夜半の井戸端
夜中にふと目を覚ましたのはカタリと小さな音を聞いたからだった。
隣室からパタパタとかすかな足音がする。フアナの部屋だ。
ややあって、かちゃりとノブを回す音が聞こえたものだから、ジアードは剣を片手に足音を忍ばせて廊下に出た。
――今日は満月だったっけか。
そんな事を思ったのは蝋燭の灯りひとつ無い廊下の様子が目を凝らさずともぼんやりと見えたからだ。
黄昏時ほどの明るさを保つ窓の外へちらりと目をやってから、廊下の先を進む白い影に目を留めた。
寝間着代わりだというショートパンツから細くしなやかな脚を晒した少女の姿に眉を寄せる。
無防備すぎる。
ウクバの森での解放の儀式以来、魔族による襲撃は無いが、まだ狙われている可能性は十分にある。
それでなくとも夜中に女一人で――それも露出の多い格好で外に出ると言うのはジアードの常識に反していた。
「あいつはもう少し自覚を持てよ……」
思わず溜息をついたのはフアナにあきれたからだけではない。
――ああ、ここでも俺はこういう役回りなのか。
舌打ちをひとつして後を追う。
面倒な事は避けて通りたい方のはずなのに、どういうわけかジアードの周囲には厄介ごとに自ら巻き込まれに行く奴が多い。
特に数少ない女性の知り合いは自ら厄介事を巻き起こすタイプばかりなのが悩みの種だ。
フアナの消えた方へ足音を忍ばせて向かう。
どうやら回廊に囲まれた中庭へ向かったようだ。
そこへ一歩踏み入れてジアードは息を呑んだ。
昼間通った時にはただの庭だと思って殆ど目をやる事も無かったそこは、今神秘に溢れていた。
花が光っている。
全部では無いが、花壇の半分ほどを占める子供の掌ほどの花の花びらが燐光を放っていた。
幾度か見た魔術の光に近い。
色は淡い青が多く、他に紫や赤、黄色や緑の物もある。
一重の大振りの花びらはジアードの知る物だとカシュカシュの花に似ている気がするが、葉はそれとはだいぶ違う。もしかしたらここにしか咲かない魔術的な植物なのかもしれない。
ぼんやりとした光の中、恐る恐る歩を進めると、中庭の中央に設えられた井戸の脇に見慣れた後姿を見つけた。
「何してんだよ」
声を掛けると面白いほど ビクッ! と肩が跳ねる。
「なんだ。ジアードかあ。驚かさないでよ」
「なんだじゃねえ。魔族に狙われてんだから一人でほいほい歩くな。――そういやタイはどうした」
普段夜中の護衛をしているはずの犬の姿が見えない。
「部屋に居るよ。この建物は全体に結界がはってあるから変なのは入ってこないんだって」
「だからって夜中にそんな格好で……」
「わかった! わかったから! もう一人で出歩かない! お水汲んだらすぐ帰るから!」
「水?」
「喉がかわいたから水を汲みに来たの!」
フアナは右手に持っていた水差しを振った。
釣瓶を落とすのを見守りながらふと思った。
「そういや、そういうのって魔術でなんとかなったりしねえのか」
物語の中で魔術師がどこからか大量の水を呼び出して敵を押し流すというシーンがあった。そんな事ができるならわざわざ井戸から水を汲み上げる必要なんてなさそうな物なのに。
そういうとフアナは残念そうな顔をして答える。
「ちょっとなら出来るよ。それこそコップ一杯とか」
遭難した時には便利そうだが、少しがっかりもした。
子供の頃に御伽噺に憧れた気持ちを少し思い出してしまったからだ。
「あ、今『そんなものか』って思ったでしょ!
