ともだちのしるし
きらきらがまぶしかった。
ちょっとだけぎゅっととじた目を、ぼくはゆっくりあけた。
そこはまだまだまっしろだったけど、とうさんはもうおわりだよっていってた。
おわりだから……ぼくたちはいかないといけないんだよって、いってた。
まっしろがなくなったら、ばしゃでおひっこしするのもかんたんになるんだって。
そこはすっごくとおくて、きみともおわかれしないといけないんだ……
でもね、ちょっとだけたのしみなんだ。
こんどすむのは、王さまのいる大きなまちなんだって。
おじいさまにもあえるんだって。
おじいさまって、かあさんのとうさんなんだよ。
おじいさまって、じいちゃんなんだ。
ぼくにもじいちゃんがいたんだよ!
ぼくだけのじいちゃんなんだ!
あ。きみにもじいちゃんって、いるのかな?
あったことないけど、きっといるよね。
だってとうさんがいってたんだ。
いきているものには、かならずとうさんとかあさんがいるように、じいちゃんとばあちゃんもいるんだって。
こころのなかで、ともだちにかたりかけながらまっしろなみちをはしる。
どうぶつたちがつくったほそいみち。
だってそれいがいのところは、まっしろがいっぱいでぼくはあるけないんだもの。
あしがもつれそうになりながら、ぼくはともだちのところにたどりついた。
ともだちはまだまっくろからかえってきてなかった。
それでもぼくは、ぼくよりすこしだけせのたかくなったともだちにはなしかけて――
……それから、そうだ。
ポケットの中からハンカチに包んだ「ともだちのしるし」を取り出したのだった。
ハンカチをひらいてまだ小さかった指で摘まんで……
あれ……? 「ともだちのしるし」って何だ……?
思い出そうとしても、どうしても思い出せない。
たしか、「まっしろ」の中に、赤い小さな物を落としたんだ。
違う……?
まっしろじゃなくて、くろい……黒い……?
* * *
目の前にあるものが信じられなくて、ジアードは何度も瞬いた。
それはゆっくりと首をまわし、居並ぶ人間の顔を確認するように順番に見つめた。
真っ黒な瞳が最後にジアードを映す。
白眼の見えない大きな目は常に笑んだような形をしている。
周囲の様子を窺うようにぴくぴくと動く耳の先には白い飾り毛が生えていて、そのすぐ上からは枝を広げる大木のような角が生えている。
「エールジカ――」
魔方陣の中央に立っていたのは、絵本にでてきたあの大きな牡鹿だった。
光の奔流があふれ出すまでは、確かにそこには何も居なかった。
眩しさに目を閉じたのは一瞬だった。なのにその僅かな時間に鹿はどこからかやってきてそこに立っていた。
だが、突然現れた鹿の姿に動じていたのはジアードだけだった。
さもそこに居るのが当然という様子でフアナは鹿に歩み寄った。
「アルヴィン・ローリーですね」
見上げるような姿勢で問う。
牡鹿が頷いた。
《いかにも》
胸の奥に浸透するような不思議な声がした。
ややしわがれた老人の声を発したのが牡鹿だという事は直感でわかった。
動物が魔術を使って喋るというのはタイですっかり慣らされてしまっているし、この鹿の喋り方はタイがフアナと会話する時と似ているのだ。口が動かない所が。
大した魔力の無いジアードにまで聞こえるのは不思議だったが、怪談話では死霊がしゃべったりもす――
「ま、まさか、死霊――!?」
ひきつった顔のジアードをダウィが楽しそうに見ていた。
「本に籠められたアルヴィン・ローリーの思念、かな。
俺たちにまで姿が見えて声が聞こえてるのは、彼が解放の魔術を介して取り込んだフアナの魔力のお陰だよ」
それって怨念って奴じゃないのか!?
