儀式の始まり
アルヴィン・ローリーという名の芸術家の生まれた家は、国家反逆罪に問われた犯罪者の家として燃やされていた。それが百年も前の話であるから、当然炭化した柱も地面の焦げ跡も残さず全て森にのまれている。
だが、「そこ」へ行ってみれば周囲と比べて少し植生が違う。巨木が交わす枝葉が途切れ、僅かに空が見える。そこから差し込む陽光を求め伸びる木もまだ幹が細い。
だから辛うじて「ここだったんだろう」程度にわかった。
それでも道なき道を通ってここまで来れたのは、一重にこの謎の犬の――タイのお陰であるわけだが。
当然匂いを辿ってきた訳じゃない。
そこらに居る(らしい)精霊とかいう目に見えない存在に案内してもらったのだ。
この精霊というのはまったく謎だ。
タイと話をするフアナのように、魔力のある人間となら話のできるイキモノなのかと思いきや、魔術師であるフアナにすら見えない存在であるらしい。
曰く、「集中すれば居るかもしれない事を感じられる気がする……かも」などという非常に曖昧な存在。
ソレとこの犬は当然のように言葉を交わしたそうだ。
『百年前まで人間が出入りしてた場所を教えて』
『百年? 何ソレ、ドレ位?』
『ちょっと前。火の精霊が大暴れした場所』
『知ッテル知ッテル!』
『連れてって』
『イイヨー』
そんな軽いノリであったらしい。
まあそれを話してくれたフアナもタイの言葉しか聞き取れず、精霊の言葉はタイを経由してのまた聞きであるため正確であるのかはわからないが。
「なんつーか……百年ってちょっと前か?」
普通の人間に過ぎないジアードにはそれくらいしか言えなかったのは仕方あるまい。
とりあえず見た目はただの犬のタイも、ジアードの何十倍という年齢なんだろうとだけ想像した。
他の小難しい説明を脳が拒否したという訳では決して無い。
「とりあえず、ここで良さそうなら準備をしようか」
精霊とかいうのと会話をしてしまう妙な犬の飼い主は、ピクニックにでも来たような口調で言って荷物を下ろした。
――いや、違う。それ完全にピクニックだろ。
比較的平らな岩の上に鞄から取り出したサンドイッチを並べていく。
真っ先に手を伸ばしたのはフアナだ。
「鶏ハムも~らい!」
茹で鶏だか蒸し鶏だかのサンドイッチを嬉しそうに口に運んでいる。
その足元で皿に鼻を突っ込んで野菜サンドを齧っているのはタイだ。
――野菜好きの犬って何だよ!
今更ながらにそう思う。
試しに、自分のサンドイッチに入っていた塩漬け肉を犬の鼻先でちらつかせてみたが、「ふんっ」と鼻を鳴らして無視された。
「『それくらいならその人参のマリネを寄越せ』だって」
「タイって野菜と乳製品が好きなんだよ」
通訳担当と飼い主が口々に言う。
「……なあ。それ本当に犬か?」
ジアードの本気の問いにも飼い主はけろりとして言う。
「犬にしか見えないでしょ」
途中数年のブランクがあるとはいえ、知り合って六年あまり。その間ずっと賢い犬程度に思っていたのはジアードだって一緒だ。けれど、この国に来て――魔術師と出会ってからその印象は一変した。少なくとも普通の犬じゃない。
ジアードよりも深く付き合っている飼い主なら尚の事だろう。
どうしてコレを犬として扱うのだ。
それについてはタイから魔術の小技などを教えて貰っているらしいフアナも疑問に思っていたようだ。
「そもそも、どうして魔力無しのダウィと魔術師レベルのタイが一緒にいるの?」
ダウィは腕を組んでしばらく考える素振りを見せた。
「……神託説と、夢のお告げ説と――あ。母さんの遺言説っていうのもいいな。どれがいい?」
「あからさまに嘘でしょ、それ」
「魔神の使いとか災厄の象徴か何かで高い塔に封印されていたタイを、聖剣を使って解放したっていう設定はどう?」
「設定って言っちゃってるし。それゼブラドラゴンの伝説の流用だよね」
