【落語】ソフトパスカル
熊八 「やあ、ご隠居、やけに上機嫌ですね」
隠居 「おや、石屋の熊さんじゃないかい。そんなにワシが機嫌が良さそうに見えるかい?」
熊八 「ええ、そりゃあもう。なんだか、つきたての餅みてえな顔してますぜ」
隠居 「つきたての餅とは、お前さん、いい例えをするねえ。いや、実はね。最近、寝覚めがいいんだよ」
熊八 「寝覚めがいい?ご隠居、それは年のせいでさあ。年取ると、誰だって早起きになっちまうもんなんです。あっしも最近、妙にトイレが近くなりましてなあ。寝てても夜中に何遍もトイレに起きちまうんです」
隠居 「いや、そうじゃないよ。寝覚めがいいってのは、よく眠れているせいなんだ。最近、寝具を変えたんだよ。羽布団に変えたんだ。これがフワフワで柔らかくて、実に寝心地がいい。朝までぐっすり、トイレにも行かずに寝れてしまうんだ」
熊八 「へえ、羽布団ですかい」
隠居 「今日は天気がいいから、そこに干してあるから見なさい。どうだい、まるでお空に浮かぶ雲のように軽くて柔らかそうじゃないかい」
熊八 「ああ、これは軽そうですな。今にも飛んで行きそうですよ。でもね、あっしはちとこういうのは苦手だなあ。長年、煎餅布団で寝ているせいか、どうも布団は重みを感じないと、寝れないんでさ。以前、新しいのに変えたら、妙にそわそわして落ち着かなくて、結局、朝まで一睡もできなかったんです。次の日から、また古いのに戻したら、ぐっすり寝れましたよ」
隠居 「お前さんは、どうもそういうところがいけないねえ」
熊八 「長年の貧乏性なもんで、今更、仕方ないんでさ」
隠居 「そういうことを言っているんじゃないよ。貧乏性がどうのこうのという話じゃあない。お前さんは、どうも人間が固いじゃないかい。人間というのは、もっと柔軟でなきゃいけないよ。もっと頭が柔らかくて、新しいものにも開かれてなきゃ、人生は楽しめませんよ」
熊八 「石屋なもんでねえ。硬い方が得意なんですよ」
隠居 「熊さん、お前さんは石屋だけに、硬いものの味方かい。柔らかいものより、硬いものの方が優れているっていうんだね?」
熊八 「そりゃそうですよ。だって、人間ってのは、硬いものに支えられて生きてきたんですよ。木だって石だって、硬いから役に立つんですよ。今、我々が座っている縁側だって、硬くなけりゃ、モノの用を足せませんよ。トンカチだって、釘より柔らかかったら、打てないじゃないですか。だから、柔らかいものより、硬いものの方が、人間にとって有用なんです。その証拠に、硬いものを測る尺度はあっても、柔らかいものを測る尺度はないじゃありませんか」
隠居 「と、言いますと?」
熊八 「硬いものは、ご隠居もご存知でしょうけど、硬度という単位で測るんです。世の中にはね、モース硬度というものがあるんですよ。それによると、一番硬いのが、硬度10のダイヤモンド」
隠居 「ほう、お前さん、物知りだねえ」
熊八 「硬度9が、サファイヤやルビーです。硬度8がトパーズ、硬度7が水晶。ちなみに人間の爪は、硬度2なんです」
隠居 「なるほどねえ。こりゃ、見直したよ、博識だ。でもね、熊さん。やっぱり、人間にとって有用なのは、柔らかいものだよ。お前さんは知らないだろうが、世の中には、ちゃんと柔らかさを測る単位があるんだよ」
熊八 「へえ、そうですかい?聞いたことないな。軟度とでも言うんですかねえ?」
隠居 「そんな物置みたいな名前じゃないよ。もっとハイカラなものがあるんだよ」
熊八 「それは何です?」
隠居 「ソフトパスカルっていう単位だよ」
熊八 「ソフトパスカル?なんか気圧の単位みたいですな」