ダウィの説明は余計に恐怖が増しただけだった。
だが、こちらの様子などまったく気にしない様子でフアナはアルヴィン・ローリーを名乗る鹿に話しかけていた。
「探し物は見つかりましたか?」
《……まだだ……》
牡鹿は再び辺りを見回し、鼻をひくひくと動かした。
《懐かしい匂いだ……ここはウクバの森か。そう。そこに『夏の家』があった……
ここにはまだ『まっしろのせかい』は来てないんだな》
「ええ、今なら探し物もみつかるかもしれません」
フアナの言葉に、鹿は首を大きく回して森の奥を見つめた。
《あっちだ……》
ゆっくりと、何かを確認するように歩を進める鹿の後をフアナが追いかける。
その後をタイとマントなどを抱えたダウィがついていくので、慌ててジアードもその後に従った。
フアナもジアードも鹿から目を離すことが出来ないが、ダウィだけは足跡や獣の糞を確認しながら歩いていた。
「獣道だね。人間の作った道ではないけど、最近も何かが通ってる」
歩き方から、これはナントカウサギだとかナントカキツネだとか説明されたが、すべて右から左に流れていってしまった。
そこは最初の場所から遠くなかった。
ほんの数分だろうか。
突然立ち止まった鹿が、耳をぴくぴくと動かし、風の匂いを嗅いでいた。
かと思ったら、何かを見つけたのか今までとは比べ物にならない速度で駆け出した。
体力が少なく森の道になれないフアナをフォローしつつ、ようやく鹿に追いついたのは森を流れる小川の近くだった。
そこにあったのは、根元のあたりから二股にわかれ、頭上高くへ伸び行く木。
冬の始めのこの季節では枝ぶりしかわからないが夏には美しい木漏れ日を落とす場所だったのだろう。
そう――ここはあの、絵本に出てきた鹿の遊び場によく似ている。
鹿は長い首をもたげ、その頭上、大きく広がった枝の先を見つめていた。
冷たい風が吹き、枝の先に残った数枚の黄色い葉が揺れる。
絵本を抱えたフアナも荒い息を整えながらその視線を追っていた。
「……大きな木……」
彼女の隣でやはりその木を見上げていたダウィがそれに応じた。
「樹齢百年くらいかな……アルヴィン・ローリーの居た頃はまだ小さかったのかもしれないね」
ダウィは犬の背を軽く叩き、木のすぐ側まで歩み寄った。
「タイ。起こして」
飼い主を見上げた犬は、フアナに通訳されるまでもなく「めんどくせえ」と答えたのだろうとわかる顔をしていた。
渋々といった足取りでタイがその木に近づき、鼻先で触れると木全体が燐光を発した。
フアナの魔術の色とは違う、金色の光だ。
ざわざわと枝が揺れる音がする。
そして光が全員の視点よりやや高いほどの一点に収束すると、そこから声が降ってきた。
《なんだお前、変な犬だな》
機嫌の悪そうな少年の声だ。鹿の声と同じように耳朶ではなく胸の奥に響くように聞こえる。
光がゆっくりおりてきて、タイの頭の上に落ちる。
《人が気持ちよく寝てたっていうのに犬風情が起こすんじゃない》
その言葉を聞いてダウィが肩を震わせる。
「犬風情」
光がふわりと浮き上がり、笑いを堪える彼の周りを一周する。
《変な目をした人間までいるのか。なんなんだ今日は》
「君に合わせたい人がいてつれてきたんだ。わかるかな」
ダウィは鹿を指差した。
光はふわふわと漂うように鹿の頭上へと至った。
《……随分姿が変わったが……お前、あの時のチビか》
光が感慨深げに言うと、鹿も懐かしそうな声を出した。
《大きな木に育ったな……わからなかったよ……》
《あの後百回以上白い世界が来た》
《百年か――》
ジアードは鹿と戯れる光から目を離さずダウィを呼んだ。
「おい、あの光はなんなんだ?」
「あの木の思念……人間が『精霊』って呼ぶものだよ」
振り返ったダウィの目はまた緑色の光を宿していた。
「彼が、アルヴィン・ローリーの『ともだち』だったみたいだね」
「木が……?」
鹿は泣きそうな声で、記憶を探るように言葉を紡ぐ。
《僕が埋めたんだ。川の中に落ちていた赤い木の実を……
落ち葉をどけて、地面に穴を掘って……真っ黒な……土の中に》
