第二章 鼠と『鴉』 4
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昼休み、薫子は校舎裏にある芝生に寝っ転がって空を見ていた。
あのあと、休み時間のたびに、薫子のまわりに生徒が集まってきて、あれこれ聞いてくる。
転校そうそう人気が出るのはいいが、あの中にいると舞い上がってしまうのを止められない。少し頭を冷やす必要があった。
もっとも人気があるのは嬉しいが、これはという男はひとりもいなかった。
『千年桜』で霊体を覗くまでもなく、まだ未熟で稚拙な精神を持った男たちしかいない。まあ、平和な時代にのほほんとして育った高校生なのだから、あたりまえといえばあたりまえ。子供のころから死ぬような修行に明け暮れた薫子を圧倒する気を持った男などいる方がおかしい。
そんな中、きのう会った三月が妙に気にかかる。
若く見えてもれっきとした大人なのだから、高校生と比べても仕方がないが、落ち着きや優しさの中に強さが感じられる。
それも鉄の強さではなく、形を変えてもけっして壊れることのない水の強さ。
三月の霊体にくるまれたいと思った。三月に抱かれたまま、自分の霊体と三月の霊体が解け合ったら、いったいどうなるんだろう?
「はにゃん」
思わず変な声が出た。もしそうなったら、どんなに気持ちがいいだろう。
ま、まずい。依頼人に惚れては鳳凰院家の名折れだよ。
薫子は頭をぷるぷる振って、妄想を振り払う。
ひょっとして刷り込みってやつかな?
つまり、若い男の免疫のない薫子が出会った最初の男。そのせいで理想の男として頭に刷り込まれた。そういう一面もないではないだろうが、やはりあの人は特別だ。クラスの男たちとは違う。
まあ、考えようによっては、学校の男たちにうつつを抜かしている場合ではないからちょうどいい。薫子は使命を受けて、東京に出てきたのだから。
「あ、いたいた」
明るく元気な声が響いた。振り向くと、女生徒が手を振っている。
茶色い髪を真ん中で分けて、ツインテールにしている。意志の強そうな大きな目ときりっとした口元が印象的。教室で見た顔だ。名前は知らない。
「ねえねえ、ひとりが好きなの、薫子さん?」
彼女は隣に座ると、人なつっこい笑顔を向ける。
「いやあ、ちょっと男の子が鬱陶しくてさ」
薫子は上半身を起こしながらいった。
あれ? ちょっと感じが悪かったかな?
一瞬そう思った。まるで転校そうそう、もててもてて困った、といっているようなものだからだ。
「そうよねえ、あいつら異常よねえ。いくら薫子さんが可愛いからって」
だが考え過ぎだったらしい。彼女はそういうと、心底可笑しそうにげらげらと笑った。
「え、ええっと……」
「あ、あたし? 二階堂七瀬。七瀬って呼んで」
「じゃあ、あたしも薫子でいいよ」
「じゃあん、あたしが友達第一号ね? じゃあ、こんなところでたそがれてないで、あたしが学校を案内してあげるよ、薫子」
「でももうあんまり時間ないし……」
「平気、平気。なんなら放課後もつきあってあげるし」
七瀬は強引に薫子の手を引き、立ち上がった。
「ねえねえ、薫子。部活はどうする気?」
「部活はやらないと思うよ。興味ないし」
正確にいうと、やっている暇はない。この学校に通うのはどうせわずかの期間。その間に薫子は仕事をこなさないといけない。放課後はとくに貴重だ。
「ふ~ん? そういうタイプには見えないけどな」
七瀬は、あんたなにか隠してんでしょ? とでもいいたげな目つきで見る。
「まあいいわ。もし部活のことでなにか聞きたいことがあったらあたしに聞いて。文化系運動系を問わずくわしいよ。なにせあたし新聞部員だから」
たしかにこの好奇心と行動力は、そういうノリだ。将来新聞記者でも目指しているのかもしれない。
「とりあえず校内を案内してあげる。どこにいく? 学食? 図書室? インターネットが使いたいなら、情報処理室にネットにつながったパソコンがあるよ」
それは正直いってありがたかった。学校のことを探るにしても、ひととおり学校のことを熟知している必要があるし、この七瀬という子は、情報通のようだから、こっちから聞かなくてもあれこれ学校で起きたことを話してくれるかもしれない。
とりあえず、どこからでもいいからひととおり案内してもらって、いろいろ聞きだそう。
薫子が案内を頼もうとしたとき、七瀬は黄色い声を上げる。
「きゃああああ。藤枝さんよ。見て、薫子、あそこ」
七瀬はけっこうミーハーらしい。目にハートを浮かべながらぴょんぴょんと飛びはね、左手をぐるぐる回しながら、右手で少し離れたところを指さす。
見ると、ひとりの男子生徒が物憂げな表情で歩いていた。
背はけっこう高く、体は痩せ気味、とはいっても弱々しい感じではなく、なんというか、しなやかな感じだ。制服のブレザーは着崩すこともなく、優等生っぽい。ふんわりとした髪、端正で美しい顔立ちは中性的なイメージだ。ワイルドさからほど遠い、いわゆる少女マンガの王子様タイプ。彼が歩く二、三メートルあとを全身からハートをまき散らしながらふわふわと蝶のようにまとわりつく女生徒が数人。
うわっ、ほんとうにいるんだ、こんなやつ?