隠居 「どうだい、洒落てるだろう。さっきお前さん、硬度は数字が大きいほど、硬くなっていったよねえ。それと同様、ソフトパスカルも、数字が小さい方から大きくなるに従って、柔らかさも増していくんだよ」
熊八 「ほう、例えば?」
隠居 「例えば、ほどほどに柔らかい、つまり普通の柔らかさのものがあるとする。これが、ソフトパスカル1だわな。ソフトパスカル1の代表的なものと言えば、アンパンだ」
熊八 「アンパン?まあ、ほどほどに柔らかいと言えば、ほどほどに柔らかいですな」
隠居 「ソフトパスカル2が、ジャムパン」
熊八 「アンパンよりジャムパンの方が柔らかいってことですか?」
隠居 「そらそうだろう。ギッシリ詰まったアンコよりも、ジャムのほうがスプーンですくいやすいじゃないかい」
熊八 「まあ、そう言われてみれば、そうかもしれませんが」
隠居 「で、ソフトパスカル3となると、クリームパンだ」
熊八 「またパンですかい?ご隠居の言うソフトパスカルってのは、パンの柔らかさを測る単位なんですかい?」
隠居 「いや、そうじゃないよ。柔らかさ全体を測る尺度であることには変わらない。これは、代表的なものとしての話なんだ。パンで言えば、分かりやすいじゃないか」
熊八 「人によると思いますがねえ。ま、いいや。でも、ジャムパンよりもクリームパンの方が柔らかいってことですか。うーん、いまいち根拠が分かりませんな」
隠居 「お前さんね、クリームパンを食べたことがないのかい?」
熊八 「いや、あるにはありますが、実際どんな柔らかさだったか、そんなに覚えていませんや」
隠居 「ではこの際、覚えておきなさい。クリームパンってえのは、柔らかさが命なんだ。だからジャムパンよりも柔らかい」
熊八 「分かりましたよ。じゃあ、ソフトパスカル4は?」
隠居 「柔らかクリームパン」
熊八 「何ですか、それ」
隠居 「クリームパンの柔らかいやつだよ」
熊八 「分かってますよ。またクリームパンじゃないですか」
隠居 「パンもフワフワだし、中からクリームが蕩けて、口の端からこぼれ落ちるんじゃぞ。いっぺん食べて見たら世界が変わるぞ」
熊八 「分かりましたよ。結局、パンじゃないですか」
隠居 「ソフトパスカル5は、もっと柔らかクリームパン」
熊八 「同じじゃないですか!どうせ、しばらくクリームパンが続くんでしょ?」
隠居 「そうとばかりは限らんぞ」
熊八 「そんなら一応、聞いておきましょうか。一番柔らかい、ソフトパスカル10は何なんですか?」
隠居 「それは、柔らか食パン、耳なしサンドウィッチ用、薄切りじゃ」
熊八 「やっぱり、パンじゃないですか。ちなみにフランスパンは?」
隠居 「あれは硬度じゃ。硬度6」
熊八 「それじゃ、バットより硬いよ」
隠居 「あれはパンというより凶器じゃ」
熊八 「もういいですよ、さよなら」
隠居 「いやいや、待て待て。これからがソフトパスカルの真髄、柔らかさが硬さよりも優れたところなんだよ。さっきお前さんは一番硬いのが硬度10のダイヤモンドだって言ったろう。硬いのはそこでおしまいだ。でもソフトパスカルは、まだ先がある。10より上があるんだよ」
熊八 「10より上?柔らか食パン、耳なしサンドウィッチ用、薄切りよりも柔らかいパンがあるってんですかい?」
隠居 「いやいや、パンはソフトパスカル10までじゃ。そこが固体としては最も柔らかい領域じゃよ。だがな、ソフトパスカル11からはもう、液体の領域になるんじゃ」
熊八 「液体の領域、ねえ。一応、聞きましょうか」
隠居 「よくぞ聞いてくれた。11はな、カニクリームコロッケじゃ」