違うの! ただ、私の魔力が火属性なだけなの! 水は出せないけど火なら出せるんだから! なんなら、今ここでやってみせる!?」
言うが早いか何やら呪文らしき言葉を唱え始める。
掌を上にして差し伸べられた手に赤い燐光が纏われていく。
「おい待て! 火事になったらどうするんだ!」
「――はっ!」
それはマズイという顔をしたフアナが口を閉ざすと、「ぽふん」と軽い音と共に小さな炎が一瞬出て――消えた。
「い、今のは途中で止めたからこんなものだけど! 本気になったらおっきな炎だって出せるんだからねっ」
意地を張るように言うので、それが本当かどうだか怪しくなってきた。
「おーそれは凄い」
とりあえず子供をあやす時のように言ってみた。それはどう聞いても棒読みの台詞だったが、フアナは誇らしげに胸を張る。
「そうよ! ピザを焼く時に便利なんだから!」
「……ピザ?」
「あとはブリュレに焼き色をつけたりとかっ」
「…………」
「お、お皿に盛ってからお肉が生焼けだって気づいた時にも……」
「…………」
「…………あー……聞いていいか?」
「……ど、どうぞ?」
「魔術ってのは料理をする為のモンなのか?」
「…………ウチでは、主に」
御伽噺の魔術師に対する憧憬は、フアナの家の台所事情によって木っ端微塵に砕かれた。
* * *
「ねえ、あれダウィじゃない?」
フアナがそれに気づいたのは、水差しを満たしそろそろ戻ろうかと言う時だった。
中庭を囲む回廊の向こう側――建物と建物の間の細い植え込みの更に向こう。開け放たれた窓の奥で金色の髪の毛が揺れている。
「あれって昼間にお邪魔したセガル様のお部屋の辺りよね」
「っつーか、今あいつが出てきたのって、『近づくな』って言われた突き当たりの部屋じゃねえ?」
さっと顔色を変えたフアナと視線を交わした。
廊下の窓に映るダウィらしき人影は次第にこちらに近づいて来る。
「ど、どどどうしよう?」
「……魔術師は偉い奴に絶対服従なんだっけか。言いつけに背いたらどうなるんだ」
フアナの表情が可哀想な程に失われていく。
これは死刑とかって事もありうるんだろうか。
しかし、そのルールはあくまで魔術師同士でのもの。
指示に従わなかったのは魔術師であるフアナではなくダウィだ。ならば罰則も適用されないのではないだろうか。
そんな事を考えているうちに、回廊にダウィが姿を見せた。
手には空の皿が数枚乗ったトレーらしき物を乗せている。
首を傾げつつ声をかけようとした、その時、回廊の反対側にもう一つ人影が現れた。
回廊の柱の影の闇から溶け出すように現れ、影を伝って歩く黒衣の魔術師。
セガルだ。
彼女は真っ直ぐにダウィの元へ向かい、両手でそのトレーを受け取った。
「ありがとうダウィ。あら残さず食べてる」
「朝御飯も食べるって約束してきたよ」
「助かったわ。あの子は食事に関しては貴方のいう事しか聞かないから」
「俺に『ちゃんと食事をしなさい』って説教した手前、自分は食べないって言えないだけだよ」
「あら。そっちは食べる暇も無いくらい忙しいの?」
「違う違う。荒れてた頃の話。酒だけでどれくらい生きられるか試してみようとしたら叱られたんだ」
恐ろしい台詞をさらりと言った。それは緩慢な自殺じゃないか。
だが、それを聞くセガルは何でもない事のように頷いた。
「ああ。そういうことってあるわよね」
「セガルにも?」
「んー……親子喧嘩を拗らせた時にちょっとね。
食事をしなかったらどれくらいで死ぬのか試してみようとしたの。師匠にバレて十年で辞めさせられたけど」
――今おかしな単位が聞こえなかったか?
