまでなのだが、どこにでもいる町娘のような彼女に旅をする理由もあるとも思えなかった。
ジアードが疑問を口にするより早く、ダウィが少女へ話しかける。
「ローラクまでお送りすると言う事ですが」
「はい。ローラクのウクバの森まで」
「荷物はそれだけ?」
指差されたのは、足元に置かれた大きめの肩掛け鞄と、大事そうに抱えられたリュックサック。
「そうです。大きい方が着替えとかで、こっちが例の」
「これを運ぶのが今回のお仕事ですね。危ないものですか?」
「わかりません……けど、祖母が私に任せるといったくらいだから多分大丈夫じゃないかと」
「ならよかった。
じゃあ、船の時間もあるし、とりあえず船にのってそこで話をしましょうか」
「すげえな」
デッキに立って周囲を見渡していると、背後からダウィが声を掛けてきた。
「船は初めて?」
「いや、漁船ならある」
振り返れば、すでにジアード以外の二人はデッキに設置されたテーブルに荷物を置き、椅子に座ろうとしている所だった。
「砂漠だらけのイーカル人にしては珍しいね」
「田舎はジットアー湖沿いの漁村だからな。でもこんな大きな船は見た事がない」
「後で船の仕組みを教えてあげるよ。
まずはこれからの予定を立てようか」
ジアードが席に着くと、まず少女がが背筋を伸ばして口を開いた。
「改めて、『運び屋』のフアナです。よろしくお願いします」
「運び屋……?」
その響きには悪いイメージしかない。眉をしかめるジアードを見てダウィが笑った。
「麻薬とかの非合法な物じゃないよ」
「今回は本を一冊、ローラクまで運ぶのがお仕事です。お二人にはその護衛をお願いします。
本当は祖母が行くはずだったんですけど、昨日になって急に体調を崩しちゃって……」
そう言いながら少女は鞄から地図を取り出し、机の上に広げた。
「ルートは、ウォーゼルからこの川沿いにウルス=フィリアに下って、そこから砂漠を越えて……」
「……こっちにも砂漠があるんだな」
ジアードの独り言にダウィが答えた。
「イーカルからの旅装備なら問題ないと思うよ。途中に休める場所もあるし、イーカルの砂漠よりは断然楽」
「休める場所、あるんですね」
驚いたように口を挟んだのはフアナ。
「実は砂漠超えは小さい頃に一度しか経験していないのでちょっと不安なんです」
「ああ、俺は道わかるから大丈夫だよ。水場や集落がいくつかあるから、そこを辿っていけば良い」
「良かった。砂漠の中のルートはダウィさんにお任せします。
ええと、それで、ここからローラク国に入って、まっすぐ北上してウクバの森へ。ここが目的地です。
祖母の足で往復三ヶ月と言っていましたから、私ならもう少し早く着くかもしれないです」
「俺とこいつは体力あるから君のペースに合わせるけど、長旅だから無理しないでね」
「はい」
「とりあえず、今晩はこのまま船で寝て、明日の夜は砂漠の手前の街で一泊――ってことになるかな?」
「はい。明後日の朝、荷物をそろえて砂漠に入りましょう」
「ジアード、質問は?」
「……何がなんだかさっぱり」
「まあ、そうだろうね。
とりあえず船を下りるまではゆっくりしてるといいよ」
地図を足元の鞄にしまうため屈み込んだフアナは、甲板に寝そべる犬と目があった。
「…………」
「どうしたの?」
黙って見詰め合う犬と少女に気づき、飼い主が不思議そうに尋ねる。
「この子、変わった犬ですね。名前は――タイっていうんですか?」
「うん。兄弟の中で三番目に生まれたから、古代語で『三』を意味する『タイ』」
それを聞いてパッと顔を上げたフアナの目は、何やら興奮した様子で輝いていた。
「今! 今、この子が名前を教えてくれたんです!