鳳凰院の里にも数少ない娯楽としてマンガくらいはある。それと同じ光景が今、目の前で展開しつつあった。
「で、誰よ? あの少女マンガの王子様は?」
「ね、ね、イケてるでしょう? 三年の生徒会長の藤枝さんよ。成績は学年トップで東大進学間違いなし。おまけにあんなに華奢なのにスポーツ万能のスーパーマンなのよ」
七瀬はまるでカリスマをたたえる信者のような口調でいった。
だが薫子には、さほどの衝撃は感じられない。七瀬には悪いが、自分にとってのスーパースターではない。
七瀬はまるで夢遊病者のように、ふらふらと藤枝に向かって歩いていく。
もう、しょうがないなあ。あたしを案内するって話はどうなったんだ?
薫子は苦笑いした。もっともきょう会ったばかりの七瀬に、そこまでする義務などはじめからないのだけど。
芝生の中にあった茂みから、七瀬の足下に突然なにかが走った。
薫子は反射的に、その正体を見極めようとする。だがその常人離れした動体視力が、その正体を看破すると興味を失った。
それはネズミだった。
東京ではどうか知らないが、鳳凰院の里ではネズミはべつに珍しくもない。学校に出現したことも何度かはあった。それに当の七瀬は足下のネズミに気づいてすらいない。
だが事情は変わった。なにを血迷ったのか、そのネズミが七瀬の足にまとわりついたのだ。
「きゃ、きゃあああああ」
七瀬はようやく足に絡みついたものの正体に気づき、この世の終わりのような叫び声を上げる。脚を上げ、必死にふりほどこうとする姿はまるで踊っているようだった。
薫子は跳ね起きると同時に七瀬の懐に飛び込み、ネズミをけっ飛ばした。
「だいじょうぶ?」
パニックになった七瀬の顔を覗き込む。
「だ、だ、だ、だいじょうぶじゃない。噛まれた。いった~い」
真っ青になった七瀬は、震える指で足下を指さした。
たしかに噛まれている。ふくらはぎからは血が流れていた。
変だな? ネズミがいきなり人間に噛みつくなんて。
ネズミは本来臆病な動物だ。人間が来れば逃げる。捕まえられれば反撃のために噛みつくこともあるかもしれないけど、ネズミの方から人間に向かってきて噛みつくなんて話聞いたことがない。
「君、だいじょうぶかい?」
藤枝が走ってきた。そして七瀬の傷を見るなり、「これはいけない」と叫び、七瀬を抱き上げた。いわゆるお姫様だっこというやつだ。
「保健室に行こう」
「は、……はい」
七瀬は、ネズミに噛まれパニックになったのなどいつの話か? という感じで真っ赤な顔でうっとりとしている。
「だいじょうぶ、心配することはないよ」
藤枝は優しげな顔でそういうと、そのまま走り出した。
取り巻きの女の子たちが、「ずっる~い」とか口々に叫んであとを追う。
薫子はあっけにとられ、しばらく立ちつくしたが、ようやく正気を取り戻して保健室に向かった。
うっわあ、なんていうか、恥ずかしい男。
七瀬はぽうっとしていたが、自分が同じことをされれば虫ずが走りそうだ。
保健室に着いたとき、午後の授業の予鈴が鳴った。
「たいしたことないからみんな授業に出なさい」
白衣を着た女性がクールにいう。三十歳くらいのちょっと大人びた知的な美人。保健室の先生らしい。
「うん、だいじょうぶだから」
七瀬も椅子に座りながらいう。
まあもともとたいした傷じゃないのはわかっていた。むしろ心理的なショックの方が心配だっただけだ。
「変な病原菌の心配なんかないんでしょうか?」
藤枝が心配そうな口調でいう。
「だいじょうぶ。抗生物質打っておくから」
保険の先生は邪魔だとばかりにしっしと追い払う。
「じゃあ、先生にはいっておくから」
薫子は七瀬にそういうと、保健室をあとにした。
「君、すごいんだね」
後ろから藤枝が声を掛けてきた。
「すごいスピードで飛び込んだ。それにネズミをけっ飛ばすなんて普通じゃないよ」
ぎくっとした。あまり目立つことはしたくない。学校ではあくまでも普通の生徒としてすごしたいのだ。
「必死だっただけです」
「ふ~ん」
薫子を見る藤枝の目にはありありと好奇心が浮かんでいた。
それを見て嫉妬したのか、取り巻きの女たちがぎゃーぎゃー騒ぐ。うざったいことこの上ない。
「失礼します」
薫子はそういうと、教室に走った。