薄幸の美少年
「見えてきたね!」
フアナが地平線の向こうを指差す。
「国境だぁ!」
この間の城郭都市よりも更に背の高い壁が延々と続いている。
壁の色は赤銅色。
この距離ではそれが石なのか煉瓦なのかもわからないが、以前通ったあの町の砂色の壁とは明らかに素材が違う。
砂漠の終わりを感じさせる色だ。
「夕方には着くかもね」
今日も手綱を握るのはダウィ。
砂漠の「道」を知っているのがこの男だけだからなのだが、そろそろジアードでも交代する事ができるかもしれない。
行く先の荒地の真ん中にちゃんとした道が見える。
城壁と同じ色の石で舗装された道はまっすぐに国境へ続いているようだ。
「今のうちに国境通過に必要な物を確認した方が良いね。旅券と査証、それにジアードは辺境騎士団の指輪」
「はい!」
自慢げに旅券を広げ、査証の貼り付けられたページを見せつけてきたのはフアナ。
査証は全員ウォーゼルの公館で取得したので名前以外まったく同じだが、旅券はそれぞれが母国で用意するものだ。
「形が違うんだな」
自分のそれをひっぱりだしたジアードが呟く。
フアナの手にあるのは、蛇腹に折った紙に紺色のしっかりした表紙がついた縦長の冊子。ジアードの物は紙を蛇腹に折って表紙がついているところまでは一緒だが、表紙の色は緑色で横長だ。
「私はウォーゼル人だからね。イーカル王国のは――小さめ?」
「そういやそうだな」
二つ重ねてみると一回り違うようだ。
「アスリア=ソメイク国は手帳型なんだよ」
ダウィの取り出したそれを、フアナが受け取り床に三つ並べておいた。
一番左に置かれたのは、ウォーゼル王国の物よりも一段階暗い濃紺の手帳で、表紙には黄色いラインと白い型押し。その色使いはこの間見た兵士の制服とまったく同じだ。
そういえばジアードの持つ旅券の緑はイーカル王家の色でもあるので、それぞれに国を象徴する色を使っていると言うことだろうか。
中身を見比べ始めたフアナを見ていてふと気がついた。
「ダウィも持ってるんだな」
御者台のダウィが振り返って「何を?」と聞いた。
「昔イーカルに居た時に孤児で戸籍はないとか言ってたから旅券も持っていないのかと思ってた」
「ああ、最近作ったんだ。俺たちは良いけど、子供達には戸籍が必要だろうと思ってね。やっぱりあると便利だよねー」
「――っておい。その前はどうしてたんだよ」
二人が出会ったのはここから国境を三つも越えた場所であったはずだ。
ダウィは顔色一つ変えず、いつもの笑顔のままで答えた。
「密入国」
「おい」
治安を維持する側であるはずの騎士がそれじゃあ不味いだろう。
ダウィははぐらかすつもりなのか、国境の方へ目をやった。
「おー。判子がいっぱい押してある!」
フアナの歓声が車内に響いた。
濃紺の旅券の入国スタンプの押されたページを突き出されたので受け取ってそれを眺めた。
日付からすると二年分だろうか。だがスタンプの押されたページは五ページに及んでいる。
「こりゃすごいな」
「大陸中ふらふらしてるから」
「行った事無い国は無いのか」
「うーん……イーカルより西には行った事がないかな。他の大陸に渡った事もないし」
物珍しさでぱらぱらとめくり、前の方でふと手を止めた。
「ダウィ・C・クライッド」
「うん?」
突然名前を呼ばれて、ダウィが振り返った。
ジアードは旅券の個人情報の記されたページを開いて見せた。
「これって国の発行した正式な書類なんだよな?」
「そうだね」
「ミドルネーム、なんつーんだ?」
「C」
その答えに脱力した。
「……今までなんかの略なんだと思ってたよ」
――なんだ「C」って。そりゃ名前っつーより記号じゃねえか。
ジアードが前に住んでいたイーカル王国ではミドルネーム自体は珍しく無い。英雄の名である「ジアード」は国内で一番多い名前であるため、特に「ジアード」の名を持つ子供には通称となるミドルネームをつけるのが一般的だ。
その辺りは民族によって事情が違う事も多民族国家出身のジアードは知っていたので、フアナに目をやるが、彼女の母国でもこういう名前は珍しいようだ。