熊八 「固体じゃないですか!」
隠居 「お前さんは、あれを固体と言えるのかね?衣に包まれているからかろうじて形を保ってはいるが、本来、不定形の、形を持たない食べ物じゃぞ。個体に見えて、その実、液体の特徴そのものじゃぞ」
熊八 「カニクリームコロッケを食べた話は聞いたことがあっても、飲んだなんて話は聞いたことありませんや」
隠居 「まあ待て。液体の領域と言っても、定規で線を引いたように、ここからこことはっきり分かれる訳ではないでな。移り変りがあるのだよ。正確に言えば、ソフトパスカル11は、固体と液体の中間だ。12からは、完全に液体じゃけどな」
熊八 「へえ、そんなんですかい。じゃ、12は?」
隠居 「まあ急ぐでない。まだ11について語り終わってはおらん。しかし、なんだ。ワシは常々、カニクリームコロッケには物事の不思議を感じておってな。自然界の摂理と言うか、宇宙の神秘じゃな」
熊八 「ただのカニクリームコロッケが話が大きくなりましたね」
隠居 「ただのなどと申すものではないぞ。そもそも先ほども言ったように、あれは固体なのか液体なのかどっちなのじゃ」
熊八 「固体に一票」
隠居 「固体であれば形があろう。じゃが、あの不定形の、フワフワしたものを衣で包んで揚げるという発想が、そもそも奮っておるな。一体、誰が考えついたのじゃろう」
熊八 「どうせどこかの料理人でしょう。そんなこと気にしたこたございません」
隠居 「しかもあれは、ご飯のおかずとして適当なのかどうかも分かりかねる。洋食屋でカニクリームコロッケ定食を頼むと、白いご飯が付いてくる。一応、おかずとして食べてはみるが、どうもご飯に合っているのかどうなのかしっくり来ない。だいたい、あれは何をかけるべきなのだろう?ウスターソースをかければ、衣とご飯の相性は抜群じゃが、中のクリームとはいまいち合わない気がする。一方、タルタルソースをかければ、中のクリームとは相性がいいが、ご飯のおかずとしては合わなくなる気がする。そもそも、一体、カニクリームコロッケというのは、ご飯のメインのおかずとして相応しいのか、それとも何かの付け合わせとして食べたときに最大限の威力を発揮するものなのか、この辺りも不定形で形が定まらぬ、実に不思議な食べ物なのじゃよ」
熊八 「ご隠居、カニクリームコロッケだけで随分、語りましたね」
隠居 「それでは、ソフトパスカルの続きと行こうか。12は、ポタージュだぞ」
熊八 「なんか、賛成できるのかできないのか、もうよく分からなくなりました」
隠居 「異論はなかろう。ポタージュは液体じゃ。トロトロしておるがな」
熊八 「液体に柔らかさの尺度を適用するというのが、もうよく分からないんですが。まあ、いいや。とにかく13は?」
隠居 「13となると、もう液体度合いがかなり高くなるんじゃが、ここが牛乳じゃな」
熊八 「なるほどね。濃い液体だ。じゃ、14は?」
隠居 「14はミルクコーヒー」
熊八 「コーヒーが混ざっただけじゃないですか。15は?」
隠居 「15はまろやかミルクコーヒーじゃ」
熊八 「今度はミルクコーヒーシリーズですかい!?さっきのクリームパンみたいな。どうせしばらく続くんでしょ?きっと16はもっとまろやかミルクコーヒーだ」
隠居 「なんでわかった」
熊八 「分かりますよ!」
隠居 「そんなら、途中は飛ばして、液体の中で一番柔らかいのに行こうかの。ソフトパスカル20じゃ。ここまでが液体の領域じゃぞ。ここから先は、もう気体の領域まで踏み込むからの」
熊八 「まだ先があるんですか。一応、なんです?」
