小鹿の処遇
途中魔族の襲撃という大きなアクシデントはあったものの、運び屋見習いとして初めての「解放」の魔術はうまくいった。
精霊の消えた大木を見上げてフアナはほっと胸を撫で下ろした。
後はただの本になったこの絵本を依頼主の元へ届けるだけ。
ひらひらと舞い始めた雪に濡れないよう、その本を油紙と布で丁寧に包んだ。
それを渡してくれたのはダウィだ。
そして、初仕事の最大の反省点はそこにある。
あの時フアナは解放された「アルヴィン・ローリー」に心を奪われて、運び屋にとって一番大切な事――依頼人から預かった荷物を第一に扱うという事を、完全に忘れてしまっていた。彼が居なければこの雪で本を駄目にしてしまっていたかもしれないと思うとぞっとする。
フアナは包みを――これまたダウィに持ってきてもらったマントの下に大切に抱えた。
全ての支度を終えるまで、騎士たちはずっと空を見上げていた。
真っ白な雲から舞い落ちる白く冷たいものを、珍しげに。
そういえばダウィは南の暖かい国の出身でジアードは西の砂漠の出身だ。本当に珍しいのかもしれない。
特にジアードは口をぽかんと開けて完全に言葉を失っている。
思わずくすりと笑うフアナの胸に、退屈そうな声が飛び込んできた。
《さっさと帰ろうぜ》
「タイは雪嬉しくないの?」
《もう飽きた》
時々捻くれた事を言うタイだが、今回は本当につまらないと思っているのだろう。耳と尻尾は雄弁だ。
フアナとしても本降りになる前に依頼品である本を屋内に退避させたいという気持ちがある。ジアード達の邪魔をするのは悪いけれどせかして帰る事にした。
そこではっと気がつく。
この子どうしよう……
足元で不安げにこちらを見上げる潤んだ双眸。
アルヴィン・ローリーが消えた後、突然現れたあの子だ。
見た目にはエールジカに違いない。だが小鹿であって仔鹿ではない。鹿の角は大人になってから生えてくるものだというし、ジアードたちより更に大きい鹿の子供がフアナの掌に乗るほどの大きさであるわけが無い。
だからただの仔鹿でない事は一目でわかるが……正体のわからないこんな生き物を連れて帰って良いのだろうか。
仮に連れ帰ったとして餌や世話はどうしたらいい?
むしろ珍獣として見世物にされたり研究材料にされてしまう可能性も……
最悪の想像をして、余計に小鹿から目が離せなくなってしまった。
寒さで少しかじかんだ手を伸ばすと、小鹿の体は生命を主張するかのごとく熱かった。
体に触れても抵抗するようすがないので、フアナはその子をそっと抱き上げた。
こんな小さな体では寒かろうとマントの中に導きいれ、本と一緒に抱えると嬉しそうに胸元に顔を擦りつけ始めた。
「ねえ、この子――」
どうしよう?とみんなに聞くつもりだった。
だが、その言葉が喉より先に出てくる前に目の前が真っ暗になった。
酷い貧血の時のような眩暈。
地面に膝がぶつかり、痛みを覚える。
だが呻き声すら言葉にならず、そのままそこに倒れこんだ。
ドッ――と顔が叩きつけられる。
だが、それは固い地面じゃなかった。
腕の中の小鹿と同じくらい温かくふわふわとした白い毛皮。
《魔力の使いすぎだ》
もうすっかり聞きなれてしまった呆れ声。
心の中で反論しつつ、フアナは意識を手放した。
* * *
意識がゆるゆる揺れる。馬に乗ったときよりも穏やかに。
宙をおよぐ足もゆらゆら揺れる。
「……似てる気がすんだよな」
ジアードの声が少し後から聞こえた。
「フアナと彼女が?」
頭のすぐ上から聞こえたのはダウィの声。
膝の裏と背中に感じる感触から、ダウィに横抱きに抱えられているんだろうという事はなんとなくわかった。
けれど手足はおろか瞼すら重くて動かしたくない。
心地よい揺れに身を任せもう少しだけこのままでいたい。
「うーん……髪の色くらいじゃない?」
その言葉と同時にダウィが視線を落としたのを感じる。
「あれ? 起きてた?」
うっすら目を開けると、すぐ目の前に琥珀を埋め込んだような双眸があった。
そういえば……さっき、ダウィの眼が……いつもと違った気がする……?