私、動物の言葉はわからないので、たいてい『嬉しい』とか『悲しい』とか『お腹空いた』しか伝わって来ないんですけど、この子の言葉はちゃんと『聞こえ』ます!」
「魔力の強い犬なんだってさ」
ダウィはタイの頭を撫でた。確かに賢くて人間の言葉を理解しているようなそぶりを見せる事がある犬だが、特殊な犬だったのだろうか。
「こんな犬を連れて――ダウィさんも魔術師なんですか?」
「いいや、俺はまったく」
「ちょっと試していいですか?」
フアナはダウィの両手を握った。
「うわ、何これ! ちゃんと生きてます? 死体の方がよっぽど――」
「酷いなそれも」
苦笑するダウィと対照的に、フアナは興奮したような口調で続けた。
「底なし沼にずぶずぶ手を突っ込んだみたいな気になりますよ。
あ!もしかして!」
何かに気づいたように顔をあげ、ダウィの顔を覗き込んでいった。
「あなたが、ザルの方がマシな虫ケラ以下の?!」
いつも笑みを浮かべているダウィも今回ばかりは嫌そうな顔をした。
「……誰がそんなこと言ったんだ」
「祖母が……あの、すみません」
頭を下げるフアナをみて、ダウィは思い出したようにぎこちない笑顔を作った。
「魔術師達には嫌われてる自覚があるから、フアナちゃんは謝らなくていいよ」
「嫌われてるんですか?」
「まあちょっとね」
ダウィはごまかし、話を変えた。
「ジアードは魔力ってわかる?」
「魔術師が使う力だろ」
見た事は無いが、御伽噺の中で聞いた事がある言葉だった。
大雑把な認識にダウィはようやくいつもの笑顔に戻って話始めた。
「まあ、だいたいそんな所かな。
魔術師が魔術を使う時の力で、魔術師は生まれた時から持ってる。
それだけじゃなくて、世界中のそこかしこに溢れているし、生き物は皆ほんの少しはそういう力を持っているらしいんだ」
「俺にも?」
「勿論」
ダウィが頷くと、フアナが立ち上がった。
「やってみます?」
女の子らしい小さくほっそりとした手がジアードの手に触れる。右手で左手を、左手で右手を、それぞれ包むように。
「なにを――?!」
「じっとしてて――左手から魔力を流します。いきますよ」
なにか暖かい塊がフアナの触れる左手から入ってくるのを感じる。
それは腕を這い上がり、背中を通り、反対の腕へ……右の手のひらで少し留まってから、フアナの左手に吸い込まれるように出て行った。
「なんか、目に見えない生き物みたいなのが、ぞわぞわっと入ってきたぞ?!」
「それが、魔力です。
本来は魔術師同士で訓練に使う方法なんですけど、こうすると、相手に注ぎ込んだ魔力が相手の生来持っている魔力に干渉されて、増幅されたり減衰したりするんです。
その加減でこれで相手に魔術の素質があるかどうかを調べる事もできます。
ジアードさんの場合、注ぎ込んだ魔力より戻ってきた魔力の方がほんの少し少なかった程度の変化で、魔術師になるほどの素質は感じられませんでしたが、ごく普通の反応です」
「ああ」
素質がないと言われる事は少し残念な気もしたが、ジアードの元居た国に魔術師は居ない。だから落胆するほどではなかった。
「なんですが、ダウィさんにやった時にはさっぱり何の変化も感じませんでした。自分の右手と左手を握手させて力を流した時みたいに」
「そりゃ魔力がないってことか?」
「魔力は生きている者なら誰しも持っている力ですから、魔術は使えなくても多少はあるはずなんです。それこそ、動物でも、虫でも」
「だから虫以下ね」
ダウィが口を挟むと、フアナはそちらを見て言った。
「死体だってもっと反応します」
「――それと比べられるのはなんかやだなあ」
ダウィはまた苦々しい表情を浮かべて机に突っ伏す。
「こいつが虫や死体以下なのはなんとなくわかった。
それで、ええと……フアナは魔術師なのか?」
フアナの大きな目がくりくりと動き、意外な事を聞かれたような時のような顔をした。
「そうですよ。『運び屋』は皆魔術師です」
「初めて会った。案外……普通なんだな」
大きな襟のシャツも、胸元で結んだリボンも、明るい色のショートパンツも、頭の高い所で束ねた髪も、先ほど街で見かけた同世代の少女達と変わらない。御伽噺の中の暗い色のローブを着て鍋をかき回す老婆のイメージとは真逆と言っていい。
「あはは。最初の魔術師になれて光栄です……まだ私は見習いなんですけど」
年相応の愛らしい表情で少女は笑った。
「じゃあ、俺と一緒だ」
「見習いなんですか?」
「これが初仕事だ」
「ああ、それで今回は騎士さんが二人なんですね。
――見習い同士、よろしくお願いします」