解放の儀式
この国についたばかりの時に一度だけ、ダウィが魔族と戦うのを見た。
その魔族は人と同じ二足歩行であったが、身体能力や身のこなしは獣に近かった。その上、魔術による攻撃――
ジアードがこれまで身に付けてきた戦法はおそらく使えない。
恐怖と興奮に体が震えた。
茂みを揺らし現れたのは一匹ではなかった。
二匹。それも以前ヤローが射落としたような小型のものではなく、人間と同じサイズの魔族だ。
片方は国境の町で見たのと同じ、太い尻尾に鉤爪をもった明らかな異形。
もう片方は指がやけに長く常人の倍ほどもあり、爪が異常に尖っているものの、それ以外に人と違う所はあまりなさそうに見えた。ローブに付いたフードを目深に被る中年の男……服装だけなら魔術師か聖職者かといった風貌だ。
問題はその爪が淡い燐光を放っている事。
「ダウィ。右の奴、魔術」
魔力がまったく見えないらしいダウィに注意を促す。
すると彼はすぐに長剣の先を人に近い形の魔族に向けた。
「ジアード、お前尻尾行け」
「けど、ローブの方は魔術使ってるぜ」
「ただの結界だよ。ローラクについた時に結界を張ったのも多分こいつだな。――タイ! フアナの援護」
飼い主の命令を受けて、犬はフアナの側に駆け寄って身を低くした。
ここは魔族との戦いに慣れているであろうダウィに従うべきだ。普通ならそうだろう。だが、魔術師ギルはダウィの事を崖際を歩く盲目の人に例えていた。それほど危険だというなら――
「逆の方が良いんじゃねえか」
尻尾の方を睨みつけながらも、ジアードは一応聞いてみた。
だがダウィも譲らない。
「人型は高位の魔族だ。慣れてる俺の方がいい。心配いらないよ」
確かに、代わろうかと持ちかけはしたものの、魔術を使う相手との立ち回りなど思いつかなかった。
――さっさと目の前のトカゲ倒して手伝いに行った方がいいか。
ジアードはヤローからもらった剣を握りなおし、尻尾を持った魔族に向かって駆けた。
* * *
「――くっ」
フアナは下唇を噛んだ。
自分の結界の上から魔族の結界をぶつけられて息が詰まりそうになる。
その上、組み上げた魔術は属性の違う魔術に干渉されて崩れそうになっている。
――あと少しなのに!
立て直すべく両手に魔力を籠めなおした時、背後で大きなものがぶつかる音がして振り返った。
魔族の放った魔術が茂みに当たったものらしい。相対していたダウィはギリギリで避けたのか、体勢を立て直す所だった。
そしてその向こうでは、魔族の馬鹿力に押されてジアードがバランスを崩した。よろめいた瞬間に鉤爪が上着の袖を裂く。
思わず意識がそっちに向きかけた時、頭の中で声が響いた。
《お前は集中してろ!》
「タイ――」
すぐ隣でフアナを睨みつけていたのは白い犬。
目が合うと、宥めるような声色で語りかけてくる。
《あいつらは大丈夫だ。だからお前はお前のやるべきことをやれ》
その言葉と同時に、急に周囲の空気が軽くなった。
タイが魔族の結界を中和しているのだ。
敵の張った結界を無力化するのに一番簡単な方法は上から強力な結界を張って「上書き」してしまう事だ。おそらく魔力量の多いタイならそれが出来る。
だが今タイが試みている「中和」は互いの魔力を拮抗させなければならない繊細な魔術だ。高い集中力が求められ、その間どうしても無防備になってしまう危険な方法でもある。
それでもタイは調整の難しい結界の中和という方法を選んだ。
土属性の魔術を操るタイの結界は必然的に土属性になり、火属性のフアナの魔術を弱めてしまうからだ。
解放の魔術を成功させるために、全員が力を尽くしてくれている。
フアナは両手に力を籠めた。魔力を高めるための半貴石が掌の柔らかい皮膚に食い込み、微かな痛みを訴える。
徐々に頭が冷静になっていく。
まだ自分の組上げた魔術は壊れていない。
今からでもまだ間に合う。
「うん――もう、大丈夫」
* * *
放たれた魔力の弾を、ダウィは破魔石で出来た剣で受け止めた。
爆発する力が周囲の土を巻き上げ、視界が悪くなる。
土煙にまぎれるように地面を蹴った。
――ズシャッ!