「うーん……これ以上面白い話は思いつかないんだけど」
「本当の所をお願いします」
ちらりと見ると、話題の原因であるタイは与太話をする飼い主をあきれた目で見つめていた。
柔らかな毛に覆われたその頭をダウィがぽんぽんと叩く。
「お互い気が楽だから一緒に居るんじゃないかなあ」
なんだか良い話っぽく纏めたが、犬の方は不満らしい。冷め切った視線を受けたフアナが代弁する。
「『言葉が通じないからお前といると疲れる』だってさ」
「言葉がなくても気持ちが通じ合うのが友情だってギルが言ってたよ」
「『お前に友情なんて感じたことが無い』」
「じゃあ主への敬愛の情?」
「『誰が主だ!』」
「なんでこの犬はこんなに口が悪くなっちゃんたんだろうねー」
今度はダウィが呆れたような顔をした。
だがこれはわざとだろう。ダウィはタイをおちょくって煽って遊んでいるのだ。
タイは時々唸り声を上げたりして本気の抗議を見せるが、それでもダウィが喧嘩を買う事はない。常に年の離れた兄弟のようなノリだ。
さながらタイは兄につっかかる思春期の弟という所だろうか。
――ダウィの方がだいぶ年下であろう事は置いておいて。
タイの機嫌は、ダウィが道の途中で摘んでいたスグリの実を目にしてすっかり落ち着いたようだ。
口の周りを真っ赤にして食べる様はどこか猟奇的だが尻尾をぶんぶんと振っているのだから可愛いものだ。
「さて、大仕事の前の腹ごしらえはもう平気?」
ダウィの言葉に、水筒を抱えていたフアナが口元を拭って立ち上がった。
「任せて!」
* * *
木漏れ日が落ちる少し広い場所に魔方陣の描かれた布を敷く。
そこへ神事で使うような装飾の施されたナイフや清めのハーブ、色とりどりの宝石――魔力を帯びた特別な石らしい――が並べられる。
その中央には例の絵本。
すでに保護のための布や油紙は取り払われ、経年変化した味のある装丁が剥き出しになっている。
フアナがハーブを手に取り、短い呪文を唱えた。
――ポッ
小さな音がして乾いたハーブに火がついた。
それを手にしたままフアナは別の呪文を唱えつつ、円を描いていく。
草を焼く匂いの中に、独特な仄かに甘い香りが混じる。
この煙と灰とで魔方陣など儀式に使うアイテムとこの空間を浄化するのだそうだ。
いつもより少し大人っぽい声で呪文を唱えるフアナは、それでも一見いつものフアナだ。
頭の高い所で髪をまとめ、ショートパンツと同じ青いリボンを結んでいる。白いシャツの上からピンクのセーターを着て、足元は濃い色の厚手のタイツに毛皮の飾りのついたブーツ。森の中を歩くにはやや軽装すぎるほど、どこにでもいる町娘の格好だ。
それなのに、彼女は「魔術師」の顔をしていた。
この神聖な儀式が終わるまで、手も口も出してはいけないのだと悟らせるには十分すぎるほど。
燃えさしを皿の上に載せ、フアナはこちらへ向き直る。
「これから、解放の儀式を始めます」
先程までより少し低い――だが少女性を残した声がそう告げた。
いつもはきょろきょろとよく動く大きな丸い目に、深い知性の光が見える。
小さな手がハーブの煙の上で男を誘うようにゆっくりと動く。
酷く曖昧だ。
フアナなのにフアナでないような感覚。
まるでフアナの中に別の誰かの魂が宿ったかに見える。
ぽかんと口を開けて見守っていたジアードと目があって、ようやくフアナの顔にいつもの表情が戻った。
「どうしたの?」
「あ、いや――こういう儀式ってのは初めて見るもんだからな」
「そっか。簡単に説明した方がいい?」
ダウィやタイは心得ている様子だったので、フアナはジアードのためだけに語り始めた。
「今煙でこの場を清めたから、次にうちのお婆ちゃんがこの本にかけた封印を解くよ。絡まった糸をゆっくり解いていく感じかな。
