フアナの鼻歌
窓口の受付時間が終了し、表の扉が施錠された。
きびきびといかにも軍人らしい身のこなしの男が、出る時は裏口を使うようにと告げ、魔術師に敬礼して去って行った。
人気の無くなったロビーには魔術の火の灯るランプが一つ壁にかかっているが、それ以上の光源は無い。揺らめく事の無い明かりが俯くフアナの横顔に深い影を落としていた。頭の後ろの高い所で結わえられた髪がはらりと落ち、更にその表情を隠す。
すっと白い影が視界を横切った。
軍人達が出入りする間は遠慮してか部屋の隅で丸くなっていたタイだ。
少女にどう声を掛けようか迷っているジアードを馬鹿にするように鼻を鳴らし、彼女の足元に蹲った。
ふわふわとした毛に擽られて、フアナはようやく顔をあげた。
「ダウィ、長いね」
長い廊下の向こうを見やってか細い声でつぶやいた。
ここに来てすぐ、四人はそれぞれ別々に事情聴取を受けた。
扱いは丁寧でジアードとしては何の不満も無かったが、軍人と話す機会すらなかった一般人の少女には相当な緊張を強いる体験であったらしい。
唯一人なかなか戻らないダウィをずっと心配していた。
「正当防衛でも時間はかかるだろう。手を下したのはあいつだからな。俺たちは目撃者、あいつは犯人。扱いも違う」
口を滑らせてから、しまったと思った。
もう少し言い方というものがあったはずだ。
だが時すでに遅く、フアナは不安げな顔をして隣に座るジアードを見上げた。
「犯人か……大丈夫かな……」
ちらりと下を見ると、タイがこちらを睨んでいた。
――どうにもうまくいかない。
自分は器用ではないが不器用でもなかったはずだ。
「普通の女の子」という生き物が傷つきやすい事はわかっていたはずなのに。
謝罪の言葉すらうまく口にできなくて、代わりに少女の頭を撫でた。
指が当ってくくった毛先が揺れる。
ああ。調子を狂わせる原因はきっとこの髪の毛だ。
――彼女と同じ色の……
気がついてしまえば手を下ろせなくなってしまった。
弟妹の頭を撫でるように触れたことがあったかもしれない。けれど意識して触れたことは無かった。彼女の髪の毛は……こんなに柔らかかったろうか。指の間を滑り落ちていったろうか。
「ジアード?」
「……悪い」
何故謝られるのかわからないという顔でフアナが首を傾げた。
――勘弁してくれ。自分でもこの思考に問題があると自覚はしてるんだ。
目を逸らした先でまたわずかに影が揺れた。
今度はタイではなく瑠璃色のローブを纏った魔術師だ。
ずっと向かいのソファで眠っているかのように動かなかったのだが、ジアード達の会話を耳にして身じろぎしたらしい。
閉じられていた瞼が細く開く。切れ長な一重の下から真っ青な瞳がちらりと覗いた。
澄んだ涼やかな声が薄い唇から漏れる。
「ダウィは相手が異形だったから詳細を聞かれているだけだ。処罰を受ける事はないし、これ以上足止めされないよう取り計らってきた」
声色からは伝わらないがどうやら不安がるフアナを気遣っての物らしい。
ぽかんと口をひらいて男を見ていたフアナが小さな手をぎゅっと握った。
意を決したように、魔術師の青瑪瑙色の目を見据えた。
「あの――ギル……ギル・ナトサーレ様、ですか?」
微かに震える声で問いかける。
その名をジアードは知らなかったが、確かにダウィがギルと呼んでいた気がした。
魔術師は気負うでもなく首を縦に振った。
「本物……ですよね」
「偽者には会った事がない。お前はソユーの孫だな」
「フアナです」
「リサから少し話を聞いた。ソユーの若い頃にそっくりだ。それで、そっちが……イーカルから来た騎士だったか」
