第八話:穏やかな日々と、聖都からの誘い
鉄血司教ヨハネスが嵐のように訪れてから、一ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、街路樹の葉が少しずつ色づき始めている。俺たちの教会にも、確かな変化が訪れていた。
ヨハネス司教からのお墨付きは絶大な効果を発揮し、教会の評判は瞬く間に街中に広まった。今では日曜の礼拝堂は信者で満席になり、セレスティーナは子供たちに聖典の読み聞かせをしたり、人々の悩み相談に乗ったりと、聖女として充実した毎日を送っている。
「レイさーん! この棚、もう少しだけ高くしてもらえませんかー?」
「……分かった」
俺も、すっかりこの教会の雑用係が板についていた。壊れた備品の修繕から力仕事まで、何でもこなす。血の匂いから遠く離れた、オイルと木の香りがする日常。悪くない。
その日、俺とセレスティーナは二人で街へ買い物に出ていた。
「わあ、このリンゴ、とっても美味しそうですね!」
果物屋の前で足を止め、目を輝かせるセレスティーナ。その無邪気な横顔を眺めていると、店の看板娘が俺に声をかけてきた。
「お兄さん、いつも聖女様のお手伝いご苦労様! よかったらこれ、サービスするよ!」
そう言って、娘さんは艶やかな視線と共に、一つのリンゴを俺の手に握らせた。
「……どうも」
俺が素っ気なく礼を言うと、隣にいたセレスティーナが、ぷくりと頬を膨らませているのに気づいた。
「……私、あっちのお店を見てきます」
「おい、どこへ行く」
「すぐ戻りますっ!」
分かりやすいヤキモチに、思わず口元が緩む。俺が彼女の手を掴んで引き止めると、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
帰り道、夕日に照らされた道を並んで歩く。
「あの、レイさん」
セレスティーナが、おずおずと口を開いた。
「レイさんは、ここに来る前は……どんな場所で、何をされていたのですか?」
その問いに、俺の足がわずかに止まる。脳裏に浮かぶのは、硝煙と鉄錆の匂い。信じることも、裏切られることにも慣れきっていた、灰色の世界。
「……大したことはしていない。ただ、生きていただけだ」
俺がそう言って誤魔化すと、彼女は何かを察したように、それ以上は聞いてこなかった。ただ、少し寂しそうな顔で、俺の横顔をじっと見つめていた。
教会に戻ると、一通の手紙が届けられていた。
差出人の名はない。だが、その封筒に使われている上質な羊皮紙と、教団本部の紋章が刻まれた荘厳な封蝋が、これがただの手紙ではないことを物語っていた。
俺が見守る中、セレスティーナは緊張した手つきで封を切る。
中の書状を読み進める彼女の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「聖都……大神殿……。私を、表彰……?」
書状の内容は、ヨハネス司教からの強い推薦を受け、聖女セレスティーナの類い稀なる聖性を称え、教団本部より正式な表彰を授与するというもの。そして、その謁見式のために、聖都まで赴くように、と記されていた。
表向きは、この上ない名誉だ。
だが、俺の頭にはヨハネスの警告が鳴り響いていた。『いずれ、あの聖女の純粋な力に目をつけた者たちが、聖都へ彼女を呼び寄せ、利用しようとするだろう』
――来たか。
「ど、どうしましょう、レイさん……。私なんかが、そんな場所へ行っても……」
不安げに揺れる翡翠の瞳。俺は彼女に問いかけた。
「どうする? 教団からの正式な命令ではない。断ることもできるはずだ」
セレスティーナはしばらく俯いて悩んでいたが、やがて顔を上げた。その瞳には、司教の前で見せたのと同じ、強い意志の光が宿っていた。
彼女は、俺の目をまっすぐに見つめて言った。
「行きます。……でも、一つだけ、お願いがあります」
「なんだ」
「レイさんも、一緒に来てください。あなたが傍にいてくれたら……私、きっと、大丈夫ですから」
その言葉に、迷いはなかった。
俺は静かに頷く。
「ああ、分かった。どこへでも付き合う」
この辺境の街で手に入れた、温かく穏やかな日々。
それは、終わりを告げたのかもしれない。
だが、この手を守るためなら、どこへでも行こう。たとえその先が、教団の闇が渦巻く巨大な伏魔殿であろうとも。
元・最強暗殺者とポンコツ聖女の、新たな旅が始まろうとしていた。