しかし、ダウィもまたさらりと聞き流した。
「あの人が止めるなんて意外。『食事なんて面倒な事している暇があるなら研鑽しなさい』くらい言う人かと」
「それがねー。『人間なんて脆弱な種族に生まれてしまったのだから、身体の理に逆らう事なく日に二度は食べなさい』って言われたの」
「うっわ。俺が言われたのと一言一句まったく同じ」
「あの子、見た目はまったく似てないけど、中身は師匠そっくりなのよ」
そんな言葉を交わしながら二人は去って行った。
ジアードがようやく口を開く気になったのは二人の背中が向こうの建物に消えてだいぶ経ってからだった。
ダウィとセガル、それにその引き篭もりの魔術師とやらが親しい関係にあるらしいことはなんとなく察せられたが、もうそんな事はどうでもいい。
「あー……魔術師ってのは飯食わなくても十年生きられるのか」
魔術師の年齢に続いて、またしても常識をひっくり返された事の方が重大だった。
フアナは普段自分達と同じように食事をしているが、もしかして魔力をどうにかすることで飢えを凌ぐ方法があるのだろうか。
そんな疑問にフアナはひきつった様子で答えた。
「……わ、私は多分無理じゃないかなー?」
今回ばかりはジアードの常識も間違っていなかったらしい。
「セガル様は色々と普通の人間と違う所があるのは納得なのよ。
それよりもダウィが意外! お酒に溺れるとかイメージないよ――っていうか、そもそもお酒飲めるの?」
「あいつは強い。それこそザルだ」
「へー。飲んでるの見たことない。ダウィもジアードも」
「そりゃ、今は一応任務中だからな。それにこっちは井戸水だって飲めるだろ」
「イーカルでは飲めないの?」
「まあ場所によるが……少なくとも行軍中は水代わりに酒を飲むことが多い」
「なんで?」
「水は腐る」
市街地なら井戸水を沸かして飲む事もあるが、そんな余裕が無い事も多い。それに酒精は痛みや恐怖心を誤魔化したり士気を高める効果もある。軍と穀物酒は切っても切れない関係にあるのだ。
だがそんな事をこんな平和ボケした少女にわざわざ話す事も無い。
「ジアードもお酒強い?」
「強いか弱いかでいうなら強い。フアナは」
「んー……家系的には飲める家系らしいよ。けど、飲まない」
「なんで」
「美味しくないから。だってワインは渋いし、エールは苦いじゃない」
「……どこかで聞いた台詞だ」
「へ」
「俺のイーカル国軍時代の上官も、似たような事を言って甘い酒ばかり飲んで居やがった。あいつも飲もうと思えば飲める体質だったんだがなあ」
むしろ飲まない癖に、これは若すぎるだの酸化してるだの、味の評価だけは一丁前にする奴だった。普段は飲まない癖になぜそんな事が言えるのかと聞いたら、実家が酒造りをしていたのだと言う。あれも相当変わった奴だった。
「……なんかジアードの友達?の話聞くの初めてかも」
「そうかー?」
「友達居たんだ」
「おい。人をなんだと――人並みには居るぞ」
周囲に居たのが軍人ばかりで、彼らとのエピソードは年頃の少女には聞かせられたものじゃないというだけだ。男所帯で荒事ばかりをこなしているとどうしても話のオチが下品か野蛮な方向になってしまうのだ。
「じゃあさ、じゃあさ。彼女とかは?」
「ああ、そりゃこの何年かいねえな」
「好きな人――」
「さあ」
「あ、誤魔化した」
「そういうフアナは」
「夏には居たよ」
「すまん」
「って思うなら好きな人について詳しく」
目を輝かせて身を乗り出して来るが、特に聞かせるほどの話は無い。
ジアードは話を逸らす事を決めた。
「女ってそういう話好きだよな」
「好きだよ。だから詳しく」
「他人のそういう話って面白いか?」
「面白いよ。――で? 居るんでしょ、好きな人」
ジアードはついと右肩の方へ視線を逃がした。
だがフアナがそんな誤魔化しを許すはずもなく、顔を覗き込むようにしてしつこく追求して来る。
身長差があるからある程度以上近づく事はないのだが、それでも気がつけば抱きつかれるような姿勢になってしまっている事に辟易して、渋々ながら口を開いた。
「あー……そんな髪の色の女」
「そんなって、私みたいな?」
「ああ」
「こんな色よくいるよ。そうだなー。可愛い子?」
「……普通」
「年上?年下?」
「下」
「どういう所が好きなの?」
「どこだろうな……」
ジアードはふと、彼女と出会った頃を思い出した。
年は今のフアナと同じ位だったろうか。
顔や表情の印象はまったく逆と言っていいのに、やはり眼下でゆれる髪の色はおんなじだ。
それに――彼女とは、最初から親しくしていたわけではなく、むしろ距離を取っていたのだが、気がつけば懐に入ってきていた。そういう所も、彼女とフアナは少し似ている。
「じゃあ、どこで知り合ったの? なんて言う名前? なんて呼んでるの?」
いくらなんでも質問が多すぎる。
「お前なあ」
きょとん。
フアナが目を丸くした。
まだ何も言っていないというのに。ジアードの方が驚いた。
まじまじと見つめあった後、フアナは半開きだった唇を動かし、小さく呟く。
「初めて言われた」
「何の話だ」
「ジアードに初めて『お前』って言われた」
「んなことねえと思うけどなあ――ああ。育ちのせいか口が悪いんだ。すまん」
髪の毛を掻き回し謝るジアードに、フアナは満面の笑みで応えた。
「いいよ。なんか仲良くなれた気がする」




