閑話 わんこのしっぽ
明日は一昨日登ってきた山道を下りる。
下りとはいえ、今度は雪道だから時間もかかるだろうと、ダウィは階下の食堂まで食料の手配に出て行った。
ジアードは温泉に浸かっているらしい。この宿の温泉はギル様の連れて行ってくれた宿の大浴場のような立派なものではなく、大人一人が膝を抱えて入るような小さな湯船があるだけのものだが、それでもジアードは満足しているようだ。
そしてフアナは――
ちらちらとタイの方を窺っていた。
騎士二人が留守にする間、番犬として残されたタイはカーペットの隅で丸くなりじっとしている。
話しかければ反応があるので寝ているわけではないらしい。
だがその返事も常にそっけないもので、何か考え込んでいるように見えた。
いつからかと言えば、フアナがこの部屋で目覚めてからだ。
いや、もしかしたらもっと前からだったかもしれない。
昼過ぎにアルヴィン・ローリーの生家跡でサンドイッチを食べた時は普通に話していた。
解放の魔術を使っている間は必死だったし、その後は初めて見る精霊に興奮したり魔力切れで寝ていたりとタイがどうしていたかに関するはっきりした記憶が無い。
――何かあったのかな。
様子がおかしいので少しだけ不安になっている。
飼い主であるダウィには一応相談したのだが「本人が何も言わないなら放っておいたら?」と言う。
疲れて元気がないとか言うのなら良いけれど……
落ち込んでいるかのように耳としっぽをだらりとたらし床に蹲るタイを横目に見ながら荷物を広げた。ジアードが上がったら温泉に入るべく洗面用具などを用意しておく事にしたのだ。
着替えを出そうとして、その間に挟まっていた布の包みに手が触れる。
アルヴィン・ローリーの絵本だ。
これを入れたままでは一番下に仕舞っていた寝間着を出せないのでベッドの上に置く。寝間着は母国で一般的なネグリジェではなくTシャツに膝上の短パン。ネグリジェの方が嵩張らずに済むが緊急時に対応できないからと祖母が用意した。確かにこれなら寝間着のままで宿の中を歩く事もできるので気楽だ。
「寝間着にタオル、下着とー……あれ? どうしたの?」
ふと傍らを見ると、小鹿が一心に絵本の匂いをかいでいた。
「そっか、お前はここから出てきたんだものね。――持ち主の所に届けたらもう見れないかもしれないし、一緒に読む?」
ぴこっと頭を上げて尻尾をぴんと立てた。
「キュィ!」
嬉しそうな声。
どうやら小鹿が甘える時は「ピィ」嬉しい時は「キュィ」らしい。困った時や怒った時はどう鳴くんだろうと考えながら絵本の包みを開いていく。
もう魔力は篭っていないので封印の魔術を気にすることなくページを繰れるが、それでも一枚一枚慎重にめくった。
預かり物である事には変わりないし、何より――とっても高価な絵本だからだ。
小鹿の一番お気に入りのページは、最初の方の木漏れ日の森の絵のようだ。
絵本の中の「小鹿」の寝床の辺りの匂いをかぎながら「ピィーピィー」と鳴いている。
――絵本は誰かに――特に文字が読めない子供なんかに見せるものなんだよ!
不意に思い出したのは、アルヴィン・ローリーについて調べていた時のダウィのあの言葉。
確かに文字を読めないらしい小鹿でも、何かを感じ取っている。
「アルヴィン・ローリーは、これをあの木の精霊さんに見せたかったのかな。明日にでも見せに……ああでも、あの精霊さんまた冬眠しちゃったんだっけ」
「きっとね、アルヴィン・ローリーがその絵本を描いたのは手紙のつもりだったんだと思うよ」
独り言の返事をしたのは、ちょうど部屋に戻ってきたダウィだった。
「明日の朝に今日みたいなサンドイッチを用意しておいて貰える事になったから」
「あ、ありがとう!」
ダウィはベッド脇の椅子に腰掛け、まだ絵本に夢中な小鹿の方を見た。いや、小鹿ではなく絵本を見ているようだ。解放の魔術の時に与えたフアナの魔力のお陰で魔術の使えないジアードにも見える小鹿だが、魔力の欠片も無いダウィには小鹿の姿が見えないらしい。
「手紙ってどういうこと?」
「故国を追放されて、もうこの森には戻って来れない。だから絵本を書いたんだと思うんだ。この絵本は最初から誰かに託して『ともだち』の所へ持っていってもらうつもりだったのかなって」
「そっか……だから、手紙、か」
「でも直接会って話す事ができたから、多分彼も満足したんじゃないかな」
自信ありげな言葉を受けて、フアナは小鹿を見た。
「そうなの?」
小鹿は人語で答えない。
ただ嬉しそうに「キュィ」と鳴いて頭のてっぺんをフアナにこすりつけた。
フアナが絵本を仕舞い始めると、ダウィはこちらに背を向けて丸くなったままのタイに話しかけた。
「ところでタイ。晩御飯なにがいい?」
《……見送る立場は、辛いよな》
「この町の飲食店はペット同伴禁止だから、今日もタイの分は何か買って来るね」
《人より長く生きる体は、それだけ人の死を見送らなければならないだろ》
「もし凄くお腹空いてるなら、下の食堂でサンドイッチか何か頼む?」
《あの精霊と絵描きのように、俺も……》
「明日の昼もサンドイッチだから、それでもよければの話だけど」
《…………》
「あ。そういえばお昼の野菜サンド、随分気に入ってたよね――」
「ヴァウ!!!」
珍しくタイが吼えた。
両方の言葉が聞こえているフアナからすれば、これだけ噛み合っていない会話をすればそりゃあ怒るよなと言うものだが、ダウィは首を傾げるだけだ。
「え、どうしたの。サンドイッチも待てないなら、鞄の中に干し杏が入ってるよ」
《人の話を聞けよ! 聞こえなくても良いから空気読んで聞けよ!》
フアナにしか聞こえない声でタイが叫んだ。
それでも言葉が通じないなりに、ダウィも何かを感じたのだろう。
席を立ち、タイの隣に座って真っ白な毛皮を撫でた。
「キュィ!」
嬉しい時の鳴き声をあげたのは小鹿だ。「何?」と聞く間もなく、フアナの頬が魔力の揺らぎを感じた。
はっとしてタイの方に視線を戻す。
土の属性を帯びた魔力とともに空気が膨らみ、タイを中心に部屋中が淡い色の光に包まれた。
タイが何か魔術を使ったのだろうけれど、種族が違うためか独特な構成でどんな術かまではわからない。
魔術の光を受けて、ダウィの金色の髪が砂色ほども淡い色に輝き、魔力を帯びた風に揺れた。
土属性特有の、穏やかで温かい匂いの魔力が辺りを包む。
魔術が見えない人間には突然風が吹いたように感じたのだろうけれど、ダウィは慣れているのか気にせずタイの背中を撫で続ける。
ダウィは手元でもタイの顔でもなくお尻の方を見ているようだ。
ふわふわした毛が左右に揺れている。
「素直なタイが一番可愛いよね」
《そういう台詞は嫁にでも言っておけ!》
強い魔力の放出と共に、タイが叫んだ。
《だからお前は嫌いなんだ!》