隠居 「ソフトパスカル20は、純水じゃ。不純物を取り除いた、混じりっけなしの、純粋な水。これが液体の中で一番柔らかい」
熊八 「ご隠居にしては、意外とまともな答えでしたね」
隠居 「ご隠居にしてはとは、なんじゃ」
熊八 「いや、科学的なもんですから」
隠居 「ワシはいつだってまともじゃ。まともで科学的じゃぞ。科学的ついでに、ソフトパスカル21以降の世界も教えてしんぜよう。いま言ったように、21からは気体の領域じゃ。これも21から30まで、酸素だの二酸化炭素だの、いろんな気体があるのじゃが、途中は飛ばして、一番柔らかい気体に行くぞ。一番柔らかい、ソフトパスカル30は、水素じゃ」
熊八 「まあ、そうでしょうな。学校で習いましたもん、元素記号とか。原子番号1、宇宙で最も軽い元素の水素ですよ。ということは、これが究極に柔らかいものですね」
隠居 「そう思うじゃろ。じゃがの、これで終わりじゃないんだよ」
熊八 「というと、まだこの先があるってんですかい?」
隠居 「その通り。そこがソフトパスカルの素晴らしいところじゃ。まだ先があるんじゃよ」
熊八 「へえ、それはなんです?」
隠居 「うむ、よくぞ聞いてくれた。気体の領域は、ここまで。30まで。ここから先は、気体を超えた領域。物質を超えた領域じゃ」
熊八 「物質を超えた領域?話がクリームパンから随分先まで行きましたね」
隠居 「余計なことは言わずに聞いていなさい。ソフトパスカル31は、光じゃ」
熊八 「光?」
隠居 「そうじゃよ。お前さん、光の硬さを感じたことはあるかい?」
熊八 「そりゃあ、もちろんないですよ。というか、そんなこと考えたこともなかったな」
隠居 「つまりは、それだけ柔らかい。物質を超えた柔らかさを持っているということじゃよ」
熊八 「いやあ、これはとんでもない。とうとうご隠居の話は、行き着くところまで行きましたね。まさにこれが究極だ。究極の存在まで行っちゃった」
隠居 「ところがどっこい。ここで終わりではないぞ」
熊八 「え、まだ先があるんですかい?だって、物質の究極は光でしょ?ここで終わりですよ。これ以上先なんて、ありゃしませんや」
隠居 「先ほど、物質を超えた領域と言うたじゃろう」
熊八 「ひえー、それは何ですか?」
隠居 「想像してみるのじゃ。ここに光があるとする」
熊八 「へえ、へえ」
隠居 「その光を取り除いたら、何が残る?」
熊八 「光を取り除いたら?何もありゃしませんよ。空っぽだ」
隠居 「そう、その通り。お前さん、分かってるじゃないか。光がなくなったら、後には何も残らない。空っぽだ。つまりは、空だよ」
熊八 「空?」
隠居 「そう、空じゃ。これが万物の究極、ソフトパスカル32じゃよ。仏教で言うところの、色即是空の、空じゃよ。お前さんも、聞いたことがあるだろう」
熊八 「聞いたことはありますけど、ただの言葉だけだと思っていました。実際には存在していないものだと思っていました」
隠居 「ところが、柔らかさの尺度、ソフトパスカルを使えば、ほれこの通り、ちゃんと究極の究極にまで辿り着くことが可能なのじゃ」
熊八 「こりゃ、恐れ入りました」
隠居 「うむ、お前さんも柔らかさの素晴らしさに気づいたであろう」
熊八 「確かにそうです。今まであっしは石屋なもんですから、硬いものがいいものだとばかり思っていました。やはりご隠居の言う通り、人間、柔らかくなくてはいけませんね」
隠居 「そうじゃろう、そうじゃろう」
熊八 「そうと分かれば、こうしちゃいられねえ」
隠居 「おや、熊さん、どこに行こうってんだい?」
熊八 「今からお墓に行って、墓石を、全部クリームパンに変えてきます」