ジアードをみやると、フアナがかわりに紹介した。
「はい。ジアードって言います。
ジアード、この方は世界第三位の魔導師で水の賢者とも呼ばれている――」
「ギル・ナトサーレ。ただの年寄りだ」
自分よりも若そうに見える、というのが表情に出ていたのか、魔術師はジアードににやりと笑ってみせた。
「こう見えても、お前の十倍は生きてる」
「人間――?」
「こら、失礼よ!」
フアナがジアードをはたいた。
「気にするな、慣れてる。
まあ、ちょっと人間離れしちまったが、両親は間違いなく人間だったよ」
魔術師はおかしそうに笑い、肩を震わせた。
実際の所は何歳なのだろう。その仕草は若者と変わらない。
一頻り笑うと、ダウィのいるであろう方向にちらりと目をやり、貴石を埋め込んだような青い瞳にジアードをうつした。
「騎士なら、あいつの同僚か」
ジアードの目を覗き込む顔は真顔だった。
「お前もさっきのトカゲ男の魔力、見えていたよな」
何を言いたいのかと相手の様子を探りながらジアードは言葉を選んだ。
「……腕が光ってたあれか?」
「そうだ。普通の人間ならそういう風に見える。だが、魔力を持たないあいつには発動する瞬間まで何も見えないらしい」
「ああ。ザルの方がマシな虫けら以下――だっけか」
「なんだそれは」
「ダウィの魔力が死体以下だとかいう」
ギルは吹き出した。
「そんなことを言う奴がいるのか」
フアナがばつの悪そうな顔で横を向いた。
「確かにあいつは虫けら以下だな。俺みたいな魔術の世界に生きている人間からしたら、なんであんなのが生きていけるのか理解ができない。
例え魔術が使えなくても――お前のような常人だったら、魔力をためる所が見えているから『次はアレが来るな』と避ける準備ができるだろ? だがあいつにはそれができないんだ。そうだな……目をつぶって戦うような物だと思えばいい。それくらい魔術を使う相手とは相性が悪い。
今まで散々ふっとばして試してみたが、特に至近距離じゃあいつは絶対に避けられない」
「ふっとばしてって」
聞きとがめたジアードの呟きをギルは右から左に受け流した。
「だから、見える奴はあいつの目になってやれ。『避けろ』とでも言えばあいつの運動神経ならなんとかなるだろうから」
一通り話し終えると、ぽかーんとした顔で見ているフアナを軽く睨んだ。
「……なんだ」
「え、いや、な、なんでもっ」
「気持ち悪い」
「その……ちょっと、ほんのちょっとだけなんですけど、怖い人かと思っていました」
その言葉にピクリと眉をあげたが何も言わず先を促した。
「でもダウィの事を随分心配してるみたいだったから、優しい人なのかなーとか」
ぼそぼそと言い訳のように言葉を連ねるフアナを見て、ギルはニヤリと笑った。
「――お前、さては男に騙されやすいタイプだな」
「うぐ」
心当たりがあるのか、フアナは渋い顔をした。
「目の見えない人間が崖の側を歩いていたら、お前も『そっちは崖だ。気をつけろ』と声を掛けるだろ? それと同じような感情だ。優しさとは違う」
何か言い返そうと息を吸ったフアナがはっと表情を変えて奥の方を見た。
「ダウィ!」
ようやく開放されたらしいダウィが薄暗い廊下の向こうから現れた。
「大丈夫!?」
「うん。待たせちゃってごめんね」
駆け寄るフアナとその後をのっそりついて来たタイの頭を交互に撫でた。
「もうこれで開放だって。調査の状況次第では質問することがあるかもしれないから時々連絡寄越せって言われたけど。
――ギルが上に話通してくれたんだってね。ありがとう」
「俺は使える物は使う」
「ところで珍しくギルが饒舌だったみたいだけど、何話してたの?」