「私もカルロスとかセシリオとかそういう名前なのかと思ってた!」
ダウィは笑いながら、戻ってきた旅券を再び鞄にしまった。
「カルロスにしても良かったかもしれないな」
「あはは。でも、私が言うのもなんだけど、カルロスじゃファーストネームとのバランスが微妙だったね」
「それは残念。そういう男らしい名前、好きなんだ。
子供の頃は痩せてて背も低くて、よく女の子に間違えられたからね。多分その反動」
「ああー。解る気がする。今も美人だもんね」
「そう? ……ありがと」
フアナの悪気のない言葉に、ダウィが複雑な表情を浮かべた。
美人というのは女性に対する褒め言葉じゃないかとつっこむ間もなく、フアナの舌鋒はジアードに向いた。
「その点ジアードは子供の頃からがっちりしてたんだろうなあ」
大柄な民族の中でも特に背の高いジアードは軍人をしていただけあって筋肉もそれなりについている。フアナはそれをさして言ったのだろう。疑う余地もないという口調だったので、唇の片端だけを上げてニヤリと笑ってみせた。
「小さい頃は薄幸の美少年として通っていたかもしれないじゃないか」
「ないない」
あっさりと否定するフアナの隣で、ダウィも大きく頷いた。
「薄幸の美少年が軍馬四頭も潰さないよなあ」
「――お前なんでそれを」
「なになに?」
体を硬くするジアードとは対照的に、興味津々といった体で身を乗り出すフアナ。
「ジアードの出身地の辺りは元々イーカル王国じゃなくて、隣のヨシュア王国の物だったんだよね?
で、それを力ずくで奪われて、カッとなったジアードが――」
「親父と兄貴が死んでるんだよ、その戦で」
重たい事実を、淡々と言葉にする。
「だから駐留に来たイーカル軍人を見たら、思わず飛び出してた」
そういや、こんな話今まで誰かにした事なかったなと心の中で呟いた。
遠い昔の話だけれど、故郷に居たときにはまだ消化しきれず自分の外に出すのが怖かったのだ。
「まあ、暴れては見たものの、あっという間に取り押さえられたよ」
当然だ。子供の頃から剣術教室に通っていたからと言って本職になんて勝てるわけが無い。
「結局軍馬四頭の足を折っただけで、兵士達に俺の刃は届かなかった。悔しかったね。誰一人殺せずに、自分が殺される事が。
これでお仕舞いかって覚悟した時、そこにイーカルの将軍が現れたんだ。
『お前ら子供一人に大切な軍馬を四頭も潰され、地面に転がされたのか! イーカル軍人として、恥ずかしいとは思わんのか!』って兵士達を叱った。
――それが十二歳の頃だったかな」
笑い話の真逆の位置にある告白を黙って聞いていたフアナは、あきれたような口調で言った。
「薄幸の美少年からは程遠いエピソードね」
「うるせー。十分不幸そうじゃねえか」
「ごめんごめん。それからどうしたの?」
「その将軍に『俺が連れて行く』って言われた。
反逆者として取り押さえられてる所だったからな。まあ有無を言わさず引っ立てられて、王都に連れてかれた。
それから近接戦闘専門の連隊に放り込まれてな。逃げようと思えば逃げれたんだろうけど、その将軍が変わり者だったんだよな。将軍の側に居たかったから俺はすぐには逃げなかった。
まあそれに、俺の居た連隊はイーカル人以外の奴が多くて馴染みやすかったってのもあるかな。
で、気がついたら俺もすっかりイーカル軍人になってたって訳だ」
初めて他人に話した半生は、遠い異国の空の下でようやく『過去の事』になれた。
「ヨシュアに戦争を仕掛けて親父達を殺した前の国王も死んだし、今の国王は馬鹿だが良い奴だ。
イーカル軍に居た事になんの後悔もしてねえ」
胸の奥でたまっていたものを吐き出したら、なんだか少し軽くなった気がした。
「じゃあ、なんで軍を辞めてこっちに来たの?」
「――世界平和?」
少しためらった後、以前教えられた通りに答えてみるが、やはりすぐに否定された。
「嘘」
「まあ、なんでもいいじゃねえか」
フアナの好奇心で輝くまっすぐな瞳から逃げるようにジアードは空を仰いだ。