その後、本の中に入り込んだ思念を引きずりだすんだけど……悪質な奴だったら、ちょっと危ないかも」
「危ない?」
「肉体から離れてまで居座るような強い思いだから、当然ここから出たくはないの。
だから無理矢理追い出そうとする魔術師に襲い掛かってきたり、怒り狂って辺りを燃やし尽くそうとするっていうのはまあ良くある話?」
驚いて硬直するジアードを宥めるように笑った。
「でも『この子』は多分大丈夫。そんな気がする」
ジアードにはわからないが、思念を籠めた人の個性だか性格だかというのは魔力の波動と言うのでなんとなく伝わってくるのだそうだ。
「ただね、これって結構時間がかかるの」
「どれくらい?」
「『この子』の強情さ次第だけど、だいたい一時間くらいかな。
その間にお願いしたい事は一つだけ。――何があっても、邪魔をしないで」
「するつもりはねえけどよ」
「儀式の最中に私の集中力が途絶えたら、魔力が暴走するかもしれない」
ジアードの脳裏に、砂漠でみた中央でへし折られた馬車の光景がよぎる。
「あれは遠慮したいな」
「そうならないように頑張る」
再び魔術師の顔に戻ったフアナは、本の脇に座った。
指先で表紙を撫でながら呪文を唱えていく。
古代の言葉だという聞きなれない音の連なりは独特の高低を持ち、慣れてくるとそれが歌のように聞こえてきた。
指先が紅い燐光を纏い、それと同時に魔方陣の周囲に緋色の光が踊る。
「綺麗なもんだな」
集中するフアナに気を使って、ジアードにしては小さな声で呟いた。
「……そうなんだ?」
やはり囁くような声でダウィが返す。
「ああ、見えねえのか」
そういえば、魔力が無さ過ぎて常人に過ぎないジアードが見える魔術ですら見えないのだと言っていた。
こんな綺麗なものを見ることができないなんて、なんてもったいない。
「火の粉が舞ってるみてえなんだ。
こっち来てから俺が見た魔術ってよ、あのトカゲ野郎の爆発するようなあれとか、それを氷付けにしたギルのあれだろ。ああいうの見て、魔術って怖えと思ったんだ。
けどよ。これは、なんつーか……綺麗だな」
少ない語彙だが、目に見えたものの感動を伝えようとしたのはわかったらしい。ダウィは微笑みで応えた。
「あの魔族のもギルのも、相手を否定する術だからじゃないかな。
この解放の魔術は相手を認めて受け入れるもの。だから性質がまったく違うんだって」
「つまりは使いようって事なのか」
「使う人の気持ち次第、だよ」
いくら綺麗だとはいえ、儀式に要する時間は一時間。
見守るだけの二人と一匹は邪魔にならない程度に離れた場所に座っていた。
持て余した手で犬の毛を撫でる。
ジアードの知るどの犬よりも柔らかく滑らかな毛だ。
――尻尾をパタパタしてる辺りはどう見ても犬なんだがなあ……
はたと尻尾の動きが止まった。
大きな三角形の耳がぴんと立ち、鼻が宙へと向けられる。
タイのただならぬ雰囲気にダウィが分厚いマントを脱ぎ捨てた。
「――何か来たみたいだよ」
タイの唸り声が静かな森に浸透していった。
「あと少しだっていうのになあ」
ダウィが剣を抜き放つのを見て、ジアードもそれに倣った。
タイの様子からしてまた魔族が来たのだろうとあたりをつけ、荷物の一番上にあった布包みを開いた。
以前フアナに説明した小振りな丸い盾だ。
剣が効かないというから盾についたスパイクも効かないだろうが、身を守る役目くらい果たすだろう。
息を整えていると、フアナがちらっとこっちを覗うのが目の端にうつる。
「余所見するな――お前に手出しはさせねえ」
大きく首を縦に振って頷いたらしい。後頭部でくくった髪が踊った。
何が出てくるかわからないが、フアナには――『彼女』と同じ髪の色をした少女には、指一本触れさせない。
ジアードは心を決め、汗をかいた右手に力を籠めた。
――今度こそ、『彼女』を守る。