「ソユーの若い頃は綺麗だったという話だ」
「フアナと似てる?」
「髪を切ったら瓜二つだな」
「へえー」
ダウィはフアナの顔をまじまじと見つめ「百年くらい前の事かな」と真顔でつぶやいた。
――それじゃあ祖母じゃなくて四代は前の先祖じゃねえか。
心の中でつっこんだのはおそらくジアードだけではない。
タイも飼い主を冷ややかな目で見ていた。
「じゃあ宿に行こうか。
フアナ。ギルから聞いたかな。今夜の宿にはお風呂があるらしいよ」
「やった!」
喜ぶフアナを見て、ギルが呟いた。
「なんだ、風呂に入りたかったのか」
「砂漠超えてきましたからね、もうべたべたです」
「風呂好きだからというわけではないんだな」
「いえ、大好きです!」
拳を握り締めて力説するフアナに、ギルは表情を緩めた。
「それなら明後日は温泉を手配しよう」
「温泉?!」
「この国は火山が多い。山に近い所は掘れば温泉が沸く」
フアナは手を叩いて歓声を上げた。
* * *
「おっんせんはっ おっはだにいいぞぉ♪ つ~るつ~るぴ~かぴ~かゆでたまご~♪」
上機嫌で謎の鼻歌を歌うのはフアナだ。
昨日から同じ歌を歌っているが、歌詞やメロディーはその度に少しづつ違っている。どうやら自作の歌のようだ。
狭い車中。同行者が楽しそうなことは歓迎すべきなのだが、彼女はあまり――歌が得意でない。
御者台に避難したタイが前足で両耳を塞いで蹲っているのが何よりの証拠。
一方その飼い主は、フアナの隣でまるで歌など聞こえないかのように膝に抱えた本のページを繰っていた。
ダウィの心が広いのではない。こっそり確認した所によると、単にあまり音楽に興味がないので音が合っていても外れていても気にならないのだそうだ。
――俺もあっちに逃げてぇ……
御者台の方を睨みながら心から思った。
今彼らが乗っているのは魔術師ギルの用意した馬車だ。
これまでの旅で借りていた幌馬車とはまったくつくりが違う。
箱型で窓ガラスの嵌った――ジアードの以前住んでいた国なら王侯貴族以外使わないような立派な馬車だ。だが、この国では一般的とまではいかなくとも珍しいものではないらしい。理由を問うと「幌馬車なんて使ったら凍え死ぬよ」とダウィが怪談話を語るような表情で答えた。
つまり、極寒の雪国という条件の下、人を乗せるための馬車は箱馬車のような保温を考慮されたつくりをしているのだそうだ。
保温を考慮するということは気密性が高いという事だ。
車中の歌は外に漏れず壁に反響し、外にいるものはタイのような獣の耳を持たぬ限り中の音を聞かずに済む。
現に、「偉い人」の癖に御者を買って出たギルは涼しい顔をしていた。彼が今日手綱を取っているのは昨日フアナの隣に座って辟易したからだとひそかに思っている。
そんな馬車の気密性のせいか、ジアードがその匂いに気付いたのは目的地がだいぶ近くなってからだった。
「……何か妙な匂いがするな」
匂いの原因を探るように鼻をひくひくさせていると、ダウィがガタガタと音を立てて窓を開いた。
冷たい外気と一緒に何かが腐ったような強い匂いが一気に入り込んでくる。
フアナもこのときばかりは歌うのをやめ、鼻をつまんだ。
「なにこれー」
「硫黄の匂いだよ」
「いおー?」
「この辺りの温泉に含まれている成分。ウォーゼルの温泉とは少し泉質が違うんだよね。
少し強い匂いだけど、ここの温泉は美人の湯として有名だよ」
フアナは目を輝かせた。
砂漠で荒れた肌が戻るかも!などと言ってまた上機嫌で歌いだした。
ジアードは逃避するように開け放たれた窓から緩やかな斜面に目をやった。