暗赤色の液体が周囲に散る。
「腕だけか!」
ごろりと転がった長い指の生えた腕を見て舌打ちする。
あと一歩踏み込めていれば首に届いた。
ダウィはもう一度剣を構え、うろたえる魔族を見据えた。
すでに体液の流出は止まっていた。そこが『人』とは違う所だ。
痛みは感じない訳ではないが、それを自分の意思で遮断することもできるらしい。
事実、傷による痛みや混乱は目の前の魔族には見られない。
だが、ただの人間に深手を負わされるとは思っていなかったのだろう。
人間に近い顔に困惑と焦りの色を浮かべていた。
しばし迷う素振りを見せた後、魔族は失った左腕の付け根を押さえながら叫んだ。
「引くぞ!」
その声に応じ、ジアードと切り結んでいたトカゲ男も慌ててジアードから距離を取った。
そして……
――ドゴンッッッ!!
盛大な爆発音と同時に魔力が解き放たれ、その隙に魔族たちは姿を消した。
「逃げられたね」
剣についた魔族の体液を払いながらダウィが言った。
「追うか?」
「フアナを一人にはできないよ」
今の二人の任務はフアナを守ること。この場を離れている隙にフアナが危険な目にあったのでは本末転倒だ。
魔方陣の方をうかがえば、彼女に寄り添うように座ったタイが安堵したかのように頭を地面に垂れている。あの魔力に敏感な犬が寛いでいるのだから当面の危険は去ったのだろう。
剣を収めたダウィに習って、ジアードも剣を鞘に戻した。
「何はともあれ、全員無事で良かった」
そう言って振り返ったダウィは――
「お前、その眼――!?」
「ああ」
驚愕に目を見開き指差すジアードに、ダウィはなんでもない事のように笑って見せた。
柔らかく細められたその眼が……琥珀色の瞳が、鮮やかな緑色に染まっていた。
「それ、平気なのか?」
魔族に何かされたからではないのかと問うと、ダウィはいつもの笑顔で否定した。
「平気。本当はこっちが生まれつきなんだ。すぐ戻るよ」
意味のわからない事を言っている間にすぅっと緑色がひいていき、見慣れた金の輝きが戻る。
「な、なんだ!?」
「この間はギルに叱られたし、手を抜くわけにもいかなかったからね」
ジアードが何度瞬きしてみても、もう完全にいつものダウィの眼だった。
説明するよと言ってダウィはジアードを手招いた。
集中するフアナの邪魔をしないように配慮して距離を取り、二人並んで適当な倒木に腰掛けた。
「俺は魔力が無いって言われているけど、生まれた時から無かった訳じゃないんだ」
ぽつりぽつりと話し出す。
「途中で無くなったってのか」
魔力の何たるかはまだ理解できていない。だからそういう事もあるのかと聞いた。
だが、ダウィは首を横に振る。
「無くなってはいない。
あの絵本と一緒。封印されているようなものなんだよ。魔力のひとかけらも漏れないくらい厳重にね。
この目の色も、その術の影響でね。それまでは父と同じ緑の目をしてた。本当は、髪の色もこんなじゃ無かったんだ」
光が当ると金に見える琥珀色の瞳。麦秋の畑のような黄金色の髪。
どちらも珍しい色だとは思っていたが、まさか魔術によるものだとは思わなかった。
けれど、そうなると疑問が出てくる。
「魔力を封印したって事は、封印するほど魔力があったって事だよな。魔術師だったのか?」
ダウィは再び首を横に振った。
「魔術師なんてとんでもない。むしろ魔力を扱うセンスが壊滅的で、身体に異常があるんじゃないかってあちこちいじくりまわされたくらい。主にギルにね。
だから魔力が封印されても魔術が完全に見えなくなった以外に何の影響も無かったし――もう二十年以上もそれだからね。封印の存在すら忘れかけてた」
「魔術師じゃねえなら、なんで魔力を封印なんてしたんだ?」
今まさに封印を解く魔術を構成しているフアナとダウィの目を見比べた。
「形だけでも、罰は必要だろうってさ」
「罰って何の」
ジアードはダウィの年を知っている。旅の途中で旅券を目にしていたからだ。そこには名前と一緒に生年月日も記されていた。
「二十年以上前って、五歳とか六歳とかだろ? いったい何をしたんだ」
そんな子供に何ができる。
だが、その問いに答えはなかった。
「……ほら、魔術が完成したみたいだよ」
ダウィの視線の先で、フアナがゆらりと立ち上がった。
炎のような緋色の渦を身に纏い、彼女は深く息を吐く。
「解放します」
小さな宣言の言葉と共に、緋色の奔流が魔方陣から溢れ出し、周囲を一瞬あかく染めた。