光は静かな声で応える。
《私が芽を出してからもお前は毎日来ていた》
《『緑の世界』で初めて君と話した》
《ああ。覚えている……あれが初めての『緑の世界』だった。人に大切にされたものは、精霊が宿るのも早いんだ》
《『金色の世界』が来た時に別れを告げられた》
《『白の世界』が来たら眠るのが理だ》
《それからもう……会えなかった》
《そうだ。次に『緑の世界』が来た時にはお前はいなかった》
悔しさを滲ませる鹿とは対照的に、光は鷹揚に応じていた。
「白の世界が雪の冬なら、緑の世界が夏で、金色の世界は秋かな」
大木に背を預け、地面に腰を下ろしたダウィが呟く。
「春は?」
「この辺りの春は短すぎて、春も夏も一緒なんだ」
「イーカルと一緒だな」
あの国では春の代わりに雨季と呼ばれる季節があったが、この国にもあるのだろうか。
ジアードが腰を下ろし、タイの背中を撫で始めても人ならぬ二人の会話はまだ続いていた。
《その立派な足で歩いてきたんだろ?》
光が言うと、鹿は小さく首を振って頷く。
《うん……》
《世界は、広かったか?》
《……うん》
鹿は大きな目を潤ませた。
《君に謝らないといけないと、ずっと思っていたんだ》
光は、鹿の決意を籠めた瞳を気遣うように寄り添った。
《謝る? 何を》
《僕は別れ際に君から何か贈り物を貰った。でも、それが何か今でも思い出せない》
《覚えていないのか?》
《ごめん……》
そう言って鹿は長い首を落とし、ゆっくりと横に振った。
《何度思い出そうとしても、最初に出会った君の姿になってしまうんだ。
雪の中に埋まっている赤い木の実に――》
《なんだ、覚えてるんじゃないか》
光は嬉しそうに言った。
《それが贈り物だよ》
きょとんとする鹿の周りを光は踊りながらくるくると回る。
《俺たちが出会ったのは金色の季節のはじめだ。まっしろなんて無かった。
お前が俺の種を拾ったのはそこの小川の中だったろ?》
《あ……》
《あの時……俺が黒の世界に行く時に、別れたくないとお前が泣くから、初めて作った種をお前に渡したんだ》
鹿は瞬きをする。
《……あれは……あの宝物は、木の実だったのか……》
一瞬喜色が浮いた。
だがまたすぐに目を伏せ、頭を垂れてしまった。
《どちらにしても、僕はそれを無くした》
《無くしてない》
光はきっぱりと言う。
《本当に覚えていないのか? あの種は、白の世界が終わる頃にお前が俺の隣に埋めたんだ》
光の声は少年のように軽く、だが心に沁みこむ温かい声だ。
《俺はまだ黒の世界に居たけど、お前の声は届いていたよ。
『僕は遠くへ行かないといけないから、僕がいなくても寂しくないように』ってそう言いながら、お前は泣いていた》
《僕が埋めた『君』は黒い土の中……君から貰った『ともだちのしるし』は真っ白な雪の中……それで、僕の記憶にあったのが雪の中に埋まっている赤い木の実だったのか――》
光は返事をするように数度瞬いた。
《思い出したか?》
《うん……
あの時、僕は緑の世界まで君を待っていようと思っていた。だけど、雪解けの前に父に連れられて城下へ行く事になったんだ……ちゃんとお別れもいえなくて、ごめん》
《良いんだ。立派な足がある奴は、ちょっと木の下に立ち寄っても休んだらまた去っていく。それが理だ。
それに、お前のおかげで俺も寂しくなかった》
首を傾げる鹿を先導するように、光はジアード達のもたれる大木に近づいてきた。
そして二股に分かれた幹の片方の周囲をくるりと回ってみせる。
《俺がお前にやった『ともだちのしるし』――お前が埋めた種は、こっちだ。俺もこいつもすっかり大きくなって根元がくっついちまったけど、この百年の間いい話し相手になってくれた。
だから……ちっとも寂しくなかったよ》
鹿の大きな目から涙が落ちた。
光が鹿に寄り添うように近づくと、鹿はそっと頬を寄せた。
空からひらひらと雪が一片落ちてきた。
「アルヴィン・ローリー」
ずっと黙って見守っていたフアナが口を開いた。
「ごめんね。そろそろ……」
《時間切れか》
鹿は最後にもう一度光に頬ずりをし、名残惜しげに離れた。