「もしかしてあれが温泉ってやつか?」
白い煙が行く筋も上がっているのを見つけた。
「あれが全部湯気なのか」
「そう。この山の中腹に温泉の村があるんだ。
そこから西に行って山脈を超えるとサザニア、東に行くとウクバの森」
鼻歌を歌う少女も聞いていないようで聞いていたらしい。
「っていうことは、ギル様とはそこでお別れ?」
名残惜しそうに御者台を見た。
ダウィもつられて振り返るが、同じ「名残惜しそう」でも尊敬の念を含んだフアナの目とはだいぶ違う。
「そうだね。快適な馬車の旅もここまでだ」
「歩くのが嫌なんじゃなくて寒いのが嫌なんだろ」
「あ、ギル聞いてたの」
「お前は声が大きい」
青瑪瑙色の目がちらりとこちらに向けられた。
口数の少ない魔術師も、ダウィとは気軽に言葉を交わす。
いつも出来の悪い弟を叱るような口調だが、言われた方は何を言われても気にする事なく、それこそ兄に対して抱くような信頼を寄せているようだ。
他者の入り込みづらい兄弟喧嘩のような応酬がはじまったのでジアードは再び窓の外に視線を向けた。
木々の間に見え隠れする焦げ茶色の瓦屋根を眺めていて気がついた。
「大きい村だな」
全貌の見えないこの場所からでもかなりの数の建物がある事がわかる。地名は「村」でも規模からすると村というより町だろう。
「人口は五百に足りないくらいだ」
ギルが意外な事を口にした。
戸数からして明らかにそれでは足りない。
疑問の顔に気付いたダウィがそれを補足する。
「ここは温泉の湯治客が多いから、建物の殆どは宿や別荘なんだ」
住人より滞在者の多い村という事か。
「この村の場合は温泉が最大の資源だけど、それ以外の所でもこの国は温泉や地下の熱で成り立ってる国なんだよ」
マントの前をあわせ、恨めしげに寒風の進入してくる窓を睨んでいたダウィが急にいきいきと語りだした。
「火山に囲まれた国で、雨や雪もよく降るから、だいたいどこでも温泉が沸くんだよね。だから、その蒸気やお湯を引っ張ってきて、部屋を温めたり、料理をしたりするんだ。
それに、こんなに寒い場所だと冬場は獣を狩るくらいしか食料調達の方法がないのが普通なんだけど、温泉のおかげで畑や池を暖める事もできるんだよ。だから冬でも野菜を育てたり魚の養殖が可能になる。
後は、この国の輸出品だと織物や木をまげて作った桶が有名だよね。そんなのも温泉に浸してじっくりあっためて成分を浸透させながら作るんだって」
一気に解説されてもなかなか理解が追いつかない。
聞き手側の抱く感想は一つだ。
ジアードの心に浮かんだのとまったく同じ感想をフアナが口にした。
「温泉ってすごいねー」
熱弁に対して随分そっけないものだが、ダウィは気分を害する事無く続けた。
「ウォーゼルじゃお風呂として使う以外には怪我や病気の治療くらいしかきかないよね」
「お肌がつるつるになるんだって!」
「そうそう。うちの奥さんもそんなこといってた」
「砂漠ですっかりかさかさになったお肌も治るといいなあ」
「それは一日二日でどうにかなるかなあ」
残念そうな顔をするフアナにギルが告げる。
「ローラクに住めばいい。いい所だぞ」
それもいいかも、などと楽しげに話すフアナを横目にダウィが小声で呟く。
「……寒いじゃないか」
「そればっかりだな、お前は」
また弟を叱るように言い、青い瞳をダウィに向けた。
「ソメイクは確かに生活しやすいが、厳しい自然の中でこそ見出せるものもあるだろ」
「まあそうだけど」
「お前みたいな甘ちゃんこそ一度ここに住むべきだ」
「夏だけならいいよ」
「それじゃ意味が無い」
――「兄弟喧嘩」が第二ラウンドに突入したらしい。