アルヴィン・ローリーの姿がかき消えた後、どことなく印象が違ったような気がするのだけどよく思い出せない。
どう違ったんだっけな……?
愚鈍な意識でそんな事を思いながら重たい瞼を開けたり閉じたりしていると、ダウィがふんわりと笑う。
「疲れているでしょ。いいよ、まだ寝てて」
いつものダウィだ。
でも、近くで見るとびっくりするほど肌が綺麗。
それに艶のある金色の髪が綺麗。
すっと通った鼻筋も、光を反射して金に輝く瞳も、長い睫も――
魔力が無いのに、綺麗。
「――ダウィって王子様みたい」
お姫様抱っこだからかな。
「あはは。俺は騎士だって」
笑うと薄めの唇から白い歯が覗く。
でもそうだよね。
同じ金髪でも、物語の王子様は頭に雪なんて積もらせない。
「ごめん……やっぱりもう少し……」
「おやすみ」
安心してまた眼を閉じる。
ふんわりと鼻腔をくすぐるのは、タイと同じ、少し甘いスパイスのような香りの石鹸の匂い。
高めの体温が頬から伝わってくる。
本当は少し、お父さんみたい、とも思ったのだけど、さすがに悪いから黙っておいた。
* * *
頬に何か温かいものを感じて眼を開けた。
顔をのぞきこんでいたのは真っ黒な瞳の茶色い動物。
ぺろりと目元を撫でられた。
「鹿――!?」
一瞬まだ夢の中なのかと思った。
だが、次第に記憶が蘇ってくる。
そうだ。ウクバの森で解放の魔術をして、アルヴィン・ローリーの思念を解放したと思ったらこの子が……
小鹿はまた、瞬きを繰り返すばかりの目を舐めた。
「きゃあっ!」
《――起きたか》
淡々とした声が胸の奥に響く。
目の前にいる鹿じゃない。もっと聞きなれた声だ。
「タイ?」
どこにいるんだろうと上体を起こすと、少し離れた床の上に見慣れた白い大きな犬が蹲っていた。
《お前が起きたら報せろと言われてるんだ。あいつらを呼んでくるから待ってろ》
のっそりと立ち上がり、器用にドアノブをまわして出て行った。
「……寝てる間に帰って来たのかな」
フアナが居たのは昨晩も泊まった宿のベッドの上だった。窓から差し込む西日が橙色に染まっているので、数時間は経っているのだろう。
魔力の使いすぎでだるさの残る足を持ち上げ、ベッドから下ろす。
ブーツと室内履きが揃えて置いてあった。
ブーツは面倒だから、室内履き。
それをつま先でつっかけて、立ち上がるため重たい手足に力を入れた。
「……ピー……ィ」
小さな笛の音が聞こえた。
首を捻りながら音のした方を振り向くと、そこには大きな潤んだ瞳。
「ピィ」
小鹿が高い澄んだ声で鳴いた。
タイのように言葉を喋ることは無いけれど「置いていかないで」と訴えているのだとなんとなくわかった。
「大丈夫。ちょっと水を飲もうと思っただけだから。
――でも、一緒に来る?」
手を差し伸べると、小鹿は嬉しそうに掌に乗った。
* * *
アルヴィン・ローリーという希代の画家が遺した絵本は、そこに籠められた彼の思いによって精霊を宿した。
だが精霊も彼の思念も長い間ただの遺品として、彼が住んでいた家に眠っていたらしい。
ある時誰かがその絵本を持ち出し販売した事によって、彼の思念は眠りから覚め、彼がこの世に残した最後の心残り――無くした宝物を探して回るようになった。
精霊の力を借りた彼は絵本の外に抜け出して、時に夢に現れ、時に周囲に雪を撒き散らしながら、必死で自分の記憶を探ろうとした。それが怪奇現象として「運び屋」の手に委ねられたのだという。
フアナによって故郷の森で開放された男の思念は、「友達」と「宝物」に再会し、満足して次の世へ旅立っていった。
後に残ったのは――遺作となった絵本と、小鹿の姿をした精霊……
「この子どうしたらいいと思う?」
フアナは涙目になりながら、小鹿を抱きしめた。
「そんなに懐いているなら連れて帰るしかないんじゃない?」
ダウィは捨て猫の扱いを論じるように答えた。