《……死んだ人間は去らないといけないんだそうだ》
《それも理だな》
《またいつか会えるかな》
《俺は後数百年はここに立っている。生まれ変わったお前に足か翼があったら、ここまで来ることもあるかもしれない》
《きっと会いに来るよ》
鹿はそう誓って今度はフアナに目を向けた。
《運び屋》
鹿の体に白い燐光が宿り、やがて体全体が光りだす。
《無くした宝物に会えたよ。ありがとう》
鹿の体が一際強く光った後、その光は小さくなって消えた。
もうそこにはあの鹿の大きな体も立派な角も無かった。
「終わった……?」
不安げに呟くフアナに、ダウィが苦笑しながら答えた。
「一応、かな」
指差す先は光が消えた辺りの地面。
そこには掌に乗るほどの小さな小鹿が蹲っていた。
フアナは緊張の糸が切れたかのようにその場にへたり込んだ。
「……何、この子」
「本に宿った精霊」
「……え?」
「アルヴィン・ローリーが思念を籠めるほどに大切に描いた絵本だからね。本自体に精霊が宿ったんだ。で、その精霊を依代にしてアルヴィン・ローリーの遺志が具現化してたってことだね。
で、その子がその依代の精霊」
困惑するフアナを宥めるかのように、細い足で立ち上がった小鹿がよろよろと近づき、フアナの手を舐めた。
「あ、懐かれてる」
「どういうこと?!」
混乱を隠せない様子のフアナにダウィは楽しげに告げた。
「君の事をお母さんかなんかだと思ってるみたいだね。ほら、あの絵本を書いた人間の時のアルヴィン・ローリーもフアナもお互い火属性でしょ。だから魔力の質も近いんじゃない?」
「お、お母さん!?」
「一番はフアナみたいだけど、多分、タイにも懐くよ。
本の精霊ってことは、『お父さん』のアルヴィン・ローリーが火属性でも本質は土属性になるから」
「え、えっと――ダウィとジアードは?」
「俺たちは魔術師じゃないからねー」
ダウィの説明をジアードなりに解釈した所によると、アルヴィン・ローリーの怨念は成仏したが、強い思いを籠めて描かれた絵本にはその思念を核とした精霊が宿った。それがこの小鹿である――という事であるらしい。
精霊は魔力に敏感な存在なので魔術師に懐きやすいという事もなんとなくわかった。
「ん? ってことは、アルヴィン・ローリーは魔術師なのか?」
「公式記録には無いけど、こんな精霊を生み出すくらいだから素質はあったんじゃないかな。特にこの国は、火属性と水属性の魔術師が生まれやすい国だから」
魔術師の事はややこしくてわかり辛い。
ジアードには使えないどころか殆ど見えないものなのだから、なかなか理解が及ばないのだ。
一度整理して考える必要がありそうだ。
ジアードが溜息をついた時、アルヴィン・ローリーが成仏した後もずっと周囲をただよっていた光がタイに何か語りかけた。
《おいこら、犬》
どうやら犬と呼ばれるのが嫌いらしいタイは不機嫌そうに半眼で光を見上げた。
《俺はもう寝ていいのか?》
タイは首を回しこちらを窺った。
その視線に答えたのは飼い主だ。
「いいよ。起こしちゃってごめんね」
光はまた数度瞬いて返事をした。
すぅっと上の方に飛んでいこうとしたが、思い直したように戻ってきた。
迷わずまっすぐに向かってきたのは、フアナの目の前だ。
《手を出せ》
フアナは目を丸くしながら両手を胸の辺りで開いた。
どこからかポトリと赤いものが落ちてくる。
「木の実?」
《俺のつくった種だ。ここに根を下ろした俺はもうどこにも行けないけど、こいつはまだ動けるからな。俺の友達を連れてきた女にやる。
大切にもっていけよ》
そう言い残し、今度こそ光は上空に上り、木の幹に吸い込まれるように消えていった。
タイが言うには、あの光はこの森が雪に覆われている間あの木の中で冬眠するのだと言う事だ。
精霊も冬眠をするのかと問うと、「広葉樹の精だからね」と、いつの間にかいつもの琥珀色の瞳に戻っていたダウィが答えた。
フアナはしばらくその木を見上げていたが、やがて「帰ろうか」と言った。
その足元にはあのとても小さな鹿が寄り添っていた。