沈黙のカルテ、風の止む夜
今日の彼は、朝からどこか落ち着きがなかった。
授業中も、黒板よりも窓の外を見ている時間の方が長かったように思う。
気象的には、前日までの強風が嘘のように止み、校内は異様なほど静かだった。
まるで“時間”だけが止まったような午後。
5時間目の休み時間――
廊下で、勝利くんと短く言葉を交わしているのを見た。
二人の間には普段の軽口がなかった。
勝利くんが「何かあったのか」と尋ね、登夢くんはただ「少し、考えてるだけ」と答えていた。
声の調子が、妙に平坦だったのを覚えている。
いつもはシャケくんや雷くんの影に隠れて、うまく感情を殺している登夢くんなのに。
今日、勝利くんと話している時の彼は、わずかに綻びを見せていた。
勝利くんの真っ直ぐな視線が、登夢くんが必死に隠している『異変』を、無意識に暴き出そうとしている。
勘のいい友人を持つことは、彼にとって救いになるのか、それとも……。
放課後、私は偶然、中庭の方から灯りを見た。
教員の見回りとして向かったが――そこに、彼がいた。
草薙 登夢。
月光を背に立ち、動かない桜を見上げていた。
声をかけようとしたが、何かが私を止めた。空気が重く、足が動かない。
彼が“誰か”と話している声が聞こえた。
低く、抑えた声。雷くんだ。
ふたりの間に漂う静けさが、どこか切実だった。
「……今度こそ、守る」
その一言だけ、はっきり聞こえた。
登夢くんの声だった。
彼は、何から“誰を”守ろうとしているのだろう。
***
その夜。
誰もいない保健室は、妙に静かだった。
窓の外では、闇に沈んだ桜の枝がほのかに揺れている。
私は、机の引き出しの奥――二重底の下に隠してある古い封筒を取り出した。
封はとうに破られている。
病院時代の知り合いから預かった、もう十年以上も前の極秘資料。
『草薙本家・火災事故報告書』
被害者は草薙本家、全員死亡――そう記されている。
だが、「行方不明者」が一名。当時三歳の男児。
記録の端に、赤いインクで書き足された名前がある。
草薙 登夢。
その名前を見た瞬間、指先の震えが止まらなかった。
頭の中に、いくつもの断片がよみがえる。
先月の倉庫街事件。
救出にあたった登夢君。
そして、彼が相手にした**“ミラーシェードの男”**。
――動き、呼吸、間合い。
私の記憶の奥で、かつて救急病棟で見た**「実験被験者」**のデータと、その影が重なる。
草薙流古武術を、戦闘システムとして再現しようとしていた忌まわしい研究。
あのときも、指導員たちは無表情なサングラス(ミラーシェード)をしていた。
(……奴らが、戻ってきたのね)
雪の季節に燃えた家。
灰の中で見つかった一枚の小さな手形。
登夢君はその夜、何を見たのだろう。
そして――どうして生き延びたのだろう。
私は書きかけの観察ノートを閉じ、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「……沈黙の闇、か」
この学園の裏で、またひとつ花が散り、別の花が咲こうとしている。
登夢君たちがまだ知らない過去が、静かに息を吹き返しているのだ。
今は、ただ見守るしかない。
けれどいつか――その真実が明るみに出る日が来るだろう。
私はノートの末尾に、ひとつだけ書き足した。
備考:
ミラーシェード = 過去の火災事件との関連、極めて高。
登夢君にはまだ告げない。
――いや、今は決して告げてはならない。
彼の中の“恐れ”が覚醒したとき、その拳が『守るため』ではなく『壊すため』に振り上げられたとき、この学園の静寂は終わる。
そして彼らの短い青春の静寂は、永遠に終わるだろう。