「いや、だって、この子精霊だし!」
「じゃあ捨ててく?」
はっとして視線を落とすと、腕の中の小鹿の潤んだ瞳がこちらをみていた。
「……ピィ……」
人間の会話をわかっているのかいないのか、小鹿は寂しげな声で鳴く。
「無理っ! 捨てられないよ!」
「それなら、さっきタイが言ってた通りだよ。
君が『解放』した事で本とのつながりが絶たれちゃって、すっかり一つの生命体になっちゃってるからもう本には戻れない。
だから――捨てないなら、家まで連れて帰って飼うしか」
「だから、飼うったってこの子精霊よ?!」
そんなペット聞いた事がない。
飼い方だってわからない。
フアナの不安が伝わったのか、小鹿はまるで匂いをつけるかのようにフアナの首筋に角を擦りつけた。
小鹿の角からは甘い樹脂系の匂いがする。そういえば、エールジカは芳香を持つ角を売買するために乱獲されたって言っていたっけ。
精霊と本物のエールジカが同じ匂いなのかはわからないけれど、この匂いなら……乱獲されたという事実が理解できる気がする。
殺された鹿の事を考えていたら悲しくなって涙が出てきた。
やっぱり、捨てるなんて出来ない。
ダウィはそんなフアナを困ったように見ていた。
「依頼人はどう思ってるのかなあ。
その人が『高名な画家の書いた絵本』を欲しがっているのか、『精霊の宿った本』を欲しがっているのかにもよるよね。
解放の魔術を依頼する時点で前者だとは思うけど――取り合えず依頼者のところへ行って聞いてみよう。ロトガスだっけ?」
確かにそれは正論だ。
絵本の所有権は依頼者にある。
本からは完全に分離されたとはいえ、精霊の扱いに対してもその人には口出しする権利があるはずだ。
フアナは目元をきゅっと拭いて、依頼人について話した。
「ロトガスの『三国学問所』へ届けて欲しいと言われてるの」
「……ちょっと待って?」
ダウィは眉を潜めた。
「名前なんてどうでもいいと思って聞いてなかったんだけど……その依頼者って、誰?」
「三国学問所の学長さん」
「――げ」
「げ?」
心底嫌そうな顔をしていた。
いつも笑っている印象のダウィがこんな顔をするのは、ギル様やヘナさんと話している時くらいだった。
「知ってるの?」
「知ってるも何も……俺が今まで出会った中で関わりあいたくない奴の三番目には入る」
「え、怖い人?」
「腹黒い奴」
そう言ってダウィは眉間を揉みながら何かを考えていた。
「あいつなら精霊は好きにしろって言うとは思うんだけど、俺も精霊の扱いは知らないんだよな……ああ、そうか、ロトガスだ」
何かに気がついたようにつぶやいて、机に置いてあった地図を広げた。
「ロトガスに何かあるの?」
「いや、プロの判断を仰いでみようと思って」
ダウィは地図の「ウクバ」と書かれた文字を指差した。今居る町だ。
綺麗に切りそろえられた爪が街道沿いにまっすぐ南下して国境を越える。そして更に街道を辿り、いくつかの町の名前を通過して「ロトガス」の文字で止まる。
「これから使う予定のルートだよね?」
旅人が辿る道としては一般的な道順で、この辺りの雪道以外に難所も無い。しかもほぼ直線だから最短でもある。
「うん、でもちょっとだけ寄り道しよう」
ダウィの指が再び「ウクバ」の文字から街道に沿って滑り出す。
国境を越え、南下する街道を使うのは同じだけれど、その指は「ロトガス」の「R」の字のすぐ上で止まった。地図上では緑に塗られ、そこが森林であることがわかる。
「ロトガスまで行く途中にあるからここに寄ろう」
こんな広域の地図では地名が載っていないが、フアナにはそれがどこだかすぐにわかった。
「え、まさか」
思わず口ごもってしまったのは、それがフアナ達にとって特別な場所だったからだ。
だがやはりダウィはさらりとその場所の名前を口にする。
「――『魔術師の森